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日本リーダーパワー史(81)辛亥革命百年(17)孫文と宮崎 滔天の出会いの瞬間<「三十三の夢」より>

   

日本リーダーパワー史(81)
辛亥革命百年(17)孫文と宮崎 滔天の出会いの瞬間
<宮崎滔天の「三十三の夢」より>
 
前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
 
<興中会首領・孫逸仙>
 
孫逸仙の略歴
 
 孫文、字逸仙、広東香山県の人。父祖世々農をもって業となす。君また幼時鋤鍬をとって父祖の業に従い、十三歳の時、つとにハワイに出稼ぎして成功者の一人に数えられたる長兄の招きによりて同処に到り、米人経営の普通学校に入学し、その感化によりて耶蘇教徒となり、長兄の怒りに触れて郷里に逐い返され、再び農夫の業に従えり。
 
時に年十七。里人その才を惜しみ、醸金して広東省城の医学校に遊学せしむ。おること一年、英人経営の香港医学校の開校と同時に同校に転じ、修学五年、優等をもって卒業し、ただちに襖門に至って薬局を開き、貧民に施療して富豪に取りしかは、声望財貨ふたつながら攫取(かくしゆ)するを得て、ためにかえって洋医の妖(ねたみ)を受け、ほとんど堪うべからざるの妨害を受けたり。
 
当時たまたま同地方中シナ青年党を組織せんとするの挙あり。君加わってその一員となり、大いに平生の うんちくを披露して会の前途を戒む。衆みなその見識と抱負に服して、推して首領となす。すなわち興中会の起原なり。爾来修練いよいよ深くして知見ますます広く、故国の状態を憂うるの念また日に切なるを加え、ついに断然、医業を廃して一隅に虎囁(こしよう)しいたりしが、明治二十七、八年の戦役あるにあたり、時機もって乗ずべしとなし、ひそかに軍器弾薬の購入に着手せり。しかして諸般の準備整いおわりしは、すでに馬関条約開始の時なりしをもって、少しく時に後れたるの恨みなきにあらずといえども、騎虎の勢制すべからず。ついに兵を仙頭・西河(せいか)・香港の三所に集め、自ら広東省城に本部を構えてここにおり、時を計り電を発して進軍を始めたり。
 
孫逸仙の後を逐う
 
しかるに隠謀たちまち露顕して、官兵の逆撃に逢い、わずかに脱して襖門に逃がれ、さらに香港に密航して日本に渡り、はじめて胡服を脱し弁髪を断ち、身を洋装に変じてハワイに航し、また進んで米国より英京に入りLが、一朝シナ官吏のためにたぶらかされて、その公使館に幽閉せられ、一命ほとんど風前の燈火のごとくなりLも、天いまだこの英傑を棄てず、事情はしなく公使館外に漏れ、その師友の熱心なる尽力と、時の内閣大臣サースバリー(ソールズベリー)侯の抗議によりて、九死の中に一生を得るにいたれり。
 
すなわち自ら筆をとって幽囚のてん末を記し、英京出版会社に付して刊行せしめ、暗に謝意と告別の意を寓して英国を辞し、一片耽々の志を載せて日本に航し来たれるなり。
 余ら香港を発して航行一週日、夕陽まさに西山に春かんとする頃、船横浜に着す。すなわち一旅宿に投じ、浴を取りて晩食をおわり、日のまったく暮るるを待って余ひとり陳白君の寓を訪う。見覚えある片眼あか画の下稗は出で来たれり。いう、旦那様は二、三日前にどこかに行きましたと。どこかわからぬかと問えば、たしか台湾でしょうという。さらにおまえひとりで留守しているのかと問うに、イエお客様が一人おいでになりますと答う。
 
なんぞ婦女の情郎を慕うに似たるや
 
ただ今そのお客はおいでかと問いたるに、夕刻より運動にお出掛けになりましたという。余はこの客こそは目ざす孫逸仙ならんと思えり。ゆえになお問いを発していわく、そのお客はいつごろどこからやって来たのだと。無邪気なる下稗の答えはあたかも天女の音楽のごとく余が耳に響けり。日く、言葉が解りませんでよく存じませぬが、たしかメリケンから来たのでしょう。ツイ一週間ばかり前でござりましたと。余が心は躍れり。もはや一時の猶予もできざるなり。すなわち下稗に乞うてその出先を捜きしめ、余は戸外にたたずんでその復命を待てり。待って足癖(しび)れ腰痛むにいたるもかえり来たらざるなり。
 
ついに十一時に至ってかえり来たる。告げて日く、どう捜しても判りませぬと。よって空しくその労を謝してひとりとぼとぼと旅宿にかえり、事の次第を南万里に報告し、酒を呼び酔いを買うて眠に就けり。
 
孫逸仙君との初対面
 
 翌朝早起。馳せて再び陳自君の寓に至る。すなわち例の愛橋ある下稗に面し、様子いかにと尋ぬれば、マダおやすみ寝になっています。イザお起こし申さんというにぞ、余はこれを制して庭前を排かいし、彼の起き上がるを待って、
ひとり妄想に耽りいたりしが、たまたまビインと音して扉の開くるに、何心なく顔上げて打ち眺むれば、寝衣のままにて頭を出だせる紳士あり。余を見て軽くうなずきつつ、英語もてお上がりなさいという。これを熟視するに、かつて写真にて見覚えある孫逸仙君その人なり。すなわち一揖し、玄関に上がり、さらに導かれて応接間に入り椅子に渡る。彼また椅子を引き寄せて余と対坐せり。
 
彼は口も漱がず顔も洗わず、ホンの寝起きのそのままなり。余はまずその無頓着に驚けり。しかして少しくその軽躁なるを思えり。すなわち名刺を出だして初対面の挨拶を述べたるに、彼は陳白によりて余がことを知れりといい、かつ問うに広東地方の形勢いかんをもってす。余は彼地の形勢を詳らかにするのいとまなくしてかえり来たりたる理由を述べて、その今日相見るを得たるの喜び
を言明したるに、彼もまた陳白によりて聞きしとて、亡二兄のことより余と陳君と相知るにいたりしことを繰り返し、しかしてまた今日この会あるは天の冥命なりと説き、早くすでに心を許して城府を設けざるもののごとし。
 
余の喜びや知るべきなり。ただその挙止動作の漂忽にして重みなきところ、人をしていささか失望の心を生ぜしめぬ。すでにして下稗は来たれり。いう、ロ漱(ちようず)のお湯ができましたと。彼はしばらくといいっつ出で行けり。かかる間に余はひとり思い惑えり。この人よく四百州を背負って立つべきか、またよく四億万衆の上に政権を揮うべきか。われついにその人を助けてわが志を遂ぐるに足るやいかんと。しかり余は外貌によりて鼎の軽重を判ぜんと試みたるなり。
 すでにして彼は再び出で来たれり。その頭髪を撫でつけ、衣服を改めて椅子に憑りし風采は、実に好個の紳士なりき。しかも余が予想せし孫逸仙はかくのごときものにあらざりき。しかり、余はなおなんとなく物足らぬ心地せり。おもえらくモット貫目(かんめ)なくてはと。ああ余や東洋的観相学の旧弊に陥りて自ら覚らざるものなり。
 余はまず問いを発せり。日く、君のシナ革命をもって志となすは僕かつてこれを知れり。ただしいまだその詳を知らず。願わくは君のいわゆる革命の主旨と、これに附帯する方法手段の詳を聞くを得んかと。
 
 共和政治はまた英雄統一の便法なり 
 
彼はおもむろに口を開けり、日く、「余は人民自ら己れを治むるをもって政治の極則なるを信ず。ゆえに政治の精神においては共和主義をとる。しかり、余やこの一事をもってしてただちに革命の責任を有するものなり。いわんや清虜政柄を執るここに三百年。人民を愚にするをもって治世の第一義となし、その膏血を絞るをもって官人の能事となす。すなわち積弊推委して今日の衰弱を致し、沃野好山、坐して人の取るに任するの悲境に陥るゆえんなり。心あるもの誰か袖手(しゆうしゆ)して傍観するに忍びんや。これわが徒自ら力をはからず、変乱に乗じて立たんと欲して、しかして空しく磋昧せしゆえんなり」
 
余はこの時をもって孫君に許せり 
 
 処女のごとかりし彼は、いつしか脱兎のごとくなり釆たれり。否、一言は二言より重く、一語は一語より熟し来たりて、ついに猛虎深山に囁(うそぶ)くの概を示せり。すなわち言を続けていって日く、
 
「人あるいはいわんとす、共和政体はシナの野蛮国に適せずと。けだし事情を知らざるの言のみ。そもそも共和なるものは、わが国治世の神髄にして先哲の遺業なり。すなわちわが国民の古を思うゆえんのものは、ひとえに三代の治を慕うによる。しかして三代の治なるものほ、実によく共和の神髄を捉え得たるものなり。いうことなかれ、わが国民に理想の資なしと。いうことなかれ、わが国民に進取の気なしと。す
なわち古を慕うゆえん、まさにこれ大なる理想を有する証的にあらずや。またこれまさに大いに進まんとする兆候にあらずや。
 
試みに清虜の悪政に浴せざる僻地荒村に到りみょ。彼らは現に自ら治むるの民たるなり。その尊長を立てて訴を聴かしむるところ、その郷兵を置きて強盗を禦(ふせ)ぐところ、その他一切共通の利害、みな人民自ら議してこれを処理するところ、あにこれ簡単なる共和の民にあらずや。しかり、今もし豪傑の士の起こりて、清虜を倒して代わって善政を数かんか、法を三章に約するも随喜渇仰して謳歌すべし。すなわち愛国心もって奮興すべく、進取の気もって振起すべきなり」
 
孫逸仙君のシナ革命論 
 
 「かつそれ共和の政たるや、ただ政治の極則たること、シナ国民に適合するがためのゆえに必要なるのみならず、また革命を行なう上に便益あり。これをシナ古来の歴史に徴するに、国内ひとたび擾乱の勃興するあるや、地方の豪傑、要処に割拠して互いに雄を争う。長きは数十年にわたりて統一せざるものあり。無事の民、これがために禍を受くるものいくばくなるを知らず。今の世また機
に乗じて自私を営む外強なきを保すべからず。この禍を避くるの遺、ただ迅雷耳を蔽うにいとまあらざる的の革命を行なうにあり。同時に地方の名望家をしてそのところを得せしむるにあり。かくて名声威望ある者をして一部に雄たらしめて、中央政府よくこれを駕御せんか、ついにはなはだしき紛擾を見ずして落着するにいたらん。共和政の革命を行なう上にも便益ありというはこれがた
めなり」
 
シナ国民と共和政治
 
 彼は一種形容すべからざる悲壮の語気と態度をもって、下のごとくに談話を続けり。日く、「ああ今やわが邦土の大と、民衆の多とを挙げて姐上の肉となす。餓虎取ってこれを食らえば、もってその蛮力を振るって世界に雄視するにいたらん。道心あるものこれを用いは、もって人道をひっさげて宇内(うだい)に号令するに足らん。余は世界の一平民として、人道の擁護者としてなおかつこれを傍観すべからず。いわんや身その邦土の中に生まれて、ただちにその痛痔を受くるにおいてをや。余や短才浅知、もとより大事を担うに足らざるべしといえども、今は重任を人に求めて袖手すべきの秋にあらず。ゆえに自ら進んで革命の先駆となり、もって時勢の要求に応ぜんと欲す。天もしわが党に幸いして、豪傑の士の来たり援くるあらんか、余はまさに現時の地位を譲って犬馬の労に服せん。
 
なければすなわち自ら奮って大事に任ぜんのみ。余は固く信ず、シナ蒼生のため、亜州黄種のため、また世界人道のために、必ず天のわが党を祐助するあらんことを。君らの来たりてわが党に交を締せんとするは、すなわちこれなり。兆朕すでに発す、わが党発奮して諸君の好望にそむかざるを努むべし。諸君もまた力を出だしてわが党の志望を援けよ。シナ四億万の蒼生を救い、亜東黄種
の屈辱をすすぎ、宇内の人道を恢復し擁護するの道、ただわが国の革命を成就するにあり。この一事にして成就せんか、爾余の問題は刃を迎えて解けんのみ」
彼のいうところは筒にしてよく尽くせり。
 
しかして言言理義を貫き、語々風霜を挟み、また個中自ら熱情の燃えて盗るるがごときものあり。その弁舌巧妙なるにあらざれども、造らず飾らず、潜々として天真を発紆し来たるところ、実にこれ自然の音楽なり、革命の呂律なり。覚えず人をして首肯せしむるの概あり。しかして談尽くればさながら小児のごとく、田舎娘のごとく、また一事の胸中に凝滞するものなきを見る。ここにいたって余は恥じ入りてひそかに慨悔せり。
 
東洋的観相学の旧弊
 
われ思想を二十世紀にして心いまだ東洋の旧套を脱せず。いたずらに外貌によりてみだりに人を速断するの病いあり。これがために自ら誤り、また人を誤ることはなはだ多し。孫逸仙のごときは実にすでに天真の境に近きものなり。彼なんぞその思想の高尚なる。彼なんぞその識見の卓抜なる。彼なんぞその抱負の遠大なる。しかして彼なんぞその情念の切実なる。わが国人士中、彼のごときものはたして幾人かある。まことにこれ東亜の珍宝なりと。余は実にこの時をもって彼に許せり。
 
 余は孫君に告ぐるに同志南万里あるをもってし、ほとんど酔えるがごとくにして旅宿に帰り、彼を迎えて再び孫君の寓に至り、共に卓子を囲んで閑話暢談せり。すなわち日本の政党談あり、人物談あり、欧米国是談あり、シナの現状談あり、宗教談あり、哲学談あり。談徴に入りて情おのずからこまやかに、繚々綿々として尽きるの期なし。薄暮再会を約して旅宿に帰り、また旅宿を出でてひとまず東都に入れり。
 
石炭販売も失敗せり
 
 東都に入りてまず木翁に謁し、告ぐるに孫君のことをもってすれば、彼はよい土産ものだ、とにかく逢って見ようじゃないかという。さらに外務省にいたり、小村次官に謁して事情を告ぐれば、とにかく報告書を作れといぅ。すなわち秘密結社の現物を捉え来たりたれは、直接逢うて話をしてくれと答うるに、彼はびっくりしてそんなことしてもらってはという。しかれども官員様は官員
様なり。余らは余らなり。いかに官員様が驚きたもうとて、余らほ余らのなすところをなさざるべからず。ついに木翁・平翁の高義によりて東京に一軒を構え、南万里のお雇い語学教師の名義をもって、孫・陳二君と同居することとなれり。
 
 当時余が家政はひどく衰えて、ほとんど飢渇も防ぐべからざるの境に陥れり。すなわち後事を南万里に託して郷に帰り、長崎無名恩人の高義によりて、妻をして石炭販売店の看板を掲げしめたれども、もとより慣れぬ仕事に利潤なく、数月にして損耗し尽くせり。しかも今にいたって恩人の義に報ゆるあたわざるなり。
 
番外記者となる
 
ときにたまたま筑前的野君の電あり。いう、要事ありただちに釆たれと。すなわち馳せて至り謁す。彼いう、われ、新聞を創刊す。しばらく留まって助力せよと。古島一雄君東京より来たりてこれを主宰す。余はすなわち番外記者となりて援助せり。番外記者とはキマリなき記者なり。さて翻訳、さて訪問、さて発送、さて校正、ときにまた新聞折りにまでなり下りて、未曾有の労働に従
えり。しかれども的野社長はついにこぼせり。日く、番外記者ほど高価のものはないと。あるいはしかりしならん。無月給の番外記者、その胃袋が過大なりしためなり。すなわちよく飲みょく食らい、またよく遊びLをもってなり。おること数月、東京よりの急電に接して、旅費を貰うて馳せ上れり。
 
木翁の高義
 
 余は往事を追懐するごとに、いまだかつて木翁の厚情に感泣せずんばあらず。余の東京に至りて翁に謁するや、手ずから数千金を投じていって日く、金がやっとこれだけできた。しばらくは遊べるだろう。急に出発したがよい。今度は官辺の係累なければ、その運動も自在なるを得べしと。なんらの高義ぞ、なんらの厚情ぞ。すなわち相議して即日仮寓を取り片づけ、孫・陳の二君は居を横浜に移し、余と南万里は上海に向かって出発せり。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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