前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

日本リーダーパワー史(415)『インド独立の原点・日本に亡命帰化しインド独立運動を指導したラス・ビハリ・ボース (中村屋ボース』

      2015/01/01

 日本リーダーパワー史(415

グローバルジャパニーズ

『インド独立の原点・日本に亡命,帰化しインド

独立運動を指導したラス・ビハリ・ボース

(中村屋ボース)

<歴史読本(201011月号)に掲載>

 

前坂俊之(静岡県立大学名誉教授)

 

〔インドの若き革命家 〕

 

 英国からインドが独立する引き金となった男である。英国官憲に追われて日本に亡命、大アジア主義者の頭山満や新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻らの庇護を受け、相馬の長女俊子と結婚、インド独立運動の先頭に立った。日本・インド友好の先駆者である。

 

 ラス・ビバリ・ボースは一八八六年(明治十九) 三月、インド東部のカルカッタ近くで生まれた。父はベンガル政府の役人だった。

一七六五年、英国は東インド会社主導でインドを植民地とした。その徹底した搾取と差別と弾圧に憤ったボースは十五歳で独立運動に立ちあがった。明治三十八年(一九〇五)、日露戦争が日本の勝利に終わる。初めて有色人種が白色人種をやぶったニュースは世界を驚かせ、アジアをふくめた有色人種に大きな希望を与えた。

 

 十八歳のボースも感動し勇気づけられた。その後、営林署長となり、化学薬品に精通して、爆弾作りの技術を磨くなど武力革命のリーダーに成長していった。

 明治四十五年(一九一二)、ボースは武力革命の秘密が発覚したため、単身で英総督府入城直前のハーディング総督に爆弾を投げつけて重傷を負わせた。大正四年(一九一五)二月にはインド全土の兵営の反乱を指揮したが失敗し、英国官憲に追われる身となった。

 

 このため、あこがれの日本に脱出し独立運動を再構築することを決意し同年六月、船に乗りの変名を使って神戸に亡命してきた。

 

〔 東京での亡命生活 〕

 そのころ東京はアジア革命の一大拠点であり、アジアの植民地各国の独立運動家たちの亡命したきていた。清国から追われていた孫文も東京で亡命生活を

送っており、ボースは孫文から日本での庇護役の頭山満、犬養毅らのアジア主義者を紹介されたのである。

 同年十一月、上野精養軒で開かれた在日インド人主催のパーティーでボースが英国の植民地政策を激しく批判する演説を行い、英大使館はボースの拘留と国外退去を日本側に強く要求してきた。

 

 当時、日印協会会長であった大隈重信首相は、日英同盟重視からボースの引き渡しを認めたため、野党やアジア主義者たちは新聞を通じて一斉に反対の声をあげた。

しかし、同年十二月二日を期限として国外退去命令が出された。その期限日までの船便は上海行きしかなく、上海で英国官憲につかまれば処刑される絶体絶命のピンチとなった。

    

 ここで「窮鳥(きゆうちよう)、懐に入るじゃ、オレが助ける」と頭山満が言明。やがて政府もボースの国外退去を撤回したが、英国官憲の追及の手は厳しく、頭山は玄洋社の配下を使ってボースを匿うことにした。そこで国際派の相馬夫妻にボースの隠れ家を依頼し、中村屋のアトリエに庇護することになった。

 

 ボースはその後、頭山らの庇護を受けながら十七回も隠れ家を転々と変え、六年間の地下生活を送った。

 

〔 母国独立への貢献 〕

 この間、ボースとの秘密連絡係を務めたのが相馬の長女・俊子である。頭山はボースの身辺を守るために、キリスト教の教育を受け英語が堪能だった俊子とボースの結婚を望み、二人は大正七年(一九一八)に結婚する。同十二年にボースは日本に帰化して日本人になった。中村屋の重役に就任してインド式の本格的なカレー料理を伝授しながらその後もインド独立運動にまい進した。

 

 二人の間には子供二人ができたが、大正十四年、俊子は二十六歳の若さで急死した。ボースは翌年、アジア民族連盟を組織、アジア各国の独立支援運動に乗り出した。昭和に入って戦雲が急を告げると、青年アジア同盟(昭和八年)、日印交友会(同十一年)、インド独立連盟(同十二年)などを次々に結成した。

 

 昭和十六年十二月に太平洋戦争が勃発するとインド独立連盟、インド独立軍の総統に就任、十八年にボースは病気となって帰国、バトンタッチしたチャンドラ・ボースがインド仮政府首席に就任した。

 

 亡命以来三十年間、日本で母国インドの独立運動に生涯をささげたボ

ースは、インド独立を見ずして昭和二十年(一九四五)一月二十一日、六十歳で病死した。

 それから二年後、昭和二十二年(一九四七)八月にインドはイギリスから独立した。そのキッカケとなったのは、ボースが訓練したインド国民軍を英国が処罰しょうとしたのに反対して全インドの軍隊、学生、労働者が一斉蜂超したためだ。

 昭和戦後、ネール首相などのインド要人が相次いで来日、インド国民の名において中村屋とボースの功績をたたえた。

 

●『日本リーダーパワー史(33)『日本とインドの架け橋』大アジア主義者・頭山満とインド人革命家・ボース

http://maesaka-toshiyuki.com/detail?id=313


 - 人物研究 , , , , , , , , ,

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
日本リーダーパワー史(190) (まとめ)『この150年間で、異文化体験に成功したベストジャパニーズ100人』①

  日本リーダーパワー史(190)   (まとめ・リーダーシ …

『Z世代のための日本最強の宰相・原敬のリーダーシップー研究③』★『藩閥政治の元凶・山県閥をどう倒したか②<立憲民主党は100年前の大正政変・大正デモクラシーを見習え>』

  2012/08/03  日本リーダーパワー史(290)記 …

no image
日本リーダーパワー欠落史(748)『 対ロシア外交は完敗の歴史、その歴史復習問題』  欧米が心配する『安倍ロシア朝貢外交の行方は!?』 プーチンの恫喝外交に再び、赤子(お人よし外交) の手をひねられるのか!?北方領土の悲劇―ロシアの残虐殺戮、無法占領の責任を追及せず、 2島返還で経済援助までつける安倍外交の失敗』★『戦争終結後に非戦闘員3700人を大虐殺』●『軍人ら約60万がシベリアに送られ、強制労働に従事させられ、6万3000人が死亡した』

  日本リーダーパワー欠落史(748) 対ロシア外交は完敗の歴史、その歴史復習問 …

「オンライン決定的瞬間講座・日本興亡史」⑭』★『尾崎行雄(96歳)の「昭和国難・長寿突破逆転突破力』★『1942年、東條内閣の翼賛選挙に反対し「不敬罪」で起訴された』★『86歳で不屈の闘志で無罪を勝ちとる』★『敗戦後、86歳で「憲政の神様」として復活、マスコミの寵児に』

  ★「売り家と唐様で書く三代目」で不敬罪で82歳で起訴される。 衆院 …

『Z世代のためのオープン講座』★『ウクライナ戦争と「アルマゲドン(最終戦争)」の冬の陣へ(下)』★『バイデン米大統領「キューバ危機以来。アルマゲドンの可能性」とコメント』★『米国の中間選挙の冬の陣へ』★『日本の冬の陣―安倍国葬と旧統一教会』★『●「旧統一教会」は「カルトビジネス(悪徳商法)」「コングロマリッド」(総資産約8千億円)』(11月15日までの情報です)

  キューバ危機以来。アルマゲドンの可能性」 「こうした報道を受けてバ …

『Youtube鎌倉絶景チャンネル・10周年記念トップ30位まで①』>『鎌倉・奇跡の森『獅子舞』『紅葉谷』の紅葉のすべてー(2012年12月8日→)』

    2012/12/09 鎌倉の紅葉の黄金のス …

『Z世代のための世界が尊敬した日本人(47)』100回も訪中し、日中国交回復の「井戸を掘った」岡崎 嘉平太(ANA創業者)

世界が尊敬した日本人(47) 前坂 俊之 (ジャーナリスト、静岡県大名誉教授) …

no image
★⓾(記事再録)『グローバリズム/デジタルデフレ」で沈没中の<安倍日本丸>は『日清、日露戦争」で完全勝利した山本権兵衛海相(首相)の強力リーダーシップに学べ<年功序列と情実人事が横行し無能者が跋扈していた海軍の旧弊人事を一新、派閥を打破した>

2011・3/11から2週間後に書いた記事ー 『いまリーダーは何をすべきかーその …

no image
『リーダーシップの日本近現代興亡史』(231)/2020年は終戦75年目ー『昭和史の大誤算を振り返る』★「国を焦土と化しても」と国際連盟脱退した「昭和最大の外交大失敗」を冒した荒木陸相、森恪、松岡洋右のコンビと、それを一致協力して支持した新聞の敗北』★『日本は諸外国との間で最も重要な橋を自ら焼き捨すてた」とグルー米駐日大使は批判した』

    2015/08/17 &nbsp …

no image
『オンライン/日本経済150年史での代表的経営者の実践経営学講座』★『日本興業銀行特別顧問/中山素平(99歳)昭和戦後の高度経済成長の立役者・中山素平の経営哲学10ヵ条「大事は軽く、小事は重く」★『八幡、富士製鉄の合併を推進』『進むときは人任せ、退く時は自ら決せ』

  2018/05/12 /日本リーダーパワー史( …