◎「世界が尊敬した日本人―「司法の正義と人権擁護に 生涯をかけた正木ひろし弁護士をしのんで②」
◎「世界が尊敬した日本人―「司法の正義と人権擁護に
生涯をかけた正木ひろし弁護士をしのんで②」
<月刊「公評」(2013年11月号)に掲載>
前坂 俊之(ジャーナリスト)
○私が正木弁護士にはじめてお会いしたのは

ある程度、事件の輪郭が頭に入った一九七四(昭和四十九)年夏。私は夏休みを利用して、呉から上京して3日間、八海事件について話を聞きたいと正木弁護士に初めて手紙を出しました。すぐハガキで返事がきた。御宅の一階右側の八畳間に宿泊してもよいこと、正木弁護士自身のその時のスケジュールとともに、宿泊の条件、心得として次のように記してあった。
『ミヤゲもの搬入禁止、小生の在不在に無関係に滞在のこと、当方の提供するもの、座布団、コタツ、ヤカン、ドビン、茶碗など、風呂自由、小生は二階で仕事、天井で音がするのはあらかじめ承知されたし等々』
明快に述べ、心あふれる文面でした。
昭和四十九年八月三十一日。正木弁護士のは東京のJR(国電)中央線市ヶ谷駅に近くにある事務所兼自宅を訪れました。回りには近代的なビルや建物が立ち並んでおり、その谷間にポッンと取り残されたように、壁一面にツタがおおい、戦後間もなく建てられたままの古ぼけた安普請の木造二階建てのお宅であった。
見ると聞くとは大違い。当時のマスコミで「もっとも有名で、最も尊敬されていた刑事弁護士だけに」、こんな慎ましやかな生活以上の貧乏生活をしていたのかと、マスコミ報道と現実の落差に驚きました。3畳ほどの玄関には破れた粗末なソファが一つ置かれただけ、その横に頑丈な鉄製の大きな金庫があった。焼けてはいけない貴重な資料をここに保存していた。来客用の応接間といったものはなく清貧という以上のその暮らしぶりに胸が熱くなった。
御宅は交通の便のよい一等地だけに、相当な金額で土地を買いたいという話が持ち込まれたといいます。家を改築する話しもしばしば出た。しかし、正木弁護士は頑として受け付けなかった。引越しや、改築によって、仕事が一時的でも中断されるのがイヤだったのです。
「今一番ほしいのは時間なんだね。(当時、正木氏は77歳)、もう十年間ほしい。そうすれば丸正事件も何とかできるし、私の仕事も完成できるしね」と話された。
昭和戦後もすでに三十年。日本が敗戦のどん底から復興して高度経済成長で裕福になっていったのとは逆に、貧苦の中で正木弁護士は棄民として抹殺されていく冤罪者を救援するため、国家権力の最深部まで下降していったのです。両者のコントラストがその家並に象徴されていました。
その夜、風呂をすすめられました。風呂は玄関左側にあり、三畳間ほどの広さで木製の小さな湯舟があった。両側のカベは湿気で腐り、アチコチ破れがひどい。天井のベニヤは今にもくずれそうで、ビニールでおおっていました。
外はちょうど台風の接近で猛烈な雨がトタン屋根を大きな音でたたいていた。そのうち、二、三カ所から雨もりが始まり、天井といわず、カベといわずしずくが一斉に糸を引いて流れ落ちてきたのです。約十分ほどして雨が小降りになると、雨もりも断続的になりましたが、私は二階の書斎で仕事に没頭されている先生のことを思うと思わず涙が流れてきました。
「無実で獄に苦吟している人たちのことを思うと、ぜい沢などできないよ」と話されましたが、きびしく己れを律しておられたのです。
○ 日中戦争、太平洋戦争下の戦いー「近きより」と「首なし事件」
正木弁護士の昭和戦前期の「近きより」によるペンによる戦時下の戦いと「首なし事件」は知れば知るほど驚くべき正義感と勇気とその「推理小説以上」の超人的な記録です。
一九三七(昭和12)年4月、個人雑誌『近きより』を創刊して、時局批判を行うスタートを切っています。この時、正木は41歳。
弁護士業務を始めてからすでに約12年、民事を中心とした中堅の弁護士として活躍し、約3千人の交友者があり、裁判官からの信任も篤く、法曹界でも成功を収めていました。社会正義のためにそれを投げうったのです。
正木は創刊の辞で 「私の本質の中にある公共心と社交性とが私の心臓を雑誌発行の方へと駆りたてた。公共の利益が私欲や無神経のために踏み踊られているのを見ると、堪え難い憤りを感じ、心臓の血圧が倍加して来る。私の信念に従って行動することが、私に許された生命実現の有力なる道であると確信する」
「近きより」の命名はカーライルの言葉の「汝に最も近い義務を果たせ、汝が義務と思う所を果たせ」「道は近きにあり」から取った。「私はあらゆる意味に於て『近きより』始めようと思う」とあり、正木の知行一致の精神が現れている。それまでの売れっ子弁護士の道を捨て、陸軍クーデターによる首相、重臣らを暗殺した二・二六事件から約一年余で、日中戦争勃発前夜の軍靴とファシズムがうねりとなって高まる時代に軍国主義とファシズム批判に敢然と立ちあがったのです。「近きより」は空襲で自宅が焼けた20年五月以降も、ガリ版で毎月休むことなく、最も困難な時代に10年間以上も続けたのです。
『亡国後、数年または十数年の後に生き残った子孫によって、昭和の暗黒時代にもこういう言論があったのか。われわれの父兄たちはこういう悪魔の支配によって、家畜のように殺されたのかという事実を知ってもらいたい』との日本への遺書的な痛切な思いから続行したもので、東条英機首相を真正面から批判する文章も連載しているほどです。
当時、すべての知識人が沈黙して、物言わず、ましてや反対行動に立ち上がった知識人、政治家、エリート、市民が皆無だった中で、正木弁護士の「近きより」の言論抵抗は「日本人の勇気とレジスタンスの記録」として後世に長く伝えるべき記念碑と思います。
1941年12月以降、日本はついに無謀なアジア太平洋戦争に突入します。出征兵士としてかつての教え子たちが大義名分のないこの戦争で、次々に犠牲になっていく姿を座視できなくなる。「自分は正義のために死ぬのはいいけれども日本のことを考えるとおかしい。先生なんとか正義の社会にしてください」と教え子たちからの年賀状や手紙が舞い込む。正木弁護士は言論活動から、行動の世界に一歩踏み出し,命がけの闘争を開始します。
戦争の敗戦が色濃くなってきた1944年(昭和十九)、茨城県那珂郡の炭鉱で現場主任が警察官に殴り殺されたいわゆる〝首なし事件〟が発生し、その弁護を依頼されます。一銭の金にもならないこの事件で、現場に乗り込み、拷問の証拠をつかみ、警察が病死として埋葬されていた被害者の遺体を墓場から掘り出して拷問による出血跡の残る頭部を切断、東大法医学教室に持ち込み古畑種基数授に鑑定を依頼したのです。
正木弁護士は東京から汽車にのって墓堀人と一緒に警察に乗り込み、そのスキをついて夜間に墓場で首を切断し、バケツに入れて、警察に見つからないように東京まで汽車で戻り、鑑定で拷問暴行死の証拠をとり、警察官を告発するまでのスリルに満ちた実話はすごい迫力です。
◎「日本人の正義と勇気とレジスタンスの記録」
特高警察が猛威をふるい、国民のすみずみまで監視の目を光らせていた時代。警察に見つかれば死体損壊罪で抹殺、殴り殺しにされかねません。この間の正木弁護士の命がけの勇気は英雄的なものさえあります。
事件の発生当時、正木弁護士の身を心配した岩波茂雄(岩波書店社長)が貴族院議員・伊沢多喜雄に引き合わせて保護を頼んでいます。伊沢議員はその純粋な行動に胸打たれながらも、ダメ押しのように質問しました。
『君がそれだけ警察側の非をあばこうとするならば、地下三千丈の足もとを掘り返されても何も出てこないという信念がいるけれど、その点は大丈夫かね』
正木弁護士は瞬時に答えました。
『地下三千丈を掘り返されても、私にはやましいところは一つもありません』
その時、伊沢議員は涙さえ浮かべていたという。正木弁護士はこの事件で神の摂理を感じて、神の存在を確したのです。
戦時下の正木の行動については外交評論家・清沢洌は自らの「暗黒日記」の中で「驚くべき勇気と正義の持ち主」の稀有の日本人だと絶賛し、戦時下の日本人の特性について「官僚主義、形式主義、あきらめ主義、権威主義、セクショナ精神主義、道徳的勇気の欠如、感情中心主義、島国根性など日本人の劣性は戦後何十年かたって果たして克服されるのだろうか」と指摘しています。
この「近きより」の現物は昭和四十九年八月にはじめ正木邸に取材にいき、八海事件の取材が一段落して、奥に引っこんだ正木先生は「これを記念にあげるよ」と茶色っぽく変色したガリ版ずり冊子をくれた。それが「近きより」であった。そんな貴重なものが残っているとは思ってもみなかっただけに驚きました。
よくみると、敗戦の日、昭和二十年八月十五日の手書きのガリ版ずりであった。これを読んだ時の感動は今も忘れられない。
『敗戦日本』
日本は降伏した、神の審判は厳に下ったのである
敗北して尚お生存を続けているのは、宏大無辺なる神の恩寵である
神が日本民族絶滅一歩手前に、一度反省の機会を与えたのである
もしこの恩寵を理解し得なかったならば、直ちに 恐るべき最終の審判!
民族絶滅へと移行するであろう、
罪悪の国 日本! 遠き野蛮未開の時代は知らず
中世以後において日本ほど、愚昧にしてかつ悪徳の国があったろうか
(「近きより」昭和二十年九月号)
新聞記者となって以来、常に私の心にあった問題は「ヨーロッパでは第2次世界大戦でファシズムと戦った知識人や国民のレジスタンス運動があったのに、日本ではなぜ知識人、国民に反戦、平和運動は起きなかったのか」という疑問です。正木弁護士に会い、「近きより」を直接、手にした瞬間に、八海事件の解明と同時にこれが一挙に具体的なテーマとなったのです。
(つづく)
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