前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

百歳学入門(240)-『生き方の美学』★『死に方の美学』★『山岡鉄舟、仙厓和尚、一休禪師の場合は・・』

      2018/07/31

人間いかに生き、いかに死すべきか

脚本家の橋本忍氏が7月19日に亡くなった。

100歳。黒沢明の名作『羅生門』(1950)「生きる」(同52)「七人の侍」(54)「隠し砦の3悪人」(69)など計8本の脚本をてがけ、『ベニス映画祭』「アカデミー賞外国映画賞」などでグランプリなどを受賞、「世界の黒沢映画」のスタッフとして橋本氏も最高の栄誉に輝いた。このほか「切腹」「上位討ち」「日本沈没」「砂の器」などの脚本、監督もつとめた日本を代表する脚本家、映画人であった。

 

私は黒沢監督、橋本脚本の映画が大好きで、特に「黒沢映画」は各30回以上は見てきた。中でも「人間いかに生くべきか」に悩んでいた大学生当時に見た「生きる」にはいたく感動した。

ガンで余命半年と宣告された初老の市役所市民課長が絶望の淵に落ち、徘徊し自分の人生に問い直し、何を終活して死んでいったかというヒューマニズムにあふれた作品だ。お役所仕事の実態や社会矛盾に鋭いいメスをいれ、親子の断絶や人生を根源的な問うた映画で、1972年度の「映画史上最高の作品ベストテン」(英国映画協会)の第12位にランクされた。

私はこの映画は何十回も見てきたが、自分も齢とともに「どう死すべきか」をより真剣に考えるようになった。75歳を迎えた今は「死生学」「禅の本」の本に凝っている。

生死の超越こそ禅の大課題

さて、日本の仏教の究極の境地は生死の解脱(げだつ)であり、その境地に達すれば「悟り」を開いたという。生死の超越こそ禅の大課題であり、禅師は臨終にのぞみ、いかに従容として死を超越したかが問われる。その臨終の遺言を「遺偶(ゆいげ)」という。
禅家の遷化(死に方)は3つ。座脱(坐禅を組んだまま死ぬ)、立亡(杖をついたまま死ぬ)、火定(かじょう、火中に死ぬ)がある。

山岡鉄舟のケース

明治維新の立役者『江戸城無血開場』を成し遂げたのは西郷隆盛、勝海舟、山岡鉄舟である。ゼンの大家の山岡鉄舟は晩年は胃ガンを病んた。1888年(明治21)七月十七日夕、風呂から上がると夫人に、「白い衣を持ってこい」と命じ、白衣を着て、皇居に向かって一礼して、蒲団に入った。その夜,ガンが破裂して危篤状態に陥った。

親族、門人、知人が二百人ばかり馳せ参じて、鉄舟の病床をとり囲んだ。勝海舟が駆けつけ、「オレを残して先に逝くのか。ひとり味なことをやるではないか」というと、「もはや用事がすんだから、お先にゴメンこうむる」と鉄舟は答えた。

同夜、鉄舟は「みんなさぞ退屈であろう。俺も退屈だから」といって三遊亭円朝に命じて落語をやらせた。円朝も満座の雰囲気に打たれ、涙声で落語をやると、鉄舟はフトンにもたれ微笑ながら聞いていた。

十九日午前九時、弟子に向かい「しばらく人払いをしてくれんか。昼寝の邪魔になるから」という、一同が別室に退席すると、鉄舟は身を起こして蒲団を離れ、皇居に向かって「結跏趺坐」=(けっかふざ)は、仏教の瞑想する際の座法)した。しばらくすると右手を差し出したので,弟子がウチワを渡した。鉄舟は目をつむって、そのウチワの柄で字を書いていて果てた。

仙厓(せんがい)和尚の「死にとうない」

博多には当代随一の禅僧・仙厓(せんがい)和尚(1750-1837)がいた。禅一筋に生き、戯画を描いては大衆に禅をとき大変親しまれていた。臨終が迫り、弟子が遺偶をお願いした。

固唾をのんで弟子たちが見守っていると、なんと、「死にとうない、死にとうない」と書いた。

「立派な遺偶が出てくるもの」と信じこんでいた弟子たちはびっくり仰天、「もうちょっと、気の利いたことを書いていただけませんか」と恐る恐る申し出た。「ああ、そうか」と仙厓はあっさりにうなずいて、筆を持ち直して、「死にとうない、死にとうない」の横に「ほんとに」と書き足した。

いかに高名な禅僧でも、これが本音かもしれない。臨終の床で酒脱にあらわし仙厓の人気を一挙に高まった。

「生死一如」―生きることは死ぬこと、よく生きることはよく死ぬこと。日本は今や「人生90歳時代」を迎えているが、「延命医療」『長寿介護』、クスリづけで、生かされている面が多分に多い。

最後に、一休さんの「禅のクスリ」を一服。

一休禪師の遺言状

応仁の乱(1467 -77)によって焼け落ちた京都・大徳寺の持住を一休宗純が命じられたのは81 歳の時。一休は寺の再建を果たすと、さっさとやめ、一四八二年に亡くなる直前に遺言状をしたためた。

その開封には厳しい条件をつけた。

「この遺言状は決して開けてはならん。しかし将来、大徳寺が危機存亡の淵に立ったときは、その限りではない。ただし、開封する前に役僧が集まって二週間、真剣に討議し、しかも名案が浮かばない場合にのみ開けてもよい」

約100年後、大徳寺の存亡にかかわる重大事件が勃発した。役僧が集まり、鳩首会議を繰り返したが、解決策は全く浮かばない。

さらに一週間、遺言を守って、会議を連日続けたが、万策尽き果て、最後の手段は一休の教えにすがるしかない、と全員一致した。

おそるおそる遺言状を取り出し、全員緊張しながら開封した。

そこには次のように書かれていた。

「なるようにしかならん。心配するな」

 

 - 人物研究, 健康長寿, 湘南海山ぶらぶら日記

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
『F国際ビジネスマンのカメラ・ウオッチ(56)』『4/7日、奈良の唐招提寺に古寺巡礼④』絶えず天平の風と時間が流れる。

      『F国際ビジネスマ …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(308)★『関 牧翁の言葉「よく生きることは、よく死ぬこと」★『一休さんの遣偈は勇ましい』★『明治の三舟とよばれた勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟の坐禅』

2020/03/09  関 牧翁のことば「よく生きることは、よく死ぬこ …

『Z世代のための日本世界史講座』★『MLBを制した大谷翔平選手以上にもてもてで全米の少女からラブレターが殺到したイケメン・ファースト・サムライの立石斧次郎(16歳)とは何者か?』 ★ 『トミ-、日本使節の陽気な男』★『大切なのは英語力よりも、ジェスチャー、ネアカ、快活さ、社交的、フレンドリー、オープンマインド 』

  2019/12/10 リーダーシップの日本近現代史』(194)記事 …

no image
日本リーダーパワー欠落史(748)『サッカーにも共通する日本失敗の原因は<実力より、人気、ブランド、視聴率重視>』『サッカー・サウジアラビア戦はいつもの【セルジオ越後】選評がズバリ的確』●『本田は「リトル本田」のまま。原口と大迫が“看板”なんて重要でないと証明したね』★『若手の成長株の抜擢が成功の鉄則』★『「京」また世界一に!―スパコンの実用性を競う「HPCG」』

 日本リーダーパワー欠落史(749)  『サッカーにも共通する日本失敗の原因は …

『Z世代のための日本フェミニズム運動歴史講座』★『日本で初めて女性学を切り開いた高群逸枝夫妻の純愛物語』★『1931年(昭和6)7月1日、日本の女性学が誕生した』★『火の国の女の出現』★『日本初の在野女性研究者が独学で女性学を切り開いた』

2024/06/27 日本女性史研究講座』 2019/11/25 『リ …

no image
「昭和史決定的瞬間/名シーン』-『1941年(昭和16)12月3日の山本五十六連合艦隊司令長官の家族との最後の夕餉(ゆうげ、晩ご飯)』★『家族六人一緒の夕食で山本も家族も何もしゃべらず無言のまま』(日本ニュース『元帥国葬」動画付)

山本五十六の長男が回想する父との最後の夕餉(ゆうげ) 昭和十六年(1941年)1 …

no image
日本リーダーパワー史(129) 『自滅国家日本の悲劇』ー太平洋戦争開戦でのリーダーシップと比較検証する①

日本リーダーパワー史(129) 迫り来る国家破産と太平洋戦争開戦でのリーダーシッ …

『バガボンド』(放浪者、漂泊者、さすらい人)ー永井荷風の散歩好きと野垂れ死考①

  『バガボンド』(放浪者、漂泊者、さすらい人)ー永井荷風の散歩人と野 …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(50)記事再録/『日本戦争外交史の研究』/『世界史の中の日露戦争』㉒『開戦3ゕ月前の「米ニューヨーク・タイムズ」の報道』★『国家間の抗争を最終的に決着させる唯一の道は戦争。日本が自国の権利と見なすものをロシアが絶えず侵している以上,戦争は不可避でさほど遠くもない』

   2017/08/19『日本戦争外交史の研究』/『世界史 …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(79)記事再録/ ★『日本史を変えた大事件前夜・組閣前夜の東條英機』★『近衛文麿首相は「戦争は私には自信がない。自信のある人にやってもらいたい」と発言。東條は「(中国からの)撤兵は絶対にしない」と答え、「人間、たまには清水の舞台から目をつむって飛び降りることも必要だ」と優柔不断な近衛首相を皮肉った。

  2004年5月 /「別冊歴史読本89号』に掲載 近衛文麿首相は「戦 …