日本リーダーパワー史(142)大津波を私財を投じた堤防で防いだ浜口悟陵(国難リーダーはかくあれ)
2015/01/02
日本リーダーパワー史(142)
大津波を私財を投じた堤防で防いだ浜口悟陵
<リーダーたるものはかくあるべきもの>
前坂 俊之(ジャーナリスト)
東日本大震災の津波の大被害から一躍注目を浴びている偉人が浜口悟陵である。『村人を津波から救い、私財を投じて大防波堤築いた』浜口悟陵(1820―1885)は和歌山県人であり、『大日本人名事典』(平凡社)よると、次のように紹介されている。
「紀伊有田郡廣村の人、名は成則、字は公輿、通称は儀兵衛、悟陵はその号、のち通称とす。文政三年六月十五日生る。天保二年、十二歳の時に銚子に赴いて家業の醤油醸造を見習い、その間、オランダ医・三宅艮蒲の来遊せれるに合して師事し、また佐久間象山、勝海舟と交はり、廣村崇義団を興して海防に注意した。
嘉永五年、帰郷して青年子弟の養成に当たったが、安政元年、津波襲来によって被害が多かったため全力を牽けて救済に当たり、また大防波堤を築造し、資本を投げ出して江戸の種痘所を再興した。明治元年正月、藩の要路にあった津田出の推挙に上り勘定奉行に任じ、翌二年更に参政、和歌山藩権少参事、四年、同権大参事として藩政改革に任じ、かつ家事を嗣子に譲って梧陵を通称とした。越えて七月、駅逓正、駅逓頭として朝官に任じ、次いで和歌山特大参事となったが、五年二月、辞して野に下り、
十三年和歌山県会ができると、最初の議長に推され、また木国同友会を組織し自らその会長として
政治思想の普及に努め、十七年五月、海外視察のため渡米したが、翌十八年四月二十l日ニューヨーク
に客死した。66歳。
十三年和歌山県会ができると、最初の議長に推され、また木国同友会を組織し自らその会長として
政治思想の普及に努め、十七年五月、海外視察のため渡米したが、翌十八年四月二十l日ニューヨーク
に客死した。66歳。
浜口悟陵は江戸の末期から明治の初期にかけて近代医学の発展に大きく貢献した人物でもある。また、近年大地震や津波が発生する度にそれらの災害にどう対応し、防災するか、過去の経験から学ぶと、そこに必ず浜口悟陵が登場する。いわば、日本の防災学の始祖といってもよいし、大きな社会貢献をした偉人である。和歌山には南方熊楠をはじめ知の巨人が多いが、高野山の弘法大師だって ここだし、浜口もそのスケールからいってもっと評価されてよい知のしかも実践した巨人である。
和歌山の「ヤマサ醤油」で有名な浜口儀兵衛の七代目儀兵衛が浜口悟陵なのである。
その悟陵は和歌山県有田郡広川町の豪族・浜口家の分家三代目七右衛門の長男として生まれた。
濱口家は元禄年間に銚子で醤油醸造業を始め、江戸深川にも出店していた。
濱口家は元禄年間に銚子で醤油醸造業を始め、江戸深川にも出店していた。
享保・宝暦(一七一六~一七六四)の頃には江戸第一の醸造家としてその名を馳せており、現在もヤマサ醤油の名で知られている。
梧陵は天保二年(一八三一)、一二歳で本家六代目儀兵衛に跡継がいないことから、本家を継ぎ、家業に就くため銚子へ赴いた。銚子で元服して小僧同様の修業を続け、所謂「若様の丁稚奉公」と呼ばれた時代を送った。
しかし、二歳の時父を亡くして以来、天保一〇年(一八三九)、20歳で結婚するも半歳後には再び銚子に下った。
梧陵は国防の必要を強く感じ、万が一の有事に対し村人が広村を守るのだという気概が持って、素永四年(一八五一)、広村崇義団を結成し、翌五年には、広村田町に稽古場を開いている。崇義団とは少数の藩に作られた私兵(農兵)、つまり非正規軍で志願制、高杉晋作らが幕末に長州藩で組織した奇兵隊が有名だが似たようなものである。
その後、国元・江戸・銚子間を順行して家業に励み、その間に嘉永三年(一八五〇)佐久間象山の門下生となり、勝海舟を知り終生の友となった。
その他、福沢諭吉・陸奥宗光・山岡鉄舟・榎本武揚・海上艦響大久保利通・板垣退助・大隈重信らの当時のすぐれた学者や政治家とも親交を深めて、
開国論をとなえて奔走した。とくに福澤諭吉との出会いは悟陵が平生から実践していた人材育成・教育改革に一層拍車を掛けることとなった。また多くの蘭学医を養成して、近代医学の基礎づくりに大いに貢献するなど、多方面で活躍している。(川村純一『浜口悟陵と医学』2008年)
その他、福沢諭吉・陸奥宗光・山岡鉄舟・榎本武揚・海上艦響大久保利通・板垣退助・大隈重信らの当時のすぐれた学者や政治家とも親交を深めて、
開国論をとなえて奔走した。とくに福澤諭吉との出会いは悟陵が平生から実践していた人材育成・教育改革に一層拍車を掛けることとなった。また多くの蘭学医を養成して、近代医学の基礎づくりに大いに貢献するなど、多方面で活躍している。(川村純一『浜口悟陵と医学』2008年)
安政東海地震で津波から村民を守った
安政元年11月4日(1854年12月23日)、駿河湾から遠州灘、紀伊半島南東沖一帯を震源とするM8.4の巨大地震が発生した。
安政東海地震(1854年・安政元年)発生、その32時間後(1854年・安政元年)に「安政南海地震」が発生した。
安政元年11月4日(1854年12月23日)、駿河湾から遠州灘、紀伊半島南東沖一帯を震源とするM8.4の巨大地震が発生した。
安政東海地震(1854年・安政元年)発生、その32時間後(1854年・安政元年)に「安政南海地震」が発生した。
この地震が発生した年は嘉永7年で、当時の瓦版や記録はすべて嘉永としているが、この地震のわずか32時間後にはM8.4と推定
されるが巨大地震「安政南海地震」が連続発生し、さらに広範囲に被害をもたらせたため、この両地震から元号を嘉永から安政に改めた。
年表上は安政となるため後に安政東海地震と呼ばれるようになった。
地震発生から数分~1時間前後に大津波が発生し、東海沿岸地方を襲った。伊豆下田、遠州灘、伊勢、志摩、熊野灘沿岸に押し寄せた津波で多くの被害を出した。伊豆下田では推定6~7mの津波が押し寄せ、948戸中927戸が流失し、122人が溺死したという記録が残っている。また、江浦湾でも6~7m、伊勢大湊で5~6m、志摩から熊野灘沿岸で5~10m大津波が襲来し数千戸が流失した。
この時、梧陵は三四歳、第七代浜口儀兵衛を襲名した翌年である。いち早く津波の発生を予知した悟陵は、高台にあった稲むら(注・刈った稲または
稲藁を積み重ねたもの)に火をつけ危険を村民に知らせ、鎮守の八幡神社に向かわせて多くの村人を救った。惨状の中で救助に当たり、津波で流された人々が、暗闇のため安全な方向を見失わないため刈りとったばかりの大切な「稲むら」に火をつけたというのが真相である。
稲藁を積み重ねたもの)に火をつけ危険を村民に知らせ、鎮守の八幡神社に向かわせて多くの村人を救った。惨状の中で救助に当たり、津波で流された人々が、暗闇のため安全な方向を見失わないため刈りとったばかりの大切な「稲むら」に火をつけたというのが真相である。
これから40年。三陸地震大津波(一八九六年)が発生し、大津波で2万人が死亡した。これを伝え聞いた小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は三陸海岸の悲惨さに胸打たれ、この梧陵の話を聞いて感銘し、英語作品「いける神」(ア・ライビング・ゴッド)として発表した。
この「生ける神」が戦前の旧制中学校の英語の教科書に登場した。さらに、これが日本語に訳されて物語『稲むらの火」として昭和12年の国定教科書
『小学国語読本巻10』(5年生用)につかわれ、太平洋戦争終了まで続いた。そんなわけで昭和ひとケタ族は、すべてこの話を小学時代に読んでいたのだ。
『小学国語読本巻10』(5年生用)につかわれ、太平洋戦争終了まで続いた。そんなわけで昭和ひとケタ族は、すべてこの話を小学時代に読んでいたのだ。
では、以下で、国定教科書に紹介された『稲むらの火』を紹介する。
「これは、ただ事ではない。」
とつぶやきながら、五兵衛(悟陵のこと)は家から出て来た。今の地震は、別に烈しいといふ程のものではなかった。しかし、長いゆったりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない無気味なものであった。
五兵衛は、自分の庭から、心配げに下の村を見下した。村では、豊年を祝う祭りの支度に心を取られて、さつきの地震には一向気がつかないもののようである。
村から海へ移した五兵衛の目は、たちまちそこにすいつけられてしまった。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、見るみる海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れて来た。
「大変だ。津波がやって来るに違いない」と五兵衛は思った。
ことのままにしておいたら、四百の命が、村もろ共、一のみにやられてしまう。もう一刻も猶予は出来ない。
「よし。」
と叫んで、家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明(たいまつ)を持って飛び出して来た。そこには、取入れるばかりになっているたくさんの稲束が積んである。
「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ。」と五兵衛は、いきなりその稲むらの一つに火を移した。風にあおられて、火の手がパッと上った。一つ又
つ、五兵衛は夢中で走った。
かうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまふと、松明を捨てた。まるで失神したように、彼はそこに突立つたまま、沖の方を眺めていた。
日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなって来た。稲むらの火は天をこがした。山寺では、此の火を見てはやがね早鐘をつき出した。
「火事だ。庄屋さんの家だ。」と、村の若い者は、急いで山手へかけ出した。続いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追うようにかけ出した。
高台から見下している五兵衛の目には、それが蟻の歩みのように、もどかしく思われた。やつと二十人程の若者が、かけ上って来た。彼等は、すぐ火を消しにかかろうとする。五兵衛は大声に言った。
「うっちゃっておけ。-大変だ。村中の人に来てもらうんだ。」
村中の人は、追々集まって来た。五兵衛は、後から後から上って乗る老幼男女を一人々々数へた。集まって来た人々は、もえている稲むらと五兵衛の顔を代わるがわる見比べた。
その、五兵衛は力いつぱいの声で叫んだ。
「見ろ。やって来たぞ」
たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。その線は見るみる、太くなった。広くなった。非常な速さで押寄せて来た。
「津波だ。」
と誰かが叫んだ。海水が、絶壁のように目の前に迫ったと思うと、山がのしかつて来たような重さと、百雷の一時に落ちたようなとどろきとを以て、陸にぶつかった。人々は、我を忘れて後へ飛びのいた。雲のように山手へ突進して来た水煙の外は、一時何物も見えなかった。
人々は、自分等の村の上を荒れ狂って通る白い恐しい海を見た。
二度三度村の上を海は進み又退いた。
高台では、しばらく何の話し声もなかった。一同は、波にえぐり取られてあとかたもなくなった村を、ただあきれて見下していた。
稲むらの火は、風にあおられて又もえ上り、夕やみに包まれたあたりを明かるくした。始めて我にかへった村人は、此の火によって救はれたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛のまえにひざまづいてしまった。作者は梧陵と同郷の生れの中井常蔵)(川村純一『浜口悟陵と医学』2008年)
この時の被害はどうだったのか。浜口梧陵手記「安政元年の海嘯」の実況」によれば当時の被害の概略は
① 家屋流失 181軒 ②汐込大小破損の家屋 158軒、合計 339軒
② 流死人 三十六人(男十二人・女十八人・子供六人)(注・当時の広村は約三〇〇軒余りだから、その惨状はほぼ村全体が潰滅だった。)
私財をはたいて大堤防を築いた
梧陵は見識も財力もある見事なリーダーであった。早速、広村の救済に立ち上がった。避難民のために用意した米は五十石、その後二百五十七俵にも上った。農家には農具・漁家には舟や漁具、商家には営業資金の無償の援助したさらに、津波、台風から村を守るには防波堤しかないと決断し私財を投じて防潮堤を造った。まだ鉄もコンクリートもありませんでしたから、まず比較的丈夫な石で第一撃を受け止めて、そして防潮林で勢いを削いで、そして土の本堤で浸入を防いだ。
津波ごとに甚大なる被害を被る村を救うため、延べ五万六千人の人員を動員し四年がかりで、延長六百七十メートルの大防波堤を築き、松数百本とハゼ数百株を植えたのである。
津波ごとに甚大なる被害を被る村を救うため、延べ五万六千人の人員を動員し四年がかりで、延長六百七十メートルの大防波堤を築き、松数百本とハゼ数百株を植えたのである。
私財での土木工事・広橋の架けなおし・広村大堤防築堤には築堤当初、千五百七十二両余
安政二年には八百十八両安政三年に、七百両安政四年には五百両を投じたのである。。
これが今日広川町の海岸に、二重の防波堤と松林となって延々と走っている。安政大地震の後、梧陵の自費で築いたこれが、以来百余年の長きにわたって、津波と台風とから町を守ってきたのであった。それが効果を発揮したのは90年後でした。
梧陵66歳の生涯は社会、公共、コミュニティーのために多額の私財を投入じて貢献した稀有の人物である。
<参考文献>
杉村広太郎(1938):浜口悟陵伝,楚人冠全集,第7巻,日本評論社,
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