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「トランプ関税と戦う方法論⑭」★『日露戦争勝利と「ポーツマス講和会議」の外交決戦始まる②』★『その国の外交インテリジェンスが試される講和談判』★『ロシア側の外交分裂ー講和全権という仕事をウイッテが引き受けた』

   

  オンライン講座/ウクライナ戦争と日露戦争の共通性の研究 ⑨』

 以下は、 前坂俊之著「明治37年のインテジェンス外交」(祥伝社 2010年刊)
大竹博吉訳『ウィッテ伯回想記ー日露戦争と露西亜革命」(上中下 ロシア問題研究所 1930年)から引用

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%86

講和全権という仕事

  六月下旬、アメリカ大統領ルーズベルトが、ロシアと日本を講和させるために仲裁の労を取ろうと提議してきた。陛下(ニコライ二世)がアメリカ大統領の提議を容れて日本と講和談判を開く決意をしたとき、第一に起こった問題は、交渉の要の全権を誰に選任するかであった。

 外務大臣ラムスドルフが、「この難局に当たり、談判をいくぶんでも良好の結果に導ける者はウィッテの他にない」と奏上したとき、陛下は一言も答えなかった。外見は非常に温和であるが、内心は剛腹(頑固な性格)で、行動に表裏のある陛下が、日本との講和談判という国家的大事を、私に委任する度量を持っているとはとても思えない。

 私は戦争が始まる前に、もし戦争になればその結果は恐るべきことになるであろうことを予見していた。機会あるごとにこれを言明し、陛下に謁見した際にしばしば言上した。しかし、形勢はますます悪い方向に進展していった。皇太后は私の願いを受け入れてくれ、機会を見ては陛下に忠告してくれた。陛↑は、「自分は決して戦争を欲しないから、戦争が起こるはずはない」と言って皇太后を慰めた。

私がいかに戦争の勃発とその結果について心を痛めていたか、それは陛下も十二分に承知していた。しかし陛下は、財政、政務に関しては、私に絶対的な信用を置いたにもかかわらず、極東問題に関してはことごとく私を疎外した。

 ラムスドルフ外相はあるとき、私に言った。

「首席全権には、在パリ大使ネリドフを任命することに内定しました。それで今は、会合の地をどこにすべきかについて考慮中であります。もっともルーズベルトは、談判が米国で行なわれることを希望している様子でありますが、われわれはヨーロッパのどこかで会合する方が便利だと考えています」私は答えて言った。

「会合地には、どこか戦地に近い地点を選択する方が便利だとは考えますが、それで差し支えがあるなら、むしろアメリカとする方が適当でありましょう。なぜならば、ヨーロッパで会合すれば、各国の陰謀がうるさいことは必然だからです」

 その後、ラムスドルフは私に話した。

「ネリドフは老齢と健康を理由として大命を辞したので、在デンマーク大便イズヴオリスキーに交渉したところ、彼も、『自分はその任に適しない。今の場合、この難局に対して相当の成功を収める者は、ただ一人、ウィッテである』と言って辞しました。すると陛下は、今度は在ローマのムラヴィヨフにこれを委任する考えで彼に命を発しました」

 ムラヴィヨフは間もなく帰国し、ある晩、私を訪問して二人は夜遅くまで語りあった。そ のとき、彼は私にこう言った。

「今日陛下に謁見して、日本全権と談判するために米国へ行くことを命ぜられました。そこで私は、わが国のためには、講和するよりほかに生きる道のないことを率直に申し上げたのです。しかし、この使命は容易なものではありません。なぜならば、それは成否にかかわらず一部の人々の非難を免れないからです。

もし談判が順調に運んで講和が成立すれば、一部の者は、敗戦の屈辱を糊塗するために、『惜しいことをした。ムラヴィヨフが講和を急がず、談判が不調にさえなれば、日本人を叩き破ってやったのに』と、きっと言うでありましょう。

 その道に、もし講和が不調に終わればこの先、いろいろな災禍が続出するに違いありません。一部の者は、『それ見ろ、ムラヴィヨフがもう少し努力さえすれば、講和は成立したにちがいない。そうすれば、こんな不幸を招来することはなかったろう』 と、きっと言うでありましょう。しかし私は覚悟しています。今度は国のために自己を犠牲にして奉公の誠を尽くす心構えです」

 彼は、誰を随員として選定すべきかに私の助言を求めた。私は、在北京の公使ポコチロフと大蔵省の一局長であるシーポフの両人を推薦した。前者は長く清国に在住しているし、後者は私の部下であって、共に極東の事情に精適していたからだ。それから、ムラヴィヨフは話のついでに、次のように言った。

「私は、早くから醜悪極まるサンクト・ペテルブルクの空気を逃れ、外国へ行っていたことを心から感謝しています。なぜなら、外国にいて、わが国の政治体制を冷静、客観的に見られ、考えられたからです。その結果、イタリアのような社会主義者の多い国と比較してみても、今日までにロシアに起こったいろいろな事態を見ても、ロシアを救いうるものは、ただ『憲法あるのみである』 という点を確信しました」

 彼は私のところに夜遅くまでいて、自身でも健康状態は至極いいから安心してくれ、と言った。

「ウィッテ、全権を引き受ける]

 ある日、大臣委員会が終わったとき、ラムスドルフ外相がやってきた。彼が正装していたので、陛下に謁見したことは明白であった。私と別室で内密に相談したいことがあると言うので、二人で議長室に入った。彼ははまず口を開いた。

「私は、あなたの忌憚のない意見を聞きたい。それは、もし陛下からの委任があれば、日本との講和談判を一身に引き受けて、米国へ行く意志があるかどうかということです。これは、本来なら陛下から直接にあなたにたずねるべきですが、陛下もあなたの意中を汲みかねておられます。万一あなたに異存があったときには、双方ともはなはだ気まずいことになるから、常日頃、あなたと親交のある私に、あなたの心のうちを探ってくれないかと依頼されのです」

「あのムラヴィヨフはどうなったのですか?」と、私は反問した。すると外相は答えた。

「私もいま陛下から聞いたばかりなのですが、何でもムラヴィヨフは昨日宮中に伺候して陛下に謁見したものの、持病が再発したという理由で全権を辞したそうです。その際、自分が望むようには御奉公のできないことを嘆いて涙を流したので、陛下も『ムラヴィヨフはよほどの重病らしい』と言っておられました」

 私が、このムラヴィヨフの「仮病の辞退」をどう見るかと聞くと、彼は答えた。

「ムラヴィヨフは、元来が外交官たる才能に欠けていますし、また今度の談判に必要な研究もしていません。急な命令に接したときは、持前の功名心に煽られて飛びついてお受けしたのでしょうが、利口な彼は、この談判の成否が彼の将来の栄辱に深く関係し、大きな危険が潜んでいることに気付いたのです。それで、急に嫌気がさしたのでしょう

 それにもう一つは、彼は全権に対する手当に大きな興味をもっており、自分では一〇万ルーブルくらいは支給されると思っていたらしいのです。ところが私が、全権の手当は私の上奏によっ1万五千ルーブルと決定していると話したら、彼は非常に失望した表情を示しました。これも原因の一つになったのかもしれません」

 私は、ラムスドルフに言った。

「それでは仕方がありませんから、あなたが自ら出かけるか、さもなければ外務次官オボレンスキーを派遣したらどうです」

 すると外相は、「私はいま、任務を離れるわけにいきませんし、オボレンスキーではこの大任を任せることはできません」

 それから外相は、国内の情勢からロシアが危機に臨んでいる事情や、講和の成立を絶対に必要とする次第を詳細に述べ、承諾をすることを勧めた。ロシアが講和の成立を絶対に必要とすることは言うまでもなく、自分が常に言っていることだ。

その情勢を知りながら日本側に譲ることなく折衝するには、相手国である日本の内外の情勢、指導者の性格や技量を知り尽くしていなければならない。その点で私以上に知識を有する者がいない。ても私が起たねばならない。そう意を決したのですぐに答えた。

「よろしい。もし陛下から私にじかに命令があったなら、お引き受けしましょう」ラムスドルフは非常に満足した表情で去った。

 早速その晩に陛下から呼び出しがきて、六月二十九日に参内した。陛下は非常に満足の意を表され、ただちに私を講和全権に任命した。同時にこの際、心から和議の成立を希望するが、それはどこまでもロシアの体面を守るものでなければならない。いかなる場合でも一ルーブルの賠償金も、一握りの領土も譲渡するものであってはならないと厳命した。

それから、わが軍の現状については、国防審議会議長のニコライ二一コラエウィチ大公から聞くようにと言われた。

 私は宮中から退出し、外務大臣を訪ねて任命を請けたことを話し、陛下の意を伝えた。ラムスドルフは随員のことについて、前にムラヴィヨフの随員とし任命された人々をそのままに残してよいか、または私に随員に対してなにか肴望があるかを尋ねた。今ここで随員を変えれば、罷免された者は必ず不快を感ずるであろう。私は何人にも不快を与えたくないので、そのままにしておくことにした。

 それからまた、訓令についても、前にムラヴィヨフに与えられたものでいいか、あるいは新たに作ろうかと切り出してきた。私は、いかなる訓令にも拘束されたくないから、全権に対する訓令は一種の参考書類であるにとどめてほしいと、二人の間で申し合わせをしておいた。

 - 人物研究, 戦争報道, 現代史研究

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