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日本リーダーパワー史(150)空前絶後の名将・川上操六(24)ーインテリジェンスの父・川上の決断力のすごさ

   

 日本リーダーパワー史(150)
空前絶後の名将・川上操六(24)
 
<インテリジェンスの父・川上の決断力>
 
                 前坂 俊之(ジャーナリスト)

 日清戦争勝利の秘密―清国兵出兵の第一報>

 
 日本陸軍で軍事諜報(スパイ)の重要性を最も痛感していたのは川上操六であることはこのシリーズで詳述した。

明治23年、議会の開設と共に、会計検査法がやかましくなって、参謀本部がその機密費を封じられた際は、川上は東京麹町三番町の自邸(旧・博文館の所有)を担保に入れて金を工面した。国を守るには情報こそ欠かせない。
孫子の兵法第一条の『敵を知り己を知れば百戦危うからず』を実践するため、身銭を切ってまで部下を大陸、西欧まで派遣したのである。

 
こうして日清、日露戦争で活躍する影の戦士たちを一手に養成した。福島安正、花田仲之助、田中義一、廣瀬武夫、青木宜純、山岡熊治(明治1.10.25 (1868.―大正10.8.7 (1921) 、陸軍。高知県出身。陸軍中将山岡重厚は実弟。明治23(1890)年陸軍士官学校卒。同32年陸軍大学校卒。
日露戦争(1904~05)では第3軍参謀軍使として旅順水師営のロシア軍営に赴き非戦闘員の避難勧告はせ奉天会戦では失明、帰国中佐となる。のち盲人協会会長を務めた。=,勇名軍人
朝日日本歴史人物事典)、武藤真義、明石元二郎ら優秀な情報部員はすべて、川上の子飼いである。
川上はスパイを蔑視する西欧と違って、古来から忍者、御庭番を諜報、情報役として重視してきた日本古来からの武道・軍略にも通じていたのである。川上の庇護によって、彼らは命も名も金もいらぬ、国家を守り、川上のためならばと単身、敵地に乗り込んでいったのである。明治天皇も川上を信頼し、情報の重要性をよく認識していた。
 日清戦争の開戦情報をいち早く送ってきた無名の鐘崎三郎(写真・左)を明治天皇がお召しになって、恩賜の栄誉を与えたのも、その第一報の重要性を川上ともどもよく認識していたためである。
 鐘崎三郎は明治二年一月二日、福岡県三猪郡の天満官の社僧の家に生れた。早く父母を失い、社僧に飽き足らず、陸軍幼年校の試験には合格して無断で借金して東京へでてきたが、告訴される。
 陸軍幼年校は途中で中退し、その後、長崎に行って中国語を勉強して、中国に雄飛したいと願っていた。そんなある日、荒尾精が日清貿易研究所を上海に開くと聞いて、喜んで上京して入所を願いでたが、荒尾からは拒否されたが、その後も熱心に懇願するので遂に許される。
この荒尾を育て、援助して自宅を担保に金を出したのは川上である。その日清貿易研究所では鐘崎は生徒ではなく、寄宿生をしていたが、撫湖という奥地から日本人求むという貿易商のところに1年半にわたって名を李鐘三との中国人名にかえて働きに出かけた。この撫湖で商売にも成功したが、村を牛耳る無頼の親分二人を、その腕力で成敗して一躍、有名となった武勇伝がある。鐘崎の中国語もめきめき上達し、その態度も中国流が板についてきた。
 <鐘崎三郎とは何者か?>
 その後、商用で明治26年六月に帰国した。大阪や堺の商業会議所に中国との貿易について講演した。明治二十七年三月、再び上海へ渡り、今度は鐘左武と名乗って、中国大陸を東西南北に渡り歩いた。揚子江を漢口―鎮江―准安―山東省折州―膠州に出せ、同湾を一周して青島に入り、そこの新築軍港の模様を探査し、卸墨菜陽を経て無事、芝罘(チイフウ)に到着、三十五日間、行程2800キロの偵察旅行をおこなっている。
(写真は荒尾精)
この時、途中で、汽船「日本丸」が山東の倭島村で遭難したが、言葉が通じなくて困っていると聞いて、3日かけて歩いて、たどりつき通訳をして助けた。ついでに、一週間あまりここに滞在し、そこで威海衛軍港をひそかに偵察してくるというインテリジェンスの持ち主である。
 
 芝罘領事の家に客として滞在して、牛荘へ向かうところ、渤海沿岸をポートで旅行しょうという軍人らしい人物に出会った。
2人は意気投合して中国式の6メートルのポートを手に入れ、中国人の乗組員3人をやとって6月3日に、太古(さんずいに古)を出発した。浦河口などで沈没して、同26日に天津に戻ってきた。この相手は天津駐在の海軍武官・瀧川具和とその後わかった。
天津に帰ってみると、朝鮮で東学党の乱がおこり、日中間で朝鮮をめぐっての風雲急を告げた。
戦争は免れぬムードになり、天津の在留邦人は全部、内地へ引き上げることになった。ただひとり上海貿易研究所の卒業生である石川伍一だけが、
ふみ留まるという。「そんなら僕も君と一緒に居残ることにしょう」と鐘崎もここにとどまった。
 
天津は中国で重要な戦略的要地である。日清戦争時に大本営のあった広島に対する宇品と同じような関係で、北京政府の意向や李鴻章の野望や情報、戦略もここにいれば筒抜けにわかる。朝鮮に出兵する軍隊は大抵ここから乗船する。居残って情報収集に当たっていた石川、鐘崎は逐一、敵情報を参謀本部に急報した。
 
 大本営の川上参謀総長(次長)が、混成旅団の派遣の最後の決心を固めたのは七月十六日夜のことである。
「清国政府は十五日、芝罘、牛荘より両所より陸兵1500名を朝鮮へ向け出撃せしめたり」との鐘崎らによる急報が参謀本部に届いたからである。
川上は即決断し、逸早くその裏をかき、敵に数倍する8000人の大兵を急きょ派遣した。
電光石火のスピードであったが、これには李鴻章は茫然としてなす術を知らなかった、という。
 
この情報発信者は参謀本部の記録にも記載されていないが、鐘崎、石川コンビによるものであった。鐘崎の手紙には「李鴻章を一驚させたのは天津にあるものの運動気敏の故で、早くも李鴻章の計画を探知し得たるためなり。余の如き不敏といヘえども平生の万分の一をつくす……」とある。
 
この日本戦史上での重要性は信長の桶狭間で今川軍が休息しているという情報以上のものがある。日清戦争は日本にとって初の対外戦争であり、大国中国とののるかそるかの一戦だけに、川上の決断と伊藤博文首相を旅団編成の数字でごまかした手腕はただ者ではない。明治以降の軍人では最高峰である。この先手必勝、機戦を制した情報の入手と即派兵したのが日清戦争の緒戦勝利の決め手となった。『敵を知り』の兵法大原則の実践である。
 
 時局は更に緊迫した。、8月1日、宣戦布告と同時に、代理公使小村寿太郎も、北京をひきあげて、天津から乗船した。中国側はしばらくして、石川、鐘崎の情報だと気がついて2人は身の危険を感じた。2人も小村公使と同じ船に乗ることになった。
ところが、この大切な天津のその後の情報活動は一体誰がおこなうのか、情報が入らなければ、今後の戦争に著しい不便を生じる。そう考えた
二人は、大胆にも途中から船を降りて、こっそりと市街へ再び潜入をはかった。
 
その時運わるく二人は離ればなれになった。石川はひと足さきに市内に入り、不敵にも城内の中国旅館に泊り込んでいるところを見つかって逮捕され銃殺刑を受けた。
鐘崎は敵の追跡をくらますために、上海に向かうのを一応北にのぼり、ついでに山海関を偵察し、北京の周囲をまわってて直隷省の様子を偵察し、それから山東省に出て、上海にもどった。
 
 上海は局外中立地帯で、戦火を及ぼさない申合せになっていたので、鐘崎は外国船にのって九月二日神戸にたどりつき、翌日、東京についた。
 
川上参謀次長は日清戦争の第一功労者として、9月12日に『大本営付通訳官』という役名を与えて徴用した。鐘崎は一個浪々の大陸浪人ではなく、歴とした官職付きの身となったのである。
十月四日、鐘崎に大本営からお召しがあった。大本営に伺い、控室で携帯の支那服に着がえて待っていると、侍従からのお知らせがあり、川上参謀次長が陪席して、鐘崎の勇敢、沈着な行動の概略と、それが作戦計画に及ぼした大きな功績を明治天皇に奏上した。明治天皇からは功労のねぎらいと酒肴料と茶菓を賜わった。

さて、鐘崎らは再び船にのり、大山第二軍々司令長官と同じ長門丸にのって十月十六日、宇品港を出発した。
 
この時、鐘崎と一緒に、乗り込んだ陸軍通訳官という名の軍事スパイは山崎羊三郎、藤崎秀,大熊鵬、猪田正吉、向野堅の5人で有栖川参謀総長の謁見の栄誉に浴した。23日に花園口付近にひそかに上陸して予定に任務についた。
 
大熊、猪田、向野の3人は漁船から支那服をうばって支那漁師に化け、鐘崎、山崎、藤崎の3人はそれぞれ別の地点で海に飛び込み、与えられた別々の任務をこなすために暗闇の中に消えた。
 
しかし、敵の警戒網も厳重をきわめて隙間がなく、山崎は早くも上陸後三日目の二十六日に、藤崎は三十日に、鐘崎は31日に、いづれも碧琉河の近くでつかまり、金州城の西門から2キロの俗に殺人廠といはれてゐるー死刑場で斬刑に処せられ。山崎31歳、藤崎23歳。鐘崎26歳。三人の姓にいづれも崎の字がついているので、世にこれを三崎と称して、後に第二軍が金州城を占領した時、敵の文書でその壮烈な死の顛末をしり、屍骸を掘りここし、金州城外の丘陵に手厚く葬った。
 
一方、大熊と、猪田の二人は、行方不明となった。残る向野も敵につかまったが、奇計と大胆に脱走に成功し、金州の敵状を偵察して九死一生を得て戻ってきた。これによって、貴重な情報をもたらして、金周攻略に大きく貢献した。これら五人衆のほか、同じような痛ましい最期をとげた石川伍一、藤島武彦、楠内友次郎、福原林平の四人を加へて「征清殉難九烈士」といわれる。表面にはでない影の戦士たち、秘密情報部員の活躍によって日清戦争の緒戦の勝利はきずかれた。
 

 

 
 (参考文献 納戸鹿之助『烈士鐘崎三郎』(昭和12年刊 151頁 同伝頒布会 非売品)
 

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