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日本リーダーパワー史(96)名将・川上操六⑭日露戦争勝利の忘れられた最大の功労者

      2015/02/16

日本リーダーパワー史(96)
名将・川上操六⑭日露戦争勝利の忘れられた最大の功労者
近代陸軍創設の五天王は山県、大山、川上、桂、児玉>
 
前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
 
リーダーなき日本の迷走と没落、いまこそ明治のリーダシップに学べ
 
この半年間、鳩山、菅の民主党丸の迷走と、リーダーシップのない暗愚の小沢一郎らによる日本政治のドタバタ、お粗末ぶりを毎日毎日、いやになるほどメディアで見ながら、国家が没落、衰退していくのは、まさしくこういうことなのだと痛切に感じた。
昭和十年代の戦時下の政治の混乱、日中戦争、大東亜戦争に突入した段階での日中戦争の泥沼と混乱の世相、その後の対米戦争での敗戦に次ぐ敗戦、玉砕、全滅の悲報の暗いニュースが連日報道されていた70年ほど前の世相とダブって見えてくる。
そこへ9月の尖閣諸島周辺海域で中国漁船衝突をめぐる日中対立問題が突発して、中国側が繰り出すジャブの連打に日本側はあっさりノックアウトされてしまった。
日本側に外交インテリジェンス,歴史インテリジェンスのないことを再びさらしてしまい、世界に大恥をさらしたのじゃな。
仙谷や枝野が『中国は法治国家でない、われわれの認識不足だった』などという無知なコメントをしているのも聞いているほうが全くは恥ずかしい。
中国外務省の報道官の言語明瞭、意味明確な大声、流ちょうなコメントに対して、日本側の仙谷官房長官の言語不明、意味不明な、「戦略互恵関係」をバカの1つ覚えで繰り返し「冷静」「粛々」(一体どういうこと、意味不明じゃないのかね)と対応する、といいながら慌てふためいて、中国側の怒りを鎮めるために船長は処分保留で急きょ釈放する、それでもレアアースの輸出禁止がとけないので、こんどは菅首相がヨーロッパまで温首相を追っかけて行って何とかあってもらって廊下で雑談をする(これは首脳会談なんていうものじゃない、廊下の座り話)、これで強硬な措置を勘弁してほしいとお願いしているのじゃな。
これが残念ながらこれまでの日本の外交のやり方だんたんですね。これまでブラックボックスだった外交をメディア、インターネットによってか可視下したので、この無様な様子をさらしただけの話。
ようは日本側の言語障害的な口モグモグ、あいまいスローモ、何を言ってるのかよくわからない会見を180度変える。ホワイトハウス的な専門の報道官によって世界に明白なメ―セージを出して、国際コミュニケーションに勝つ戦略を考えねばならない。
それと日中コミュニケーションのギャップ、日本人と中国人の表現の違い、価値観、行動形式、プレゼンテーションのギャップ、日中間歴史のギャップ、日中のケンカの仕方の違い、日中カルチャー・コミュニケーションギャップを徹底して研究し、まず政治家、官僚、メディア、国民ががしっかりそれを勉強していく以外にない。
それと、今回の事件を通じて日本と中国との政治、経済、軍事のパワーバランスでは日本がすでに大きく負けてしまったことを残念ながら日本は認識する必要がある。すでにアジアでは中国がナンバーワンで、日本は2位以下で、大きく差が開きつつあるという事実こそ冷静に認識すべきなのだ。
こんな腹のたつニュースをみながら、日本の明治維新からの発展、国家興隆をになった最大のリーダーは一体だれなのか、これまでいろいろ考えてきた人物についてもう一度、歴史書を読みなおして考えてみた。そして、今は忘れられてしまっているが、川上操六などはまさしくそれに該当する人物であることを再確認したのじゃな。
明治初期のの弱肉強食、植民地主義の世界の中で、デビューしたばかりの最弱小国・日本は亡国にならない道をどう歩むか、100年の国家戦略について世界中の戦争、紛争、侵略したヨーロッパの列強、侵略されたアジアの弱小国(日本も同じく其の運命にあった)国々をインテリジェンスして、日清、日露戦争の勝利の方程式を考え出した最大の戦略家は、島貫重節『福島安正と単騎シベリア横断(上)』を勉強して、これまで連載してきた川上であることを再確認したのじゃ。川上はけた外れにすごい、今日、こんなに豊かになったわれわれ日本人が足など向けて寝られない大恩人である。明治のリーダーはだれも立派で、先をよく考えていた、今の政治家とは大違い、見習えじゃ。以下でその理由を上げる。
 
① リーダーは優秀な若手を抜擢し、10年、20年かけて長期的に育てよ。
 
 明治十年の西南戦争で西郷隆盛を葬り去ってしまった明治陸軍は、まことに哀れな存在であった。明治維新の戦功第一といわれ、陸軍大将第一号の西郷隆盛を、理由は何であれ殺してしまった陸軍の運命は果して立ち直ることができるであろうか。

実際は薩摩、長州の藩閥抗争などがこの不運の原因の大きなものの一つであったといわれていた。、明治十年以降の陸軍主脳部にあっては、つとめて旧藩の派閥解消に努力はしたが、なかなか旧来の悪い習慣を除去することは容易にできなかった。

特に心ない者の中には西南戦争の怨痕を一層拡大していた例も少なくなく、特に人事の昇任、補職等の機微な点がその後も永く糸をひいていた事実であった。
当時の陸軍最高の主脳は有栖川宮
仁親王で明治維新の時の江戸征討軍の大総督であった人で、明治初年に入って兵部卿(陸軍大臣)を務められた陸軍最高の人である。

 次が江戸征討軍参謀の西郷隆盛であったが、その亡き後は山県有朋中将が代って実質的には全陸軍を指導しており、そして長州の山県中将を補佐する人として薩摩の西郷従道と大山巌の両中将がいた。

明治十六年暮のことであるが、今後の陸軍を建設し、特に近代化を推進するための調査研究を目的とした欧米視察団派遣を計画中であった大山陸軍卿は、この視察団員の人選を決定するにあたり、次の方針を定めた。

① 陸軍の近代化を推進するため思い切って人事の若返りを断行する。これがため当時三十五歳の川上操六、桂太郎の両大佐を抜擢し、この両名に新陸軍建設の主任を命じ、川上大佐は作戦運用を主務とする参謀本部関係(軍令事項という)桂大佐は人事・予算・制度等を主務とする陸軍省関係(軍政事項)と、それぞれ分担責任を明確にさせる。
② そして薩摩出身の川上と長州出身の桂両大佐とが真に協力一致して、旧来の藩閥抗争の解消の模範たらしめる。
欧米視察にあたっては両大佐を主席随員とし、その他の随員にそれぞれ任務を分担させて、最後はこの両主席が協力してまとめ上げるよう組織化する。
右の方針は山県、西郷、大山の三名の中将が有栖川宮邸に参上し、その承諾を得て決定し、これが実行は一切を大山中将に委任され、結局この視察団の総裁も大山陸軍卿自身でやることになった。
② 明治リーダーの必勝法は決断し、命令し、誓約させ、断固実行させる

 「これは有栖川宮殿下と山県、西郷両中将閣下の立ち会いのもとに決定されたことであるが‥‥‥」と前提して、前記の経緯を両大佐に詳細説明した上で、次のように言い渡した。

 「わが陸軍最高主脳の意向として、この重大な新陸軍の近代化事業を両大佐に担当させることになったので、両名は軍令、軍政「体の実をあげ、これより長期にわたって徹底した実務の企画と統制に任じ得るよう、今回の欧米視察による調査研究を手始めとして協力の実行をあげてもらいたい」
そして両大佐より先任の多くの将軍たちを全部乗り越えて断行された、この決断がいかに新陸軍躍動の原動力となったか注目の要がある。さらに大山中将は、
 「藩閥抗争の弊害を一掃し、かりそめにも両名が対立、ケンカをすることは、まかりならぬ」と厳重な注意を与えた。これに対して
 「誓って盟約に違反することござりませぬ」と宣誓させられ、さらに即座に実行として、「本旅行の全期間、両名は同室に起居して東にその協力一体の模範を示せ」と要求され、直ちに船室を変更して即日同居させられたというから、実に徹底したものであった。
 当時の川上操六大佐は仙台の鎮台参謀長を終って近衛歩兵第一聯隊長の要職にあった人であったが、桂大佐と共に初心に帰った覚悟で、これより約言年間にわたる欧米視察と軍事研究の全期間を終始起居を共にして、心から盟約実行の模範を示したのであった。
 この軍事視察旅行の経路と日程は香港、ナポリ、ローマ、バリ、ロンド、ベルリン、ぺテルブルグ、ベルリン、ゥィーン、アメリカ、横浜帰着
 最も長期滞在したのがパリであって、このフランスの軍事視察は大山中将が以前に仏国留学をして仏国陸軍に知己が多く、仏国陸軍また日本陸軍の育成指導に熱心であって、軍事研究に多大の便宜を与えたからであった。
 この大山中将以下の欧米軍事視察の結果は予定の計画によって川上、桂両大佐が軍令、軍政事項毎に分担して取りまとめ、その成果に基づいて今後日本陸軍がいかにして採用していくべきかの意見をも添えて報告書の完成をみたのが帰国後三ヵ月を経た明治十八年五月であった。
 そして明治十八年五月の同日附をもって少将に進級した両名は左の補職を命ぜられ、川上少将は参謀本部次長として軍令事項、桂少将は陸軍省総務局長として軍政事項に専念することになり、直ちに陸軍の近代化に着手した。
 
③ リーダーは長期に担当せよ、川上は十四年間、桂大佐は十五年間も担った
しかも川上次長は明治三十二年(死亡)まで十四年間、桂大佐は明治三十三年まで十五年間も陸軍省次官、大臣を務めて日露開戦時は首相として軍政と国政の完全な掌握による国力発揮に専念できたが、その発端は、実に明治十七年二月ヨーロッパ航行中の船中において、大山中将から言い渡されたこの断固たる訓示であった。
これより二十年後の日露戦争を大局的に観察してみて、当時西欧最大の陸軍国と言われていたロシヤ軍を相手にして、明治維新後建設早々の日本陸軍が、近代軍備を曲がりなりにも備えて堂々と立ち向うことができた、その遠因は明治十七年(日露開戦の二十年前)の大山、川上、桂の三名が船中で誓い合った航行中の、この訓(おしえ)であるといえよう。この陸軍最高主脳部のすばらしき明知と決断、忠実な実行は、この船中の盟約を基として、当時の最高主脳者たちだけが心の底に堅持していたものであり、後に児玉源太郎を加えて、山県、大山、川上、桂、児玉(計五名)が近代陸軍創設の五天王といわれるようになったのも以上の経緯によるものである。

 
 大山陸軍卿はこの欧米軍事視察団長として明治18年1月帰国してきたが、この年の十二月に内閣制度が発足して初代内閣総理大臣として伊藤博文が第二代内閣を組織し、陸軍大臣には大山陸軍卿がそのまま初代の大臣となった。
 大山中将が欧米視察中にフランスに約五十日間も滞在して、この旅行中に最も長く研究調査をしたのがフランス陸軍であり、これは大山巌中佐時代の明治の初期以来、フランス留学をした因縁であったことは先に述べたところである。
 大山陸軍卿は「パリーに来ると自分の郷里にでも帰ったように、はしゃぎ廻って喜んでいた」と部下視察団員たちは視ており、事実フランス陸軍には大山中将との知友も多く親切にもてなしたことは明らかであった。
 「フランス陸軍の良いところはこの点であって君もフランス陸軍に留学し給え」といって薩摩の勇将、野津道貫中将の女婿の上原勇作大尉を長期にわたってフランス陸軍に配属して勉強せたのも、大山中将であったことは当時一般にに知られていた。
 ところがこの欧米視察団の軍事研究の結論は、日本陸軍が従来フランス方式であったものを、今後はドイツ方式に改め軍政はドイツ陸軍を模範として一大改革を断行するというものであり、この結論をまとめあげたのが、この視察団の先任随行員であったところの川上、桂の両少将であり、この若き(当時三十六歳)陸軍主脳の後継者たちは、その先輩がフランスひいであろうが、そんなものには捉われず、フランス方式を否決してドイツ式に改める意見を上申したことは、まことに勇気のいるところであろう。
 「フランスを否決してドイツ式採用に改めなければならない最大の理由は何か」と視察団員の若い参謀たちは議論をしていたが、多くのものは大山陸軍卿の顔を半分眺めながら、あるものは従来同様フランス式を継続する案を固持して譲らないものもいたという。
   川上の戦訓「上司の機嫌にとらわれず、勝者にその範をとれ」とそれを一言で受け入れた大山の大度量
 
 この議論の最後に川上操六少将が立って「軍の本領は有事に際して敵に勝つことであり、普仏戦争でフランス軍を散って勝利を獲得したドイツ軍に見習うことは、独仏両軍を比較検討する場合、他の理由のいかなるものがあろうとも、すべてに優先して勝者にその範をとることは議論の余地がないではないか」と断固として主張した。
このとき一同の視線は団長の大山陸軍卿に集中されたが、このときの大山陸軍卿の心中は、
「軍の本質をこのように簡明にして、使命達成のためには上官の機嫌や思惑などに捉われず堂々と信念を堅持する男こそ、まことに陸軍を担い得る者」と感激していたとのことであり、このとき統裁して発言した大山中将の言葉は、「それでよろしい」の静かな一言であった。
 「ドイツ方式を採ったことはドイツ陸軍のすべてが長所であるからではない。また将来もドイツがよいとは思っていない。ドイツ方式を採った最大の目的は軍の勝利獲得の使命達成のただ一点につきる」という考え方が川上操六少将の主張であった。この川上の聡明な見識が日本の勝利につながったのである。小沢一郎とそれを取り巻くご機嫌取りの派閥の子分どもも、この明治のリーダーたちの見識と行動を見習うべきじゃな。
自民党も他の政治家たちにも「議論より実を行え、なまけ政治家 国の大事をよそにみるバカ」といいたいね。

明治十八年七月、明治天皇は参謀本部と陸軍大学校に行幸あらせられ親しく当局者一同を御激励になられている点からみても、いかに時局の重大であったかが推察できる。
当時のわが陸軍によるシベリヤ、満洲方面に対する対露警戒と情報収集については特に努力を払った。
川上、桂両少将の共同による陸軍建設の計画は急ピッチで進み、早くも翌明治十九年三月左記のとおり軍事諸制度の大改革が着手された。

① 陸軍省官制の簡素化。

② 陸軍は従来のフランス式制度からドイツ式制度に改正される。
③ 監軍部を復活し教育軍政を改善。
④ 作戦方針を抜本的に改正し、従来の鎮台を師団編制に改める。
⑤ 陸海軍両部の制を廃止して軍令機関は一本に統一した。

 以上のとおりであったので福島安正大尉が明治十九年九月末に帰国した頃は、新陸軍の建設が急速に進展し、この進歩に伴って新しい作戦計画の樹立が要請され、さらにその前提となるべき情報収集の重要性が一段と要望されるといった好ましい情況に変っていた。 

 しかし当時の後進国日本が、徒に形式に捉われることなく、この川上精神を果して、その後も堅持できたかという点が、大いに注目の要するところである。
 川上少将のこの徹底した信念に指導された新日本陸軍は、これより十四年間の長期にわたる一貫した思想と固い信念で、作戦準備や教育訓練に長足の進歩を遂げることができた。
  しかし日露戦争の五年前の明治三十二年に川上操六(当時、大将、参謀総長)の死によって、その後は大きな変革の不幸を招くことになってしまった。
 
 

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