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日本リーダーパワー史(53)辛亥革命百年②孫文を助けた日本人たち・・・宮崎滔天、秋山定輔ら①

   

辛亥革命百年・孫文を助けた日本人たち宮崎滔天ら①
 
前坂 俊之
(静岡県立大学名誉教授)
 
来年(2011年10月10日)は現代中国の発端となった辛亥革命からちょうど100年を迎える。<孫文と支えた日本人~知られざる辛亥革命の志士 梅屋庄吉>については、この欄でも紹介したが、梅屋についてはさらに引き続き研究レポートを掲載する。今回紹介するのは宮崎 滔天(みやざきとうてん)である。
日本に亡命してきた孫文を献身的に支え、応援し、梅屋ともども辛亥革命の成功に導いた影の功労者は宮崎滔天である。米国に在住していた華僑や海外の同胞による資金援助、バックアップも大きいものがあったが、それ以上に10年に及んだ孫文の日本での亡命生活によって、日本が孫文の最大の革命拠点になっていたことを忘れてはいけない。
中国本土での孫文記念館や中国共産党の歴史記念館を見学しても、孫文をたすけた日本人への言及は多くない。というよりも、その後の日中間の不幸な歴史のねじれ現象によって、中国圧迫、侵略の歴史の方がどうしても強調されがちである。確かに侵略したことは間違いないのでこの点もやむを得ない面もあるが、欧米列強のアジア侵略を中国の革命家・孫文やインド、ベトナム、フィリピンらアジア各国の独立革命家と手をたずさえ阻止しようとする「大アジア主義者」の日本人たちがいたこともまた事実であり、日本人さえこのことをよく知っていない。
21世紀の超大国中国と日本が提携して「チャパン」となって、韓国、台湾などとも「東アジア共同体」をめざす必要こそ、日本の国家戦略として、志向すべき1つの方向ではないか。かつて、宮崎滔天はそのことを望み、すべてをなげうって孫文を助けた。
ここで紹介するのは、宮崎滔天の息子・竜介(1892―1971)による『孫文回想記』である。(昭和41年11月12日、朝日新聞講堂でおこなわれた孫文先生生誕100年記念講演の抜粋です)「現代中国と孫文思想(」岩村三千夫編 講談社昭和42年刊に掲載)
 
「孫 文 回 想」
 
 
(宮崎 龍介 弁護士)
 
 ご紹介受けました宮崎でございます。あいにく本日は前歯が抜けておりまして、お聞き苦しい点があるかもしれませんが、そのおつもりでお聞きください。なにしろ七十四歳になりまして、この十一月二日が誕生日でした。、孫文の思い出などを語ることになったわけでありますが、まあ明日を知らぬ命、ひとこと申し上げておいた方がよいと思って参ったわけです。
 
 私が孫文を初めて知ったのは、十三歳のとき、明治三十三年(一九〇〇年)義和団事件のときに、孫文は二度目の革命運動を起こし、これに失敗してヨーロッパへ行きました。そして向うの政治家たちに中国革命の必要なことを訴えたり、あるいは海外にいる華僑の問に、同志を集めることなどに努力していたのでありますが、かれこれしているうちに日露戦争が起って、この戦で日本が勝利したのであります。
これが明治三十八年(一九〇五年)でございます。
義和団事件以後、中国では各地で一揆や反乱が起きまして、清朝政府を倒そうとするグループが少なくありませんでした。しかし何れも失敗に終ったわけでありまして、その主謀者たちは東京にやって来たり、フランス・パリあたりへ亡命したのであります。
ところが日露戦争で日本が勝利したものですから、それらの人々がぞくぞくと東京に集まってきたのであります。日露戦争で日本が勝ったということは、アジアの諸民族に非常なショックを与えたらしい。それまで白人に圧迫されていたアジア人の中で、日本がひとりロシアに勝った。アジア人のために気炎を上げた。日本が独立自主を勝ち取ったということで、全アジア人が日本の勝利をわがことのように喜んだのであります。
 そんなわけで、心ある人々は東京に集まってきた。だが中国の各地で反乱を起して、東京に集まった人々の間には横のつながりが全然なかったのです。そこでこれらを大同団結させて一まとめにする。そして孫文と提携さして、ここで大きな力を作りあげよう。
これが孫文支持者である日本側同志たちの考えであったのであります。そこで時機熱したりというので、明治三十八年の初めに、滔天がフランスに手紙を送り、孫文が日本へやって来ることになったわけであります。孫文が日本へやって来る、途中、スエズ運河を通るときに、あそこの土着の人たちが、孫文の肩をたたいて、「日本が勝ったことを知っているか」と聞く、「知っている。おれはこれから東京へ行くんだ」と答えると、皆が大変に喜んで、孫文の両手をつかんで握手する。孫文自身も張り切って日本に来たという話があります。
 
 
 孫文は日本へ来て横浜の同志の家に泊り、度々東京へ来ては、留学生たちと協議する。この会談の場所は、当時滔天一家が住んで居た内藤新宿番衆町の寓居、新宿にある厚生年金会館の西隣りで、大宗寺横丁の突き当りのところでした。ここに孫文は横浜から通って来ては、三日から一週間位、何回か泊りこんで、留学生たちと連絡をとっていたのであります。その頃私は十三歳なりたての中学一年生でした。
 こうして、中国革命者たちの大同団結ができたのが、その年の夏、いうところの中国同盟会、これを私たちは中国革命同盟会と呼んでいますが、この秘密結社が発会されたのであります。そしてこれが中国革命の原動力となり、中国の近代革命が始まったのであります。
中国同盟会が発会して間もなく、孫文は横浜から東京に移り住むことになりまして、牛込の津久土八幡の裏手のところに家を借り、高野寓と云う標札をかけて住みました。高野の名は高野長英に因んだと云うことです。
 
 辛亥革命ができ、南京に政府が成立することになりまして、孫文は中華民国の臨時大総統に就任したわけですが、しかし北京にはまだ清朝政府の名残りがのこっており、北方軍閥が頑張っておりまして、これをなんとか片付けなければならない。
いわゆる北伐をやって、北京を攻め取らなければ、革命の実はあがらないと云うことになったわけですが、さてこれをやるには、武器がいる資金がいる。何とか日本の援助がほしい。こういうことで、日本へいろいろと折衝があったのでありますが、その中で、いちばん大きなやつは、三井ローンだったようです。これは上海の三井物産の支店長をしていた藤瀬政次郎という人、この人はNHKの藤瀬五郎さんのお父さんですが、長崎の人で太腹な風変りな実業家でした。
 
この人が骨を折って、三井で軍資金を出す。それで武器を買って北伐をやると云うところまで、話がすすんだ。ところがです。これをふち壊したのがその時の元老山県有朋と云う人、これはそのときの軍閥の大御所でしたが、この元老が、中国に革命政府ができることには大反対。孫文を応援することはまかりならぬ。中国に共和政府ができると我が国体を危くすると、こう云いたてて、政府と三井をにらみつけたわけです。
 
 その頃の日本政府は軍閥の政府であり、それにくっついておるのが官僚の勢力だったのであります。政党には殆んど力がなかった。そういう状況でしたので、この奇怪な国体論が日本の政府を動かしまして、そこで三井ローンは駄目になり、北伐ができなくなる。
とうとう孫文は南北妥協に踏み切らなければならなくなったわけです。そして孫文は北京に行き、世凱と話し合って、大総統の地位を世凱にゆずって下野したのであります。孫文が下野した後、日本には桂内閣ができて、日中間に提携の気運が出来かけたことがありましたが、これは陽の目を見ずじまいになりまして、そのあとになって寺内内閣以後は、中国革命に対する支援や協力は、馬鹿々々しいほどの弾圧を受けたものです。
滔天には日夜角袖(公安警察官)が尾行するありさまでした。ある晩、就寝少し前でしたから、十時頃ででもあったでしょう、彼が突然雨戸を開けて庭に飛び降りて、ひとりの男をつかまえ「この泥棒野郎!」と大声でどなりまして、襟首をつかまえて、拳骨でイヤと云ぅ程なぐっております。
 
男の方は「ご免なさい泥棒ではありません」と、しきりに哀願しているのです。やや暫くして、滔天は右手の拳をなでながら、「あの奴床下から飛び出しやがって」と、にやにやしながら上って来ました。角袖が家の床下にしのびこんで、部屋のなかの話を聞いていたわけです。
角袖をなぐって、公務執行妨害などと逆襲されないため滔天は、泥棒野郎! と吸鳴ったわけでした。それから以後は、私共の家は雨戸を取りはずしてしまって、ガラス戸にしてしまい、夜でも外が見えるようにしたのであります。
 
 こんなありさまで、日本政府の中国政策は、一度も前向きになったことがない。日本政府の対中国意地悪政策は、とうとう大東亜戦争まで続いてしまいました。
日本と中国の、両国人民の問には、いつも仲良くしよう、仲良くしなければならんと云う気持ちがあるのですが、しかしどうしても、日本政府の政策は前向きにならないで、逆方向にばかり行くのですが、これは日本のどこかに矛盾が存在しているからではないでしょうか。
例えば大国でないくせに、大国だと思い上っているとか、またアジアの一国でありながら、西欧の国のまねばかりしているとか。数えあげればいくつも指摘できるでしょう。
私は四十年来、ずっと中国革命の裏も表も見て来ましたが、日本の中国政策は、他民族、ことにアジア諸民族の自立とか生存とか、また極東の平和とか安全とか、これらのことを追求しながら共存すると云う、この合理的な路線からいつも脱線して進められて来ているのであります。口では共存共栄とか唇歯輔車とか云いながら、その実、相手方の繁栄や存在を無視する、あるいは犠牲にするといったような方向に進められて来たのでありまして、やがてはそれが却って、自己否定に結果することを見失っているのであります。これは大きな自己矛盾でありますが、残念ながらこの矛盾を自覚していないのであります。
 そこでひとつ、先程ちょっと触れました孫文と桂太郎のことを申上げて置きましょう。それは大正二年のことです。この年は中国の民国二年に当るのですが、この年の二月、孫文が国賓待遇を受けて、日本へやって来たのであります。ところでどのようなことで、彼が日本に来るようになったか、また何のために来たのか、そのいきさつを申し上げねばなりません。
ご承知の通り、中国の武昌(湖北省)に革命ののろしが揚ったのが明治四十四年(1911年)の十月でしたが、翌年の一月に孫文は南京に出来た革命政府の臨時大総統に就任したのであります。
ところが一応政府の形ができあがると間もなく、孫文は革命を援助してくれた日本の人々に、御礼のため、日本に出向きたいと云う意向を示したのであります。それで滔天がこのことを日本に伝えたのですが、特に秋山定輔を介して、日本政府の考えを打診してもらったのであります。この秋山と云う人は、前々から、あまり表面に現われない政界の実力者であったのですが、識見の高い太っ腹な人で、孫文が日本に亡命して居た時から、孫文に対しては色々と力になってくれていました。
 
たとえば中国同盟会の発会式は、赤坂の坂本金弥邸で行なわれたのですが、この坂本と秋山とは棒組の政客で、桂太郎が立憲同志会をつくった時の資金は、坂本が出したと云う話も聞いております。日露戦争が終ると間もなく、秋山定輔は欧州を中心に世界漫遊に出かけまして、帰国後は、日本のアジア政策が転換期に来ておること、日本と中国は提携を密にしなければならないことを考えて、これを政治活動の目標にしていたのであります。
 
ところがそのやさきに、中国革命が成功して、孫文が臨時大総統になったのだから、秋山にとっては、得たりや応と云うわけ。そこへもって来て、孫文が日本に来たいと云って居るのだから、ここでひと芝居うたねばならぬ。
秋山は熟考のあげく、「まだお座敷の掃除ができておらん。お客の訪日を一年延ばせ」と、上海に居た滔天のところへ云ってよこしたのであります。こうして孫文の訪日を一年間延ばして居る間に、秋山は桂をくどいた。三日の問、毎日桂を訪ねて徹夜で口説いたと云うことであります。
 
そして得た結論は、
①日英同盟をやめて、日独同盟と日露協商に切りかえる。
② 中国の建設は孫文に任せる。
③ 桂は国内輿論を背景とした大政党を作り、強力な内閣を組織する。
④ ダーダネルス海峡以東のアジア民族の自立を達成して、これ等と連帯する。
 
 日露戦争で日本が勝ったのは、イギリスのささえがあったからだとか、日本は極東に於けるイギリスの番犬だとか云われていたくらいですから、このイギリスとの関係をたち切ることは、日本にとっては、国策の大転回だったのであります。アジア民族の自立をはかって、これ等と連帯すると云う点は、孫文の大アジア主義の線と一致しているのですが、このことは、孫文と交りのあった秋山はかねてから承知していたのであります。
 
  大正二年の二月には、桂は立憲同志会の結成をやりましたが、これと見合って、孫文が日本にやって来たわけです。孫文が東京に着いたのが二月十三日でありました。
日本へ来た孫文は、国賓の待遇をうけて日本の各地を廻り、横須賀の軍港を見る。九州では三池炭坑の坑内まで見学する。大阪では造兵廠も見るという具合で、朝野から大変な歓迎を受けたのであります。この歓迎は孫文にとっては非常な喜びでしたが、しかし孫文に最も満足を与えたのは、さき程申した桂からの四つの提案だったのであります。桂と孫の会談で通訳に当った戴天仇は、その著書『日本論』の中で云って居ります。
 
 「……中山先生と密談二回に及んで居る。この両度の密談中、桂は中山先生と肺肝を吐露して語った。このことがあってから、桂太郎と中山先生とは相共に心服し、相互に大に嘱望するところがあった」
 ですが、残念なことに、孫文が希望に胸ふくらませて帰国してから幾何もなく、桂太郎は急に病を得て亡くなったのでありまして、そのために、せっかく出来た立憲同志会は分裂する、内閣は倒れると云った混乱が起り、このために孫文が抱いた期待も希望も、すべて頓挫してしまったのであります。
 
この時の孫文の落胆を戴天仇は、
「桂の死後中山先生は『日本には今や、共に天下の大事を語るに足る政治家なく、東洋大局の転移は更に現在の日本に望むことはできなくなった』と欺いた」と書いております。桂以後の軍閥の実力者は寺内正毅、これは長州閥で山児有朋の一の子分でしたが、これが内閣の首班になり、国際的には日英関係を一層緊密にしまして、中国に対しては蓑世凱をはじめ、北洋軍閥を露骨に援助すると云う方向をとるようになりました。
 
これは日本に対するイギリス外交が効を奏したのかも知れませんが、この日本の方針は大東亜戦争にいたるまで、一貰して続けられたのであります。寺内内閣がやった西原借款や、蓑世凱の帝政を画策した奉安会の組織や、大隈内閣時代の対支二十一条の押しっけなどは、その最なるものでありまして、中国に対する強行政策の積み重ねが、とうとう日華事変となり、大東亜戦争となったのであります。
 ここで私は、私個人のことになりますが、ひとことお話して置きたいことがあります。それは昭和十二年のことであります。例の盧溝橋事件の直後でありますが、南京へ行けと言われまして、憲兵隊につかまったことがあるのであります。その頃、中国では蒋介石が北伐をやって北京まで進み、南から北まで統一の形勢をつくりまして、そこへ日本軍が山海関を越えて北京にはいっていく。そして梅津、何応欽協定ができたりしまして、北方が日本からの圧迫を受けると云うこのときの日本政府は第一次近衛内閣。この近衛内閣ができますと、秋山定輔は近衛公を説得しました。この時、秋山はかつての桂と孫文の問題を思い起こした訳であります。
 
中国で蒋介石が中国統一の形勢を作り出した。日本では近衛公が政府を作った。ここで近衛と蒋介石の提携をやらせて、そして極東の安定を計り全アジアの復興を実現しようと考えたのであります。ところで桂と孫の問題のときには、滔天が介添えをしたのでありましたが、父は既に亡くなっております。
 
それで結局、私に使いをさせようと云うことになったのであります。盧溝橋事件が起こったのが、昭和十二年の七月七日だったと思いますが、七月の十九日に秋山邸から私のところに電話がありまして、「すぐに来い」とのこと、元来秋山と云う人は、電話をかけて「すぐ来い」などと云う人じゃない。こっちから面会を申し込んで三度ぐらい申し込まなければ、なかなか時間の取れない位、非常に凡帳面な人だったのですが、向うから来いと云うのだから、何かよくせきのことがあると考えて、私はさっそく秋山邸にかけつけたわけです。
 
すると彼は私に「すぐ南京へ行ってくれ」というのです。「何しに行くんですか」と問いかえすと、いきなり「蒋介石を連れてこい」という命令。その時蒋介石は抗日軍総司令として、保定に頑張っている時です。私は驚いて答えたのです。「向うは抗日軍の総司令ですよ。それを日本へ連れてこい。とんでもないことです。私は神様じゃありません」こういって、私は断りました。
 
「どうしてもだめか」と彼は言う。「私は神様じゃありません。一介の書生ですよ」といって、私はまた断った。すると彼は「それじゃ精衛じゃどうか」と念を押す。その時、精衛はそのとき廬山におりまして、盛んに抗日の宣伝をやっておりました。は行政院長、つまり総理大臣ですね。「これは政治家で、軍人じゃありませんから、あるいは承知するかもしれません。でよければ行ってみましょう。そのかわり失敗して腹を切れと云わないで下さい。私は腹は切りませんよ」と云うと、「よし、それでもいい、行ってこい」こういうことになったのです。
そのとき蒋介石や精衛と何を話してくるのか、秋山は全然言及しない。「何のために彼等に来いと云うのですか」と私が問ねると、秋山はこう云うのです。「おれとお前のおやじとやったこと知っているだろう。それをやるんだ」「その責任は誰が取るんです」と私が問うと、その返事はひとこと「近公が取る」と答えたのであります。
そしてつけ加えて「すべてお前が思う存分やればよいのだ」という。それで私はこれは大変なことを仰せつかった。これは命がけの仕事だと思ったんですが、まあしょうがない、行こうと決心したわけです。それで、その月の二十三日の晩、東京駅を避けて新橋駅から出かけました。船は翌朝出帆の長崎丸でした。
 
そして二十四日の朝神戸で船に乗りましたが、出帆まぎわに、船の中で憲兵隊員に捕り、神戸の憲兵隊分隊につれて行かれましたが、私はその晩神戸から東京につれてこられ、板橋の憲兵分隊に一週間監禁されました。私の家は家宅捜索されるやら何やら、いろいろのことがありましたが、こうしてとうとう目的は達せらずじまいになったのであります。これは私の行くことが軍でわかったらしいんです。
 
私が蒋介石にうった電報を軍が読んで、憲兵が私に尾行しておったと云うことが後になって判りました。ともかくも何事もなく二週間で帰されてよかったわけですが、結論は近衛公の私的な依頼を公的な命令だと思ったことが間違いだったという始末書を書けと言われまして、先方で書いて来た書類に署名してそれで済んだのであります。
 
折々の事件の裏には、識見の高い隠れた政治家があったのでありまして、そういう人の言うことなら、ひとつ命をかけてもやろうかという気を起こしたこともあったのであります。過去のいろいろの経験から考えてみますと、今日の日本にはそのような政治家はまず見当りません。国会議員も国務大臣もみんな金々々で汚職、政権慾と名誉慾、自分本位の慾ずくめでしょう。民族のことや、人民のことなど全然考えていない。これは憂うべき現象でありまして、ただ腹が立つばかりでどうしようもない。私のような老骨には、もう何の力もございません。ひとつここにおられる若い方々の奮起にまつ外はないのであります。

                                                         (つづく)

 
 
 
 
 
 
 
 
 

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