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児玉源太郎伝(1)●死亡記事ー『知謀の参謀総長、脳溢血で急死』●『児玉大将の死を痛惜す』〔時事新報〕

      2016/03/05

 児玉源太郎伝(1) 

日露戦争で自ら地位を2階級(大臣→参謀次長)に降下
して、全軍指揮したスーパートップリーダー

 

前坂 俊之(ジャーナリスト)

 

<日露戦争を勝利に導いた児玉は戦争終結9ヵ月後の
1906年(明治39)7月23日に54歳で急死した。殉職そのものである>

 

●『知謀の参謀総長、脳溢血で急死』
1906年(明治39724日 東京日日(現毎日新聞〕

 児玉大将薨去 参謀総長児玉大将は俄然、脳溢血症に罹り、咋暁三時頃薨去せられたり。

大将は去る二十日正午、宮中の午餐に御陪食の栄を賜り、同夜は華族会館に於いて催されたる関東総督大島大将の留別宴に列し、二十二日は午前、参謀本部に少時間出勤し、午後は逓信省に鉄道会議の開会あり、大将はその議長として出席すべきはずなりしも、気分勝れずとて、石本中将議長の職を代理せしが、これとて格別の事にあらず、その夜も元気常のごとく家人と共に談笑して、十二時過ぎ臥床に入りしが、昨二十三日朝六時に近き頃、

大将夫人は常に蚤起(そうき)の大将がなお起き出でざるに不審を抱きつつその寝室に入りたるに、大将は既に人事不省の体なりしかば夫人は大いに驚き、直ちに多納、河合の両医師及び平井一等軍医正等を招き診察を請いたるも、ついに起つあたわざりしという。

●『児玉大将の死を痛惜す』〔1906年(明治39724日 時事新報〕

 児玉参謀総長

 児玉参謀総長の不幸は意外の出来事にして、ただ驚愕の外なし。人の運命は老少不定、明日が在りて夕を知るあたわずと云いながら、将軍のごとき五十を過ぐることわずかに五、六、しかも壮健、活発、精力人に超え、日夜軍事の職務におうしょうして倦まざると同時に、公私の席上には雄談快弁、機鋒縦横、他をして辟易せしめ、常に少壮者を凌ぐの概ありしその人が一朝急病、にわかに不帰の客となりしは、実に思い掛けざる不幸にして、聞いて驚かざるを得ず。

いわんやその,平生の功労と現在の地位とは、我が国民をして今後将軍の一身に望みを繋がしめたるもの多きに於いてをや、痛惜の情ますます禁ずべからざるなり。そもそも我が国は維新革命以来内外多事、数回の大戦を経たるの結果として、有名なる幾多の将軍を有したる中に就き、将軍のごときはその幾多の傍輩に傑出して燦然、異色を呈したる一人なり。

十数年前世間の評に、我が陸軍将官の人傑を計うれば多士く済々たる中にも、主として川上操六、桂太郎、児玉源太郎の三人に指を屈せざるべからずと云えり。将軍は維新の当初より陸軍に出身して、つとに英才の名を現わしたれども、その本能は攻城、野戦の暁勇にあらずして、むしろ帷幕に参し後方に周旋するの智慮に在りしがごとし。

日清戦役の時のごとき、将軍はひとり東京の陸軍省に留まり、常に省内に起臥して日夜後方の槻務に従事し、ほとんど寝食をも廃するの有様にして、その精力の絶倫なる、人をして驚嘆せしめたりと云う。すなわち該戦役の成功は実際、将軍のしょうかの技量に負う所はなはだ大なるを知るべし。将軍は機敏周密、いかなる細事も白からこれを処理するの風あると同時に、またよく人を知りて、これに任ずるの量に富めり。

台湾の割譲勿々、その施治すこぶる困難にして、当局者しばしば人を代えたるに、将軍が一たび総督としてその任に当るや、経営その宜しきを得て、数年ならずして治績を挙げたるのみならず、その間、陸軍を始めとし内務、文部の要職を兼任して、半ば内地に在りながら台湾統治の責務を全うしたるは、善く人に任じたるの結果と云わざるを得ず。

日露の関係ようやく切迫したるに際し、時の参謀次長たる田村少将のにわかに死するや、将軍が内閣大臣たる地位よりしてその後任を継ぎたるは、当時の形勢上、我が陸軍の帷幕に将軍の伎能を必要としたるより、自から奮ってその職に就きたるものならん。

果してしかり、間もなく戦端の開くるとともに、将軍は満洲軍総参謀長の重任を受け、大山総司令官を補佐して、古今未曽有の大戦役に古今未曽有の大成績を収めたり。

その功労は今更改めて云うの要を見ず。戦後、大山前総長の功成り名遂げてその職を辞するや、将軍がその後を継ぎたるは一般にその適任者たるを認むる所にして、これよりして大いにその施設を見んとするに当り、一朝にわかに不帰の客となる、我輩の痛惜やむあたわざる所なり。

当時の三傑中、川上将軍既に逝き、桂伯また病めり。しかして将軍は年末だ老いずして心身活発、国民の属望なお盛んなるの今日、俄然この不幸に遭う、我が陸軍の失う所はなはだ小ならず、我輩のこれを痛惜するは、ただに将軍一身のためのみにあらざるなり。

しかりといえども今や将軍の盛名は、海内は勿論、海外到る処に伝称してこれを知らざるものなく、世界古今有数の名将として、歴史上にもその光輝を留むること必然なるのみならず、その病い篤きや、特に位勲を進められて金鵄勲章功一級に昇叙せられたり。

卓絶非常なる戦功に対する当然の恩典とは云いながら、金鵄勲章の制定以来、功一級に叙せられたるは実に将軍を以って嚆矢となすと云う、その栄誉の大なる以って見るべし。将軍また以って瞑すべきなり。

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