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日本リーダーパワー史(700)日中韓150年史の真実(6) 「アジア・日本開国の父」ー福沢諭吉はなぜ「脱亜論」に一転したかー<長崎水兵事件(明治19年)ー『恐清病』の真相、 この事件が日清戦争の原因の1つになった>

      2016/04/21

日本リーダーパワー史(700)
日中韓150年史の真実(6)
「アジア・日本開国の父」ー福沢諭吉の「西欧の侵略阻止
のための日中韓提携」はなぜ「脱亜論」に一転したか
ー中華思想、事大主義の原罪を問う」⑤

 

<長崎水兵事件(明治19年)ー『恐清病』の真相、

この事件が日清戦争の原因の1つになった>

前坂俊之(ジャーナリスト)

 

東京日日新聞(現・毎日)(明治十九年八月十七日)付の
『支那水兵の暴行 警官隊と衝突死傷八十名が死傷』

 

長崎において日本巡査と支那水兵との間,一大争闘を開きたり。

事の起りは去る十三日、支那水兵は長崎に上陸して市中を遊歩し、人民に暴行を加へたるを、通行の巡査がこれを制したるに、水兵は怒りて巡査に抵抗せり、この日はさしたる大事にも至らずして物別れとなりしが、水兵は復讐をなさんと企てけん、去る十五日午後八時すぎ、梅ケ崎署巡査が巡行して広馬場に至りけるに、

支那水兵は突然後ろより巡査の帽を奪ひて地に投げうちたり、巡査はその無礼を怒りて立向ひたるに、兼て埋伏せし水兵、各所より現はれ出で、巡査を取り込んで打擲(うちなぐる)せり、巡査は必死に防禦せる折柄、梅ケ崎署より加勢の人数をくり出し、水兵を制して巡査を助け帰らんとすれども、兼て仕組みたる水兵はいかでこれに制せらるべき、各々得物を打ち振りて掛りけるにそ、巡査も今は已むを得ずして遂に争闘を開きたり。

 

長崎警察署にては斯くと聞きて速に加勢をくり出し、船大工町と元籠町との間に至りけるに、ここにも水兵の伏兵ありて遮り止め、暴行に及びければ、又々一場の争闘を開きたり、

かくて両所の争闘は十一時頃に至りて漸く終りしがこの争闘のために水兵の方にて即死四人、重傷六人、軽傷九人のはか十五六名の負傷者ある由なり、

 

警察の方にては即死巡査一人、重傷五人-軽傷十五人なりと云ふ、この報の如くなれば基は支那水兵が長崎人民に暴行を加へ、巡査がこれを制したるに意恨を抱きて復讐を図りたるに起りたるが如くなれば、わが警察は已むを得ざるに応じたるものにして、詮方のなき次第なりと雖も、かかる争闘を開きて双方に少なからざる死傷を見るに至りしは嘆ずべきの限りなり、

 

以下は木下宗一『秘録日本の百年(上)』人物往来社 、1967年、192-197P)参考にした。

 

1886年(明治十九)八月二日、靖国北洋艦隊水師提督丁汝昌は定遠、鏡遠、威遠、済遠の四隻を率い長崎港に入港した。時を同じくして霹国の東洋艦隊も、旗艦ウラジミル・マーマック号に同国海軍大臣七芸コフが坐来して入港しており、さらに英国艦隊九隻は対馬沖にあって目を光らせていた。当時、英国は朝鮮沖にある小島巨文島を占拠しており、露国は朝鮮の東北にあるラザノフ港をねらっていた。

朝鮮を属国視する清国政府は露国のこの野望を見抜き、露国の東洋艦隊がウラジオを出港したと知って急遽、丁汝昌の北洋艦隊をして尾行させたともいわれていたが、また一方、清国は琉球独立の黒幕となり、北洋艦隊の一部はすでに琉球に入り、丁汝昌も近く琉球に向う予定ともいわれていた。

明治維新からやっと立上ったばかりの日本の国力など、英、露、清の三国からみると、赤ん坊のよちよち歩きぐらいにしかみられなかった当時である。このとき清国水兵の暴行事件が起った。

八月十三日夕刻、清国軍艦の水兵五名が長崎市寄合町の遊廓『楽遊亭』中村新三郎方に上り、娼妓を揚げて遊興していたが、一旦、外で食事をしてまた帰ってくるといって出ていった。同夜八時頃、今度は別の水兵五名が一杯機嫌でやってきた。

同亭では部屋もふさがり遊女もいないので店の者が断わったが、5名の水兵は「パオ、パオ」と言いながら、どしどし二階へ上ってゆくそこへ、先に食事に出ていった水兵5名がもどってき、遊女に迎えられて各自部屋に入っていった。

これをみた先の水兵5名は、「おれたちが先に来ているのに、後からきた水兵に遊ばさせて、おれたちを断わるのはどういうわけだ」 といきり立った主人の新三郎が出てきて 「あの方たちが先客で食事からもどられたのです」 と弁解するのだが、これが通じない。

 

水兵たちは古道具屋で買ってきたらしい日本刀をふり回し、金襖を突き破り火鉢をなげつけ、虎のような暴れ方である。仕方なく新三郎はこのむね丸山町派出所へ訴え出た。

詰合の梁川小四郎巡査がとんできて5名を鎮め、そのうちの大虎(酔っ払い)2名に説諭しようとすると、黒川巡査を突きとばしながら5名とも出ていった。黒川巡査は深追いせずそのまま派出所に帰ってきたが、そこへ今度は十五、六名の集団となった水兵が押しませてきた。

 

その中にさっきの大虎の一人がいるのを見つけた黒川巡査が、その水兵を引きずり出そうとすると、彼らは同巡査を包囲しここにもみ合いとなった。しかし黒川巡査は大虎のウデをつかんで放さず、相手はとうとう持っていた日本刀を抜くや同巡査に二太刀斬りつけた。

 

頭をやられて重傷ではあったが、黒川巡査は相手に組つき日本刀をもぎとったうえ、逃げる相手を追い、船大工町路上で格闘となった。そこへ急を聞いてかけつけた同僚巡査がやっと相手を逮捕したが、これは王葵(二五)といい、頚部に一カ月の重傷を負っていた。

 

日下長崎県知事はこの事件を内務大臣山県有朋へ急報した。山県は井上馨外相と共に北海道視察中だったため、次官の芳川顕正から総理の伊藤博文へ伝えた。伊藤は神奈川県富岡へ避暑中だったが、帰京するとすぐ寺原警保局次長を長崎へ急行させることにし、寺原は警部ら四十余名を率いて、横浜出帆の和歌ノ浦丸で長崎へ向った。警保局長の清浦奎吾(きようら けいご)、は京都へ出張中だったので、すぐ長崎へ急行するよう電命があった。

 

一夜あけた翌八月十四日の長崎市内は支那水兵が多数横行し何んとなく不穏の空気が流れていた。別に衝突はなかったが、彼らは盛んに刀剣類を買いあさっていたといわれる。三日目の八月十五日、この日は支那水兵の挑戦からとうとう日支の市街戦となって爆発した日である。

この朝八時頃、海岸通りの広馬場派出所に福本巡査が立番中、支那水兵四、五名が通りかかり同巡査の面前で水兵の一人が放尿した。これを制止すると、路に落ちていた西瓜の皮をひろって同巡査の顔をなでた。はね返されたその西瓜の皮が、傍らにいたはかの水兵三名に当ると、この三名が同巡査を囲んで袋叩きにした。

 

夏の朝の海岸通りは人通りがはげしい。この理不尽な支那水兵の態度に、傍観してした市民が怒り出し、ついに「白ドッポー艇」がとび出した。この白ドッポー組というのは車夫を中心とする団体で、東京の鳶職と同じく威勢のいい連中である。

この連中が「アチヤば、やっつけろ/」と立ち上った。アチャはアチラサンから出たらしく、長崎に多数渡来している支那人のことである。

 

水兵危しとあって、上陸していた清国士官が警笛を鳴らし、水兵の集合を命じて自ドッポー組と入り乱れての乱闘となった水兵隊はかくし持っていた日本刀や青竜刀を抜き放ち、ドッポー組も日本刀や出歯を振ってこれに対抗した。

アチヤさんの家-貿易商や支那料理店の二階からは支那水兵のため刀剣類が投下され、これに気勢上った水兵は警官隊やドッポー組をじりじりと押していった。警官隊はそれまで帯剣をかたく戒め、無手で対抗していたため一歩一歩、後退し、ついに梅ガ崎署まで退い

た。周署長の江口峰書警部はやむなく最後の断を下し「抜剣」を命じたので、警官隊は一斉に躍り出し、ここに日支の市街戦が展開されるに至った。

 

店は裏戸をおろし通行は全く止った。急を聞いてドッポー艇は刻一刻と数を増し、武器をもたぬ連中は屋根にかけ上り、瓦をはいで水兵隊に投げつけた。この乱闘は夜半まで続けられたが結局、水兵隊の軍艦引上げて修羅の巻もおさまった。しかし街のあちこちには血まみれ姿が放ったあっており、日本側の手で病院に運ばれた。

 

水兵たちは大浦のドイツ人ホテルを仮収容所にして手当を施した。長崎始審裁判所で取調べにかかったが、柏手が外国人であるため清国領事の立会いを求めることになり、この旨連絡したがなかなかラチがあかぬ。十六日午前二時に至り、領事の蔡幹がやっと腰を上げた。しかもそれが支那式の大ゲサなものである。

 

行列の先頭に「大清国領事街門」と大書した高張提灯一対を押し立て、その後から銅羅(どら)を打ち鳴らしての尊大ぶり。双方で臨検が終った時はもう朝になっていた。その

結果、日本側の被害は死者二、負傷者二九。清国側の死者八、負傷者四二。双方の死傷者数八十名という大不祥事である。

 

結局この事件は外務省に移され、取調局長鳩山和夫(故鳩山一郎の父、鳩山由紀夫の曽祖父)は外務省顧問米国人デニソンを同伴して長崎へ出張、清国側より日本駐在参賛官・楊枢が顧問の英国人ドラモンドを同伴してきた。双方審理の末、水兵の王葵を逮捕した際、警官が捕縄を用いず普通のワラ縄を用いたのは、清国軍人を侮辱したもので、非は日本側にありということになった。

そのあと撫恤金を交換することになった。日本側より五万五千円、清国側より一万五千五百元を支払うことで和議が成立した。

しかし、この外交談判には国民が承知しなかった。軟弱外交として世論沸騰し、各地でかなりの騒ぎをまき起した。

この政府の腰の弱さは、ノルマントン号事件によってさらに糾弾の火の手をあげた。このノルマントン号事件というのは、日本人船客二十三名をのせ横浜を出帆して神戸に向った英国汽船が、紀州沖で沈没した際、英国人の船長以下は助かったが、日本人乗客全部を見殺しにしたという事件である。

 - 人物研究, 現代史研究

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