日本経営巨人伝④・麻生太吉–明治期の石炭王『九州財界の重鎮』の麻生太吉翁
日本経営巨人伝④・麻生太吉
明治期の石炭王『九州財界の重鎮』の麻生太吉』
<麻生太吉翁伝刊行会著『麻生太吉翁伝』(昭和10年、非売品)』の復刻版、
2000年刊 定価(本体12500円+税)大空杜の解説>
前坂 俊之
(静岡県立大学国際関係学部教授)
麻生太吉は明治初期の日本の産業黎明期に北九州に大石炭業を起こした立志伝中の企業家であり、石炭王である。麻生は前半では産業振興の基礎となる石炭採掘に、後半は新たな産業の原動力となった電気事業に取り組んだ。
安政四年(一八五七)七月、麻生は筑前国嘉穂郡立岩村(現在の福岡県飯塚市)で大庄屋の麻生賀朗の長男として生まれた。幼名は鶴次郎。父が戸長を引退後、大吉は十四歳で立岩村副戸長となった。賀朗は時代の趨勢から将来、石炭業の有望なことを見込んで、この事業を始め、太吉に鉱業家となるように望み、太吉は午前中は副戸長、午後は炭坑で働くという毎日を送った。
明治六年、日本坑法という成文鉱業法が成立した。これによって鉱業自営権が確立して、石炭堀りの山師や鉱山家が活動するようになり、国内の産業でも石炭の需要が高まってきた。中でも筑豊地帯は有望な石炭埋蔵地域として、そのかっこうの活動の舞台となった。
明治十七年(一八八四)ごろから、麻生は鯰田坑や秋鯰田坑、忠隈坑などを次々に開削、試掘りを手掛けてきたが、出炭過剰や石炭価格の低迷などによって、経営は苦境の連続であった。 明治二十二年三月、たまたま、三菱が炭鉱を拡張することになり、鯰田坑の買収申し込みがあり、麻生は十万五千円で売却して、これで経営の困難を何とか乗り切り、次への発展の足掛かりを得た。
新たな資金によって、今度は山内坑の前身の獅子場坑を、次いで住友坑の前身の忠隈坑を買収し、積極経営に乗り出した。ところが、開坑した笠松坑は二十四年に大水害に見舞われ、揚水不能になったためこれを放棄、忠隈坑は大断層にぶつかって頓挫してしまった。
これに炭価の暴落が追い打ちをかけて、炭坑界は恐慌状態となった。
麻生は炭坑事業の継続か、撤廃かの瀬戸際に立たされた。資金は底をついたが、事業継続の出資に応じるものはなく、親戚や友人は事業からの撤退をもとめ、捲土重来を期すべし、との忠告がなされた。
しかし、麻生は断固として初心を曲げず、孤軍奮闘して、水害を復旧し採炭に努めて、大量の貯炭を行った。資金は欠乏して、経営も危機的になった。ところが、明治二十六年(一八九三) に韓国で事件が勃発して、翌年には日清戦争に発展し、長らく沈滞していた財界はにわかに活況を呈し、炭価は暴騰した。二十七年四月には行き詰まった忠隈炭鉱を住友家に譲渡した。
これによって、巨万の富を得た麻生は息をふきかえして、基礎が固まり、炭坑界に一層重きをなしていった。
日清戦争後の諸産業の勃興によって、北九州の工業は目ざましく躍進し、筑豊炭坑への需要も激増した。産炭量は全国の約半分を占めるようになり、明治四十年には六四〇万トンにのぼった。
麻生は明治三十五年(一九〇二) には本洞炭坑を買収して、経営を開始したが、間もなく坑内火災が発生して消火不能に陥った。本桐坑の火災はその後、実に五年にわたって燃え続けた。麻生は資力をほとんどこれに費やして、明日の米もなく、土地や建物はすべて担保に入り、金融に応じるものもないというギリギリの瀬戸際に再び立たされた。
ついに再起不能か、という時、かろうじて消火に成功した。筑豊の三大石炭王の一人である貝島太助の助言で、麻生はこれを三井に売却する交渉を始めた。
三井鉱山は明治四十年七月に一二八万円の巨費で本洞、藤棚の両坑を買収することに応じた。土壇場での起死回生の転売によって、麻生の事業は立ち直り、磐石となった。
また、長年にわたって筑豊炭田の悩みのタネであった遠賀川の治水対策に麻生は奔走して、政府によって明治四十年に四八〇万円の大工事を行い、石炭業発展の基礎を築いた。
このように石炭事業で三度の苦難を突破して、見事に苦境を脱した麻生は日露戦争以降も豆田、吉隈、佐賀県久原坑などを次々、開発、買収して経営し、同四十四年三月には筑豊石炭鉱業組合の総長になった。
石炭事業は拡大の一途を遂げて、大正七年(一九一六)には麻生商店を資本金五百万円の株式会社とし、十一年には千五百万円に増資し、大阪、神戸、広島などに支店を設けた。麻生は石炭の販売機関を設定し、麻生商店自らの自主販売権を確立した。
昭和八年(一九三三)には近くの田川で産する石灰石に目をつけて、石炭の黒からセメントの白への「白黒革命」と称して、セメント事業にも乗り出すなど、多角的な事業展開を行った。
このほか、外綱分、白井、牛隈、久原坑など十以上の炭坑を所有し、芳雄製工所を設立して、機械、コークスを製造し、コークスは芳雄コークスの名をもって販売し、わが国有数の石炭事業家に発展していった。
麻生は後年、電気事業に力を入れた。明治四十一年(一九〇八)には嘉穂電燈を創設して社長となり、大正二年には九州水力電力の取締役、杖立川水力の創設、九州送電の相談役、昭和三年には九州水力電気の社長となり、その後も延岡電気、九州保全、神都電気興業、筑後電気などの各社長、九州電気軌道の相談役などにも就任し、九州電気事業界の大立者となった。
この他にも、嘉穂銀行頭取、嘉穂電燈、大阪紡績、若松築港、九州電力株式会社の各取締役を務めた。九州財界の重鎮として和田豊治らとは相許す仲で、中央の財界とも太いパイプを持っていた。
北九州が日本を代表する工業地帯に発展したのは産出する石炭と鉄を結び付け、その上に八幡製鉄所ができ製鋼、製鉄の鉄工業がうまくセットになってピラミッド型に派生したためだが、こうした北九州を工業王国にした第一人者は麻生であった。
麻生の終生のモットーは 「程度大切油断大敵」 であった。
「程度をしっかりわきまえて、油断するな。分相応に……」という教訓である。
また、「失敗は成功の父、退転は失敗の母」というのも座右の銘で、絶対絶命の危機を三度も乗り越えた不屈の事業家の信念がうかがえる。
麻生は昭和八年(一九三三)十一月に七十六歳で亡くなった。
麻生についての伝記は大田黒重五郎藍修『麻生太吉伝』(麻生太吉伝刊行会、昭和九年)と麻生太吉翁伝刊行会著『麻生太吉翁伝』(麻生太吉翁伝刊行会、昭和十年、非売品)がある。本書は『麻生太吉翁伝』の復刻である。
本書は最初に詳細な年譜があり、生い立ちから炭坑事業に取り組み、三度の危機を乗り越えて成功し、石炭王から九州の電力にも力を注いだ生涯を年代順に資料を十分織り混ぜながら記述しており、第一級の伝記資料になっている。
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