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日本リーダーパワー史(103)名将川上操六⑯日清戦争の大本営で見事に全軍を指揮する

      2015/02/16

日本リーダーパワー史(103)
名将川上操六⑯日清戦争の大本営で見事に全軍を指揮する
     
<伊藤博文首相とともに最高のリーダーパワーを発揮>
    前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
大本営設置とその運営
日清戦争での大本営設置とその運営については、大本営編制と動員計画書とが同時上奏だったらしく、あわただしい上奏であったが、僅か一時間のおくれで無事裁可となり、即日大本営設置、第五師団に動員下命とはなった。
大本営は、当初参謀本部に設置したが、九月十三日、東京を発して14日、広島着、第五師団司令部に大意を進めた。それから八ヵ月の間、天皇は親征の実を身をもってあげられたのである。もちろん重要事項は御前会議をもって決定された。
田村怡与造少佐手記には、この御前会議についてつぎのように誌されている。
 この御前会議は牙山において開戦〔七月二十八日〕以来、官中に於て毎週2回開かれたり。これに列する者は大本営編制に記載しある首なる機関者、
即ち
伊藤総理大臣、有楢川参謀総長、西郷海軍大臣、川上陸軍上席参謀将校、寺内運輸通信長官、石黒野戦衛生長官、田村兵鈷総監部高級参謀、山県大将(特別に列せらる)大山陸軍大臣、樺山海軍上席参謀将校、角田海軍参謀、野田野戦監督長官、大生高級副官
 特旨をもって列せられたものは、山県大将のみであって、伊藤総理は編制上、当然の参列のように思われるが、編制の定員からすれば特旨列席の記載者にかかるものとみるのが至当であろう。
 渡遽幾治郎氏によれば、伊藤首相は自ら奏請して列せられ、山県は枢密院議長であったが、軍の長老として陸軍大将の資格で、特に列せられたとのことである。山県大将は、まもなく第1軍司令官となって出征したが、その後は外相陸奥宗光が列したとの記録もある。
 この大本営の特色は、何と云って明治天皇文字通りの政戦両略にわたる親裁であるが、これは別格としても、軍事における川上操六中将縦横の統裁振りと、伊藤首相の政戦両略に対する適切な指導とであって、正に特筆すべき事象であろう。
 川上中将は薩摩出身、元来山本権兵衛とは親友だったそうだが、このときは川上は今をときめく参謀次長に栄進していた。一方の山本は、海軍省官房付、大本営では西郷大臣の副官に過ぎなかったものの、このときすでに、実質的には海軍を代表する存在だったようである。
大村益次郎以来、明治第1等の軍略家といわれた川上中将は、参謀総長有栖川宮、小松宮を前後して幕僚長にいただいて、陸海軍幕僚を統制、征清の全作戦を指導した。さすがの猛将樺山資紀も1幕僚として、その指導の下に働かねばならなかったといわれている。
伊藤首相がリーダーパワーを発揮
 
また当時の伊藤首相はもっと油の乗ったときで、全く文字通り国家棟梁の臣をもって任じ、外相陸奥宗光と固く結んで、この日清の紛争を機会として、多年の対韓、対清問題を解決、東亜の大勢力たる地位を確立しょうとしていたので、この戦役を全く自己の指導の下におかねばならぬと決心した。
そこで、まだ宣戦布告なきときに、自ら明治天皇に奏請して大本営会議に列席仰付けられることとなった。その理由は、軍事作戦の状況を詳かにしなければ、外交政略の目的を達することが出来ないというにあった。この卓見機略、敬服の外はない。
 伊藤首相のこの間の事蹟のうち、特に有名なことを一、二列挙するならば、その一つは、八月三日山県大将が、第一軍司令官として出征せんとするとき、軍事、外交の一致を強調し、明治天皇に奏請、山県およびその幕僚に勅語を下賜されたことであろう。
その要は、文武官相反することなく、軍事外交相そごすることなく、また陸海両軍はよく気脈を通じ、出師、首相と韓国駐劉外交官の間、互にその職域を輸越することのないようにというのである。
 更に小村寿太郎を随行せしめて過誤なきを期した。外交上に大なる影響あることは、戦略上の必要があっても避けねばならぬとは、考えようによっては統帥干犯かも知れないが、当時は両者よく協調節調が保たれた。
 政略に関することばかりでなく、自ら任ずる厚き伊藤首相は、大本営会議において忌博なく戦略を論じて、陸海軍幕僚と激論を闘わしたことさえあった。
二十七年十二月四日、伊藤が「威海衛を衝き、台湾を略すべき方略」を大本営に提出し、軍部一部の主張した第一軍は奉天を屠った後、一転して北京を衝き、第二軍は山海関を攻略して天津を陥れ、両軍相呼応すべしという論を退け、清国の海軍未だ撃滅せざるに、かかる策は無謀であるばかりでなく、若し幸に目的を達するも、清朝を瓦解せし聖列国の干渉を惹起するばかりである。
そんな危険な手段をとらないで、威海衛を攻略して敵の死命を制し、また台湾を攻略して他日講和の要求に備えるが上策である、と主張し、樺山軍令部長と激論を闘わしたということである。事実戦局は伊藤首相の方略によって進められた。
 かくて赫々たる戦績をおさめ、二十八年四月二十七日大本営を京都に遷し、五月三十日東京へ移転した。全く復員閉鎖されたのはさらに翌二十九年四月一日であった。
 簡素強力、しかも実際に即し、天皇親臨の下、文字通り同所同室で政戦商略を議決、推進した。もって範とするに足る大本営の運営であったというべきであろう。


日清戦争前夜の参謀本部
 日清戦争の風雲急を告げていたある日、参謀本部で、陸軍の首脳者が集まり、出兵について会議を開き、山県有朋は枢密院議長ながらも陸軍の重鎮として、まず口を開いた。
「両軍の兵勢を考えれば、清国軍に対するわが軍の勝算はあまりにも少ない。ゆえにわれより進んで戦いを求めることなく、かれより来るを待つべきである」
 山県は慎重派であった。しかし、川上は断固として反対して、「われに勝算歴々たるものがある」とて、攻勢作戦すべきである理由を並べたてたが、山県はガンとして譲らない。ここに両者相対して激論が交わされ、議論は平行線のまま。川上はついに怒って、「このオヤジ、兵を解せず!」と放言した。
憤然として色をなした山県はドアを蹴って去った。川上は即座に反省して山県を追って陳謝し、「今や軍国の大事を議論するのに、閣下が去っては、決するところがない」と、心底から陳謝、懇願したので、山県はふたたび会議に列し、ついに出兵に決した。このように大自信家の川上も、一歩を譲ったのが、山本権兵衛であった。
 開戦を決定する最後の伊藤首相以下の最高会議に、川上とともに、海軍省主事山本権兵衛が招かれて、陸海軍の軍状をのべることになった。このとき川上は、陸軍の大軍を朝鮮に上陸させ、それからひたおしに北上して北京にはいるという作戦計画を述べた。
すると、黙って聞いていた山本は、「陸軍の工兵隊に、九州から釜山まで架橋させたらどうか。そうすれば大部隊の陸軍は楽々と戦地へ行けるだろう」と傲然と言い放った。川上が陸軍だけで戦争ができるようなことをいったことに対するしっぺ返しであった。これには川上も大弱り。山本は、制海権のことから、軍隊および食塩・軍需品の輸送、護衛艦隊のことまで詳細に述べて川上の反省を求めた。川上はその説に痛く納得し、翌日、山本を参謀本部に招いて、部員一同にその説を聞かせた。参謀本部の作戦計画は、これによって修正された。
軍令部長の更迭
日清戦争に当面したとき、陸海軍の首脳部を見れば、参謀総長有栖川宮俄仁親王・参謀本部次長(またも名称変更)川上操六・陸軍大臣大山巌・陸軍次官児玉源太郎・海軍軍令部長中牟田倉之助・海軍大臣西郷従道・山本権兵衛は海軍省主事であった。山本は開戦のとき海軍大臣副官になった。
 明治二七年六月五日、大本営の設置が令せられた。当時政府の方針が、必ずしも開戦と決していたわけではなく、この三日前の六月二日に、第五師団が参謀本部から、朝鮮出動の内命をうけ、五日午後一時に動員が合せられたのであるから、大本営の設置は、ずいぶん早かったが、川上の指示であった。
 こうして結成された大本営は、幕僚長俄仁親王・陸軍上席参謀川上操六・海軍上席参謀中牟田倉之助であった。海軍軍令部長の地位は、参謀総長の下位にあった。ところで七月一七日、突如として中牟田は軍令部長を免ぜられて、枢密顧問官となり、枢密顧問官海軍中将樺山資紀が、予備役から現役に復して、軍令部長に任ぜられた。この交代はどういう理由であったか、薩派軍閥が肥藩出身の中牟田を追ったという見方が強い。
 しかし更迭は、ひとり軍令部長だけではなかった。山本権兵衛が海軍省に入るとともに、官房主事という下僚をもって、大臣を動かして、海軍の刷新を断行し、将官八名を含めて八九名の将校を、一度にばっさりと予備役にした。これは必ずしも薩摩閥擁護のためとばかりは見られず、無能者を淘汰したのである。けれどもこうした淘汰の結果、海軍の要路は、おのずから薩派によって占められた。
 こうして戦われた日清戦争には、川上は陸軍上席参謀として、惟帳(参謀部)にあって、事実上陸海両軍の作戦を指導したものであった。参謀総長・有栖川宮俄仁親王は戦争なかばにして死去、陸軍は第一期作戦に連勝し、ついで主作戦たる直隷平野の決戦をなすべく、第二期作戦を準備し、彰仁親王を征清大総督に、川上操六を総参謀長に任じて、新作戦に移ろうとした四月一七日に休戦となった。
日清戦争は連戦連勝の勝利をもって終ったが、三国干渉によって、日露戦争は日本の宿命のようになった。想定敵国はふたたびロシアとなった。
 陸軍はロシア陸軍と満州で雌雄を決すべき作戦計画のもとに拡充された。明治二九年度の予算からそれに着手され、三六年の末までに、大体予定の師団が整備された。
陸軍の軍備拡張は、参謀本部次長川上操六によって立案され、実施された。川上は対清主戦論の急先鋒であったが、日清戦争後は、日露必戦論の確信者であった。かれは日清戦争が終わるや、みずから台湾に赴き、広東、ベトナム、安南を巡視し、さらにウラジオストックから東部シベリアを歴巡し日露戦争の戦略を練っていた。
「日ロ相戦うであろう」
 そして陸軍大学校を充実し、作戦部の人事行政を刷新し、対露戦争にあてる謀将を養成するとともに、参謀本部の全能力をあげて、対霹作戦計画の立案に努力させた。
明治三一年一月、かれは彰仁親王に代って参謀総長に栄転し、その九月大将に昇った。昭和の敗戦まで参謀本部六七年の歴史において、こ参謀総長には一八人がなったが、このうちその名を恥ずかしめなかった智将は、川上と児玉源太郎の二人にまず指を屈する。しかもその任期と功績からいえば、児玉は川上におよばず、川上こそわが陸軍軍令界の空前絶後の名将であった。
当時の川上は、陸軍軍令府の首脳者であったというよりも、むしろ全陸軍の中枢人物であった。当時陸軍には、山県有朋・大山巌・野津道貫・桂太郎の諸将がいたが、対ロ作戦の用兵計画の知と能、インテリジェンスは、とうてい川上に匹敵するものではなかった。対ロシア戦に焦慮していた陸軍としては、川上がその中枢人物であった。
しかし、川上は、長年の異常の激務のために健康を害し、明治32年年5月2日、五二歳の壮年をもって倒れた。陸軍だけでなく朝野をあげてその死を惜しみ、「ああ川上あらしめば!」の嘆声を発した。来るべき対ロ戦争での彼の能力への期待が、絶大であったことの証明だった。

 

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