日本リーダーパワー史(138) 83年前の関東大震災で示した日立創業者・小平浪平のリーダーシップ
2015/01/02
日本リーダーパワー史(138)
大震災とリーダーシップ・日立創業者・小平浪平の決断力
<大震災、福島原発危機を乗り越える先人のリーダーシップに学ぶ>
前坂 俊之(ジャーナリスト)
今回の大震災で日立製作所が受けた影響は茨城県や福島県での6工場で建物の一部が倒壊、屋根、外壁が落下する被害が出た。グループの社員では、24人が軽傷を負い、2人が骨折。建屋や生産設備が損傷したのは日立製作所電力システム社日立事業所(茨城県日立市)、同都市開発システム社水戸事業所(茨城県ひたちなか市)、同情報制御システム社大みか事業所(茨城県日立市)など(『東洋経済』より)
また、中西宏明社長は6日、
大震災による業績への影響について、被害総額や損失計上など「金額をはじき終えるのに半年はかかる」とした上で、「利益を相当食いつぶす」との見通しを示した。(ブルームバーグ)>ところで、今から83年前の関東大震災では日立は震源地の東京から離れていたので、被害はほとんどなく、工場も影響はなかった。今回とは全く逆である。創業者で小平浪平社長(おだいら なみへい、1874―1951)はこの危機に敢然とリーダーシップを発揮した。
83年前の関東大震災でー『他人の不幸による漁夫の利をしめるな』
一九二三年(大正十二)九月一日、関東大震災が起こり、京浜工業地帯は壊滅した。
ライバルの芝浦製作所は全焼、東京電灯(東京電力)は電灯需要の四七%、電力は三七%、供給設備も変電所が三〇%、配電線路が二一%の被害を受けた。東京電灯は復旧を急いだが、東京とその付近のメーカーはほとんど生産不可能となった。『技術王国日立をつくった男・創業者小平浪平伝』(加藤勝美著、PHP研究所1985年刊)

地理的に離れていた日立はライバル会社の工場が壊滅するなかで、日立工場はほとんど無傷であった。全国から注文が殺到した。
ところで、震災後に殺到した注文への対応について小平は「京浜地方優先」を厳守「日立製作所は日本の日立だ。この際われわれは京浜地方の復興を第一の任務とすべきである。みだりに他の地方からの注文を受けて工場をふさいではならない。京浜地方のために全工場の能力を発揮して一日も速かにこの復興を図らねばならない」。
大阪や九州から有利な注文が山のように押し寄せ、池田としては惜しい気持もあったが全て断った。社内ではそれまで「日立は田舎で不便だから東京へ移るべきである」という意見が出ていたが、震災後そうした声は出なくなるとともに、小平は「日立で伸びる」という腹を固めた。『加藤勝美前掲著)
小平は社員に対して「他人の不幸による漁夫の利を占めるな」と厳しく戒めた。「日立製作所は日本の日立である。日本の頭部というべき京浜工業地帯は惨憺たる状況にある。この際、日立は京浜地方の復興を第一の任務とする。みだりに地方からの注文を受けて工場をふさいではならぬ」と厳命した。
九州や京阪神から山のごとく、注文が殺到したが、小平は全部断ってしまった。またとない、莫大な利益がふいになった。だが、小平のその高邁な精神は高く評価され、信用が高まり、後進の日立は一挙に日本を代表する総合電機メーカーにのし上がった。
東電ばかりからではなく、多くの注文が殺到した。東電内部にはウエスチングハウスやシーメンスの製品でという声もあったが、日立を使うようになった。
鉄道省は、日立の工場にあるものをできるだけ融通してほしい、「回転変流機もほしい」と言ってきた。回転変流機をお得意の昼夜兼行で完成した。日立の社員は毎日へトへトになるまで働いた。鉄道省局長が助川まで来訪、省として礼を述べたという稀有のこともあった。
大正14年に完成した狭軌初の電気機関車を製作し、翌15年には30台の扇風機が米国に初輸出。昭和2年(1927年)には電気冷蔵庫の開発にも成功したて、「技術の日立」を世界に示した。
小平浪平は1874年(明治7年)、栃木県下都賀郡家中村の生れ。東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。
藤田組小坂鉱山の電気主任技術者として入社。31歳で結婚。1906( 明治39年)日立鉱山に工作課長として入社。1910年(明治43年)に国産初の5馬力誘導電動機(モーター)を完成させ、工作課長時代に鉱山の土木建築工事、機械・電気設備の設計・設置を指揮、鉱山用の電力を確保するために、中里発電所などの水力発電所を設置。当時は蒸気機関が中心だったのを日立鉱山は送風、用水、輸送から電灯、精錬まですべて電化した。
この電気を使って数々の電気製品を送り出した。
1911年、久原鉱業の機械工場として日立製作所を設立、小平は専務取締役に就任、1928年、同社の初代取締役社長に。(wiki)
発明は技術者の命である
小平は日立を創業して以来、発明の奨励に力を入れ、一九一九年(大正八) には特許係をおき、特許出願の原稿には自ら目を通し、
出願書類の作成も指導した。技術の国産化、自前主義の旗を高く掲げたのである。
出願書類の作成も指導した。技術の国産化、自前主義の旗を高く掲げたのである。
「私はあえて、欧米一流の製造家と提携することを企画しなかった。他人の力に依存することなく、もっぱら自らの力によって、
最も優秀な機械の生産を図るべきだと考えた」
最も優秀な機械の生産を図るべきだと考えた」
「なるほど、外国一流の製造家と提携する時は、ある程度の進歩を見ることができるだろう。しかし、毎年多大のロイヤルティを、
支払わねばならぬことを考えると、同じ費用を投じて一意専心、研究を重ねて進めば、他人の力に依存せずとも、十分に成績を上げることは、
不可能ではないと信じたから、同業者と遣う道を選んだ」
支払わねばならぬことを考えると、同じ費用を投じて一意専心、研究を重ねて進めば、他人の力に依存せずとも、十分に成績を上げることは、
不可能ではないと信じたから、同業者と遣う道を選んだ」
一九三七(昭和12)年当時、米一キロが約三十銭の時代に、特許登録一件三十円、実用新案一件十五円を出して、
発明・特許に最大限の力を入れたのである。
発明・特許に最大限の力を入れたのである。
「人の世話は徹底的に行え」
小平は人間関係を実に大切にしていた。
「人の世話は徹底して行え。飼い犬に手をかまれたなどと泣きごとを言うくらいなら、初めから世話せぬがよい」がログセであった。
社員が結婚すると、必ずポケットマネーから金1封を出してお祝いを述べ、不幸があった場合は多忙であっても必ず弔問して、
家庭の事情など細かく聞いた。
家庭の事情など細かく聞いた。
1944,45年、空襲が激しくなった時、何を真っ先に疎開すべきかを聞くと、「先輩、親友の書いてくれたものが一番大切だ」と答えた。
一九五二年〈昭和二十六)、日立造船会長の妻が入院した時、小平はたびたび見舞いに行き、産みたてのタマゴに一つひとつ日付を書いて、
見舞品として渡し相手を感激させた。心底から相手のためを思って行動したのである。
見舞品として渡し相手を感激させた。心底から相手のためを思って行動したのである。
関連記事
-
-
日本メルトダウン,カウントダウン(905)「舛添問題は金にケチな人格などではない。 政治家に一番必要な『危機管理能力」の全くない東大(無灯台)組が 『無防備都市・TOKYO」のトップに居座っていること」★『政府は約3千億円を つぎ込み熊本地震まで38年間の『 巨大地震』の予知に全部失敗した<ロバート・ゲラー東京大学理学系教授の 正論>』
日本メルトダウン,カウントダウン(905) ①舛添問題は金にケチな人格などで …
-
-
『リーダーシップの日本近現代興亡史』(229)/『坂の上の雲の真実!』ー「日本海海戦を勝利に導いた天才参謀・秋山真之のスゴサは?ー山梨勝之進大将の証言』★『敵艦見ゆの発見電文の戦略内容に付けくわえた』★「マハンから「米海軍大学校へ入らんでもよい。お前は戦史を読んで、ひとりで考えれば、海軍大学校にはいる以上だ。それで日本大使館にある万巻の書をすべて読破した』★『 ロシアで極秘中の極秘の一等戦艦の図面を見せられたが、1,2分の間にすべてを頭に叩き込み、出てきてトイレに入りその設計図のすべての寸法を見事に再現した』
2011/01/04 クイズ『坂の上の雲』記事 …
-
-
日本リーダーパワー史(460)「敬天愛人ー日本における革命思想源流の陽明学の最高実践者「西郷隆盛」論・ 中野正剛著②
日本リーダーパワー史(460) 「敬天愛人」日本におけ …
-
-
『オンライン講座/今、日本に必要なのは有能な外交官、タフネゴシエーター』★『日本最強の外交官・金子堅太郎のインテジェンス④』★『日露戦争勝利の秘密、★『『武士道とは何かール大統領が知りたいー金子のハーバード大での名スピーチ④』★『マカロフ大将の死を悼み、新聞に賞賛される』★『日露戦争は正義のための戦いで日本は滅びても構わぬ』★『ル大統領は「日本が勝つが、黄禍論を警戒せよ」と忠告』
2017/06/23 日本リー …
-
-
『オンライン/100歳学講座』★『蟹江ぎん(108歳)きん(107歳)さんのギネス長寿姉妹『スーパーセンテナリアン10ヵ条』★『「人間、大事なのは気力ですよ。自分から何かをする意欲を持つこと』★『「悲しいことは考えんほうがええよ。楽しいことを夢見ることだよ』
2019/06/19&nbs …
-
-
『世界サッカー戦国史』⑥『日本対ベルギー戦は3日(火)午前3時キックオフ!』★『日本が勝てば、今大会最大の衝撃!? 海外メディア「ドイツ敗退よりも驚くべきこと」
『世界サッカー戦国史』⑥ 日本が勝てば、今大会最大の衝撃!? 海外 …
-
-
日中韓異文化理解の歴史学(4)<最重要記事再録>日中のパーセプションギャップ、コミュニケーションギャップの深淵』★『(日清戦争開戦1週間前ー「戦いに及んでは持久戦とすべきを論ず」(申報)』★『120年前の日清戦争で近代科学思想、合理的精神の西欧列強に一歩でも近づこうとした日本と、1000年にわたる封建的、儒教精神の旧弊で風水の迷信に凝り固まった「中華思想」、メンツから一歩も発展していない清国(中国)が戦端を開いてみれば、どんな結果になったか ー新聞『申報』のバックナンバーを読むとよくわかる。』
2014/09/09の記事再録 『中国紙『申報』からみた『日中韓150年戦争史』 …
-
-
日本リーダーパワー史(467)国際大会(外交)での「リーダーシップ」 ―安倍外交と本田選手の活躍を比較する②
日本リーダーパワー史(467) 世界劇場型の政治家・スポ …
-
-
『オンライン現代史講座・日清戦争の原因研究』★『延々と続く日中韓衝突のルーツを訪ねる』★「『英タイムズ』が報道する130年前の『日清戦争までの経過』③-『タイムズ』1894(明治27)年11月26日付『『日本と朝鮮』(日本は道理にかなった提案を行ったが、中国は朝鮮の宗主国という傲慢な仮説で身をまとい.日本の提案を横柄で冷淡な態度で扱い戦争を招いた』
2019/02/06 記事再録 英紙『タ …
-
-
日本リーダーパワー史(797)ー「日清、日露戦争に勝利』 した明治人のリーダーパワー、リスク管理 、インテリジェンス』⑭『 未曾有の国難来る。ロシアの韓国侵攻に対して第一回御前会議が開かれた』●『巻末に連載9回-13回までの掲載リンクあり』
日本リーダーパワー史(797)ー 「日清、日露戦争に勝利』 した明治人のリーダ …