明治150年「戦略思想不在の歴史が続く⒂」-『明治維新を点火した草莽崛起の革命家・吉田松陰⑶』★『言葉だけの武士、政治家、学者を最も軽蔑していた』★『辞世の句は「此程に思ひ定めし出立を けふきくこそ嬉しかりける」享年30歳』●『身はたとえ 武蔵の野辺に朽ちぬとも とどめおかまし大和魂』
2017/12/01
松下村塾の塾生の松蔭の人格を語る
松陰の性格、人柄は謹厳実直、厳格ではと思われるが、そうではなかった。
激烈なことは嫌いで、ごく穏やかで温厚・柔和な人で、いつも平常心、怒ったことなどあまりなかった、という。
「松陰は常に張子房の人となりを慕って、世上の僚慨家は大嫌いだと言っていた。世の人は松陰を激烈な人のように思うが、激烈ということは嫌いで、ごく穏やかで柔和な人だった。
常に人に向って、平素沈着でなければ非常の時に狼狽するものであるから、粗暴・過激なことがあってはならめとも言い聞かせていた。ある時、高杉晋作が江戸で犬を斬ったという話を聞いて、大いに怒って戒めたことがある。
松陰自身は平素怒った顔を見せたことがないというほどで、その殺された時に首を受け取りに出た人の話では、首が笑い顔をしていたということである。慷慨・激烈なことが嫌いで、柔和・温厚を尊んだのだった。」(中島靖九郎「吉田松陰の松下村塾」『学生』第三巻第一〇号掲載)
「松陰は酒も飲まず、煙草も吸わず、至って謹直だった。松下村塾を主宰していた頃、ある日煙草を吸っているものがいたのを戒め、煙管を持っているものにことごとく自分の前に出させ、これをこよりで結んで繋ぎ、天井から垂らしておいた。
酒を飲まなかったからといって、甘い物や餅などを好むということもなく、常に大食することをみずから戒めていた。だから格別食後の運動を今の者のようには心がけなかったが、胃腸を悪くしたことはなかった。(松宮丹畝「松陰先生の令妹を訪ふ」同前掲載)
『松蔭の真骨頂は思索の人である以上に知行一致の実践』
松陰は膨大な著作を残したが、それは日記、書簡、孟子講読などの断片的な思想的な萌芽といってよい文章で、体系的なものではない。
ただ、そこには烈々たる気迫と変革への情熱と誠志がみなぎっている。松蔭の真骨頂は思索の人である以上に知行一致の実践の徒であり、有言実行の人、二十一回猛士を自称したように、何度失敗してもやる烈士(革命家)なのである。言葉だけの武士、政治家、学者を最も軽蔑していた。
それだからこそ、わずか2年ほどの「松下村塾」での教育で門弟・高杉晋作、久坂玄瑞らを筆頭に伊藤博文、山県有朋ら約30人の少年隊に革命精神を吹き込み、それが革命隊となって長州藩を動かし、怒涛となって明治維新を実現したといえる。
野山獄で76歳の重罪人を筆頭に11人の囚人をわずか8ヵ月ほどで真人間に生き返らせたその教育力、人格感化力は「一誠 兆人を感じせむ」(精神は万人を動かす)というように驚異的であり、超人的でさえある。結局、伊藤、山県らが牛耳った明治藩閥政府は偉大な師の実像を歪めて皇国史観に利用したのである。
松蔭はその「至誠の人格」から密航の罪を認め、その上、バカ正直に幕府の大官暗殺計画まで幕府役人に打ち明けたためついに死罪を申し渡される。安政6年(1859)11月21日、江戸伝馬町の獄で打ち首となる。
「松陰が江戸で首を斬られた時の最後の態度は、実に堂々としたものだった。松陰の首を斬った山田浅右衛門吉利は、先年まで生きていて四谷に住んでいたが、その話ではいよいよ首を斬る刹那の松陰の態度は、真にあっぱれなものだったということである。
悠々として歩を運んで来て、役人どもに一揖し、「ご苦労様」と言って端座した。その一糸乱れぬ堂々たる態度には、幕吏も深く感嘆した。(松村介石「王陽明と現代思想」『東洋文化』第一号掲載)
結局、お人好し、正直真実一路・至誠の人・松陰は安政6年7月9日の法廷で幕府の嫌疑がかかっていた梅田雲浜との関係、御所への落とし文についても正直にありのままを申し開きをした後、間部詮勝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E9%83%A8%E8%A9%AE%E5%8B%9D
殺害計画についても包み隠すことなく証言しており、これが死罪の理由となった。この殉国、殉死が明治維新への起爆剤となる。革命家・吉田松陰の真骨頂である。
辞世の句は「此程に思ひ定めし出立をけふきくこそ嬉しかりける」享年30歳。
小伝馬牢で斬首された松陰を遺骸は小塚原の回向院に送られため、長州藩士の桂小五郎、伊藤俊輔(博文)、尾寺新之丞、飯田正伯が急行し、ここで松陰の遺骸を受け取り、お墓を建てた。
墓には「松陰二十一回猛士」と中央に彫り、右に「安政己未十月念七日死」、左に「吉田寅次郎行年三十歳」と彫り、右側面に「吾今為国死、死不背君親、悠々天地事、鑑賞在明神」の辞世の詩、左側面には「身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂」と「留魂録」の冒頭の歌を刻んだ。
これは間もなく幕府の命によって壊された。
が、門下生一同はキリストに似た松陰の殉教に恨み骨髄、火の玉となって、維新の革命に邁進していった。
関連記事
-
-
片野勧の衝撃レポート②『太平洋戦争とフクシマ原発事故』-悲劇はなぜ繰り返されるのか
片野勧の衝撃レポート 太平洋戦争とフクシマ原発事故 『 …
-
-
日本メルトダウン脱出法(766)「中国バブル崩壊「世界大恐慌」の可能性(大前研一)」●「TPPを取り巻く不穏な政治(浜田宏一)」●「残り任期3年、安倍政権に打つ手なし(大前研一)」
日本メルトダウン脱出法(766) 東証一部上場へ、郵政3社の未来絵図ー大前研 …
-
-
『F国際ビジネスマンのワールド・ニュース・ウオッチ(98)』[安倍政権の検閲とメディアの自粛の負の連鎖]
『F国際ビジネスマンのワールド・ニュース・ウオッチ(98)』 …
-
-
速報(244)★『フェースブックがあなたの人生をぶち壊す』●『日本エレクトロニクス総崩れの真因』など7本
速報(244)『日本のメルトダウン』 ★『フェースブック …
-
-
(昭和史事件発掘> 『愛のコリーダ』阿部定事件(昭和11年)とは一体何だったのか
『愛のコリーダ』阿部定事件とは一体何だったのか 前 …
-
-
『リーダーシップの日本近現代史』(35)記事再録/『憲法第9条と昭和天皇』ー<憲法9条(戦争・戦力放棄)の最初の発案者は一体誰なのか>「マッカーサーによって押し付けられたものだ」、「GHQだ」「いや,幣原喜重郎首相だ」「昭和天皇によるもの」―と最初の発案者をめぐっても長年論争が続き、決着はいまだついていない。
2006年8月15日/『憲法第9条と昭和天皇』 …
-
-
まとめ 『日本最強のリーダーシップー西郷隆盛』 ●『尾崎行雄の傑作人物評― 『西郷隆盛はどこが偉かったのか』 ●『近代日本二百年で最大の英雄・西郷隆盛を 理解する方法論とは・ ●『廃藩置県の大改革ができたのは西郷の一言、 大度量によってのみ』
まとめ 『日本最強のリーダーシップー西郷隆盛』 ●『尾崎行 …
-
-
戦争とメディアー「9・11からイラク戦争へ」=現代のメディアコントロールの実態①
現代のメディアコントロール(2001-05年)① …
-
-
『オンライン/日本議会政治の父・尾崎咢堂による日本政治史講義②』ー『売り家と唐模様で書く三代目』②『80年前の1942年(昭和17)の尾崎の証言は『現在を予言している』★『 浮誇驕慢(ふこきようまん、うぬぼれて、傲慢になること)で大国難を招いた昭和前期の三代目』
2012/02/24   …
-
-
日本リーダーパワー史(848)ー『安倍首相の「国難突破解散」は吉と出るか、凶と出るか、いずれにしても「備えあれば憂いなし」である』★『リーダーの心得は「リスク計算して最悪に備える」「悲観的に準備し、楽観的に実施せよ」②』
日本リーダーパワー史(848)ー 安倍晋三首相は25日、官邸で記者会見し、28日 …