「トランプ関税と戦う方法論⑬」★『日露戦争勝利と「ポーツマス講和会議」の外交決戦始まる①』★『ロシア皇帝ニコライ二世は「あの黄色子猿の日本軍」などは簡単に勝てる」と侮っていた』★『皇帝が寵愛したロシア総司令官・アレキセーエフと陸軍大将・クロポトキンの2重指揮体制が対立し分裂、混乱、敗戦した』
ンライン講座/ウクライナ戦争と日露戦争の共通性の研究 ⑧再編集
前坂 俊之(ジャーナリスト)
日露戦争は日本軍の連戦連勝のほぼ完勝に終わったが、その裏には、川上操六前参謀総長、大山巌参謀総長、児玉源太郎参謀次長らが緻密に築き上げてきたクラウゼヴィッツ戦略の応用など用意周到な軍略と、伊藤、山県、大山、松方らの政略が見事に一致し、一糸乱れぬ統制のもとに、戦争目的が達成されたことが挙げられる。
一方、ロシア側はどうだったのか。
日本とは正反対に軍略と政略とがバラバラで、皇帝の下に総司令官と軍司令官とが並立し、軍令が二チャンネルとなった上、その互いの権限は曖昧なままで、指揮命令系統がバラバラだった。今回のウクライナ戦争におけるプーチンツアー(皇帝)と参謀本部のミスマッチと同じである。プーチン皇帝のおごりによって「敵を知らず、己を知らなければ百戦全敗」(孫子の兵法)につながるであろう。
ロシア皇帝ニコライ二世は、極東の実情を全く理解していなかった。開戦当時、皇帝によってロシア総司令官に任命されたアレキセーエフは生粋の海軍軍人で、陸軍は一度も指揮したことがなかった。
しかも海軍でも軍令畑で、実戦経験はない。戦争中も陸軍と共に第一線に行かず、奉天の総司令部の贅沢な書斎におさまっていただけだった。司令官としてアレキセーエフがいかに不適格であったか、それを見たセルゲイ・ウィッテ(蔵相、首相)が次のように書いている。
「一九〇三年(明治36)、私(ウイッテ)が極東視察した際、旅順の閲兵式でアレキセーエフに行きあわせた。すると意外にもアレキセーエフは馬に乗って来なかった。後で聞くと、彼は馬に乗るどころか、非常に馬を怖がるということであった。それから彼の軍隊に対する態度についても、いろんな笑い話を聞かされた。このアレキセーエフが、一〇〇万にも増大した大軍の総司令官になるとは、どう考えても正気の沙汰ではなかった」
ロシア皇帝はアレキセーエフの任官後一カ月も経たぬうちに、今度は陸軍大臣クロバトキンを新たに軍司令官に任命した。この結果、総司令官と軍司令官という権限の重なる二つのポストができあがり、極東に派遣されたロシア軍の混乱は一層増幅された。
クロバトキン軍司令官は出発の前夜に、ウィッテにこう作戦を説明した。
「われわれはこの戦争に何らの準備もしていなかった。したがって十分に準備をした敵と戦う兵力を集めるには、今後数カ月を要する。私の計画はわが兵力が必要なる程度に増加するまで、ハルビンを目標に後退する。
旅順はしばらく独自の防御にまかせる。そしてロシアから続々輸送される兵は、ハルビンに近い一定の地に集結して、これを訓練し、後退軍と両者を合して大軍を編成し、同時に攻勢に移って日本軍を粉砕する。これ以外に、勝利はない」
もし、このとおりロシア軍の新鋭の部隊が続々派遣され、豊富な弾薬で一挙に攻勢作戦に転じておれば、勝敗はどうなっていたかわからない。
ところが、クロバトキンが「予定の退却」として後退を命令しようとすると、真っ先に反対したのはアレキセーエフだった。軍の指揮よりも、皇帝の顔色ばかりをうかがっていたアレキセーエフは、クロバトキンの退却作戦に真っ向から反対し、積極的に攻勢に出ることを主張する。
もともと開戦当時から、ロシア側には、日本軍など取るに足らない、敵ではないという騎りと蔑視があった。とくにその中心が、ロシア宮廷を牛耳っていたベゾブラゾフ (宮廷顧問官でニコライ二世の信任も厚い)一派の主戦派で、皇帝の対外侵略、膨張政策を強力に推進し、日露戦争では反対派のウィッテを排斥して開戦へと突き進んだ。
ベゾブラゾフを寵愛していた皇帝もまたロシアの勝利を楽観していた。当のクロバトキンすら、開戦当時には、「日本兵三人に対して、ロシア兵一人で十分」と公言してはばからなかった。軍事当事者のインテリジェンスがこの有様なので、皇帝の楽観論も無理はなかった。
クロバトキンが「予定の退却」を続けながら、意気阻喪する将兵に向かって「忍耐あるのみ」と説いている間にも、アレキセーエフは、「旅順を救援すべし、日本兵を撃退せよ」と相反する命令を下して、作戦はいずれも混乱し、敗北に終わった。
対立した二人の司令官は、最後の決断をサンクト・ペテルブルクにいる皇帝に仰ぐことになる。しかし、二人の司令官からもたらされる別々の戦況報告に対して、皇帝もどう判断してよいかわからず、ますます混乱するだけだった。
しかも、皇帝を取り巻く主戦派のべゾブラゾフ一派と和平派のウィッテの対立は一層激化して、勝利のために不可欠な政略と軍略の一致、政治家と軍人の協力がうまくいかず、皇帝にもコントロール不能の状況となった。
その国の外交インテリジェンスが試される講和談判

これに対して、日本軍は、大本営の外に雷線の満洲軍総司令部を置き、指揮命令系統は大山巌総司令官と児玉源太郎総参謀長の名コンビで一本化され、大陸での野戦軍をスピーディに自由自在に動かした。
近代軍事学の祖モルトケとクラウゼヴィッツの戦略を見事にマスターした日本軍に、戦略もインテリジェンスも欠如のロシア軍が勝てるわけはなかった。ロシアは戦わずして負ける状態にあった。
クラウゼヴィッツの『戦争論』の中に「戦争とは外交の手段である」という有名な言葉があるが、軍事力による戦が「戦争」であり、言葉による戦が「外交」である。あくまで外交と軍事力の有機的、戦略的な展開が勝利には不可欠で、外交インテリジェンスこそ、軍事力にも劣らぬ破壊力を秘めている。戦争は軍事力だけでやれるものではない。戦争を始めるのも終わらせるのも「外交力」なのだ。
また講和談判は、その国の外交インテリジェンスが最も試される知恵の戦でもある。伊藤は金子堅太郎を密使として米国に派遣し、ヨーロッパには末松謙澄を派遣して、世論工作を行ない成功をおさめた。
しかし、日露戦争全体を総括すると、たしかに日本は、軍事力でも、外交力でも勝利をおさめたが、戦争の総決算であるポーツマス講和会議では、ロシア全権セルゲイ・ウィッテの巧妙なメディア戦略によって、完全にやられてしまったのである。
日本は初体験だった国際外交の大舞台において、対外交渉能力、異文化コミュニケーシション能力の低さ、外交力の弱きを露呈してしまった。金子のように、個人でそうした能力を持ちあわせている人が出てきたときはよいが、そうでないときは、集団として経験の少ないところが弱点となってしまう。
9合目までは勝ち上がりながら、最後の一歩で五合目あたりまで転げ落ちてしまった。今も日露間の懸案となっている「北方領土問題」は、さかのぼれば、約一〇〇年前のこのポーツマス講和会議に突き当たる。
ところが、日本側の「日露戦争本」をみると、このあたりのロシア側の内部事情と、ボーッマス講和会議での外交の敗北については眼をつぶって、「勝った、勝った」とはしゃいでいるものが多い。
一方のウィッテは、その回顧録の中でロシア側のインテリジェンス不全をざっくばらんに語っている。『孫子』の兵法にある「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず」にならって、『ウィッテ伯回想録 日露戦争と露西亜革命』 (大竹博吉監修、ロシア問題研究所、昭和五年版)から一部を選び、わかりやすく現代文に改めて、以下に紹介する。少し長くなるが、ウィッテもまた金子やルーズベルトに優るとも劣らない洞察力の持ち主であることが見てとれるだろう。
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