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日本リーダーパワー史(636)日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(29) 『川上操六の日清戦争インテリジェンス② 『広島大本営」設置と「ワンボイス」で陸海軍を指揮したリーダーシップと決断力「山県有朋を解任」

   

日本リーダーパワー史(636)

日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(29)  

 『川上操六の日清戦争でのインテリジェンス

<『広島大本営」を設置と「ワンボイス」で陸海軍を

指揮したリーダーシップと決断力「山県有朋を解任」

  前坂俊之(ジャーナリスト)

 

日清戦争での大本営設置とその運営

モルトケ流を実践した川上は大本営の設置を6月5日にいち早く決定、第五師団に動員令を下した。国運を賭した戦争の決意を天皇、国民に示して意識喚起するためであった。

そして、大本営(戦時における天皇直属の最高統帥機関)の設置と同時に人事の荒療治を断行した。

7月17日、海軍上席参謀・中牟田倉之助(海軍軍令部長)が、突如として枢密顧問官へとばし、枢密顧問官・海軍中将樺山資紀を、予備役から軍令部長にカムバックさせた。開戦前の突然の交代劇は世に衝撃を与えたが、開戦に最後まで慎重だった中牟田を切って、猛将、勇猛として名をはせていた開戦派の樺山資紀にすげ替えたのである。

同時に、『官房主事ながら権兵衛大臣』と評された山本権兵衛が海軍の刷新を断行し、将官8名を含め合計89名の将校を、ばっさりと斬って予備役へ回し、必勝態勢を築いた。

いずれにしても、「ワンボイス」で陸海軍を指揮した川上のリーダーシップと決断力がこの背後に示されている。

ちなみに、川上と樺山資紀、山本権兵衛はいずれも薩摩閥の西郷門下であり、川上、山本はドイツに学び、同年齢であった。

広島大本営を設置も川上の進言

「大本営」は当初、東京の参謀本部内に設置したが、9月14日、広島の第五師団司令部に「広島大本営」として移した。それから8ヵ月間、明治天皇はこの広島大本営で陣頭指揮をとることになり、ここが軍令最高機関になり、毎週2回開かれ大本営会議で作戦が決定された。

この会議には大元帥陛下明治天皇のもとで、有楢川参謀総長、西郷従道海軍大臣、川上操六陸軍上席参謀将校、寺内正毅運輸通信長官、石黒野戦衛生長官、田村兵站総監部高級参謀、大山厳陸軍大臣、樺山海軍上席参謀将校ら官ら帷幄、軍令関係13人が出席し、作戦は明治天皇に裁可を仰いで決定した。これに文官として、伊藤博文総理、山県有朋大将(枢密院議長)、陸奥宗光外相が列せられた。

川上は統帥権の独立については、絶対不変的なものでなく、状況によって臨機応変、柔軟に対処するインテリジェンス〈智慧のあるやり方〉な方針をとった。川上が急死(明治32年)後の日露戦争(明治37-8年)の際でも、大本営の人事構成は文官の加えた、シビリアンコントロール的な柔軟体制が維持されていた。

ところが、昭和の軍閥はこの統帥権を逆手にとって参謀本部独裁体制を確立、大本営会議から総理、外相、陸相も排除し、モルトケの言う常識、共有知を排除し、「ワンボイス指揮、統率」を分裂した陸海軍2本立てチャンネルにして互いに反目対立し、情報を秘匿し、作戦の失敗を繰り返した。川上が生きておれば、激怒して即刻首にするような無能な参謀総長が連続してポストについて、ついに日本を滅亡に追いこんだのである。

連戦連勝の「日清戦争」ー『百里の道は九十里をもって半ばとする』これが戦略の基本である。

日清戦争はいざフタを開ければ、川上の予想通り、陸海軍軍とも破竹の進撃,海戦の勝利で連戦、連勝し日本軍の一方的な勝利に終った。

『百里の道は九十里をもって半ばとする』―これが戦略の基本である。

川上参謀総長の敵軍撃滅の作戦は見事に成功したが、勝利の後は講和交渉を有利に進むべきという伊藤首相、陸奥外相、川上の意見も一致、川上参謀総長は次の方針がスピーディに決定した。

「第一軍の山海関方面への進出をストップさせ、第二軍と海軍連合艦隊協力による威海衛攻略を優先する」。この威海衛攻略作戦が明治28年1月20日より開始、2月2日には占領してしまった。北洋艦隊提督丁汝昌は自決し清国海軍は完全に壊滅した。

この後、川上は一計を案じて征清大総督府を編成して、参謀総長(有栖川宮のあとの小松宮大将)を総督に任命して旅順に進出させ、首都北京を攻略する強硬態勢をとったため、講和を渋っていた清国は驚いて直ちに交渉に入ることになった。ところが、征清大総督府の設置は清国を和平テーブルにつけるための情報作戦だったのである。川上の見事なインテリジェンスの勝利である。

こうした破竹の進撃の明治27年12月中旬、現地最高司令官の山県有朋が突然、解任を命ぜられて内地に帰還したのである。交代の理由は病気である。

奇怪な山県軍司令官の解任の真相

交代の理由は表向きは病気で、明治天皇に「戦闘報告かたがた帰国せよと」言う解任の真相を伏せたものであった。ところが、その驚くべき真相はー。

大本営の作戦指示では、山県の第一軍が朝鮮半島の清国軍を撃破北上して、鴨緑江を渡り海城方面に進出、この頃までに海軍作戦の成果を見て第二軍を遼東半島に上陸させて旅順を占領させる計画だった。ところが、この計画は順調に進展し、特に海軍の黄海の制海権の獲得で旅順攻略はわずか一日で完了するなど予想以上の猛スピードの展開となった。
そこで次の作戦が大本営で審議されたが、当時大本営には天皇の指示で伊藤首相の外に陸奥外相も軍議に出席していた。清国は開戦以来約五カ月でやっと陸軍主力が北京附近から遼河の線に向い前進中で、逐次第一軍の正面に増援中の態勢にあった。第三師団(師団長桂太郎)は優勢な清国軍に包囲されつつあった。
以上の状況で川上次長の次期作戦指導は第一軍は正面に多くの敵を牽制し、その隙に乗じ第二軍を以て旅順方面から海軍と協力して天津方面に上陸させ、一挙に北京を攻略してしまおうという作戦であった。制海権を確保したので敵主力の側背を衝いて一気に決戦する作戦である。

伊藤総理と陸奥外相は、欧州列強が介入し干渉してくる前に早く講和に持っていくため、制海権の確保を活用して、海軍と協力して敵海軍根拠地の威海衛(山東半島)を占領、台湾海峡の膨湖島をまでも占領し、清国陸軍の兵力派遣を断ち切って、清国を早く講和に持ち込むよう川上次長に進言した。
そこで早速、川上参謀次長は第一軍司令官山県大将に指示して、第一軍は積極的攻勢を止めて一部の兵力を第二軍に回すように命令した。山県大将は後輩・川上中将の指揮を快く思わなかった。、敵主力と山海関方面で決戦する主力軍となることを予期していたのに、急に助攻正面に変更させられたので面白くなく、海軍が黄海海戦の勝利で再び花形となるのを嫉妬して、大本営の作戦命令に従わず攻勢を主張し、反対に第一軍に兵力の増加を要求してきた。
統帥権干犯である

このため、川上次長は断固たる決意で参謀総長に進言して山県軍司令官の即時解任を提案した。しかし当時の山県大将は枢密院議長の職のまま軍司令官となって出征したという特別の事情があり、時の陸軍随一の大将であって、明治天皇の御親任も厚く、正面から解任させることは事実上は不可能に近かった。
結局、伊藤総理もこの決定に賛成してから天皇に奏上して、天皇が山県大将の軍状奏上を要望していたため直ちに軍司令官の職を第五師団長・野津道真将軍に譲って一刻も早く大本営に帰任するよう、伊藤総理から山県大将に伝えることになった。

山県大将は天皇の特旨であるとなればこれに従わざるを得ず、これが病気のた交代と伝えられていた真相であった。

山県大将の詰問を一蹴した川上

帰国した山県大将は真っ赤になって伊藤総理に喰ってかかった。伊藤総理が山県大将に功をたてさせるのを妨害したと思い込んでいたらしい。
そして次は川上次長を呼びつけ「よくも伊藤総理の要求に追随して、この自分を解任させたな」とカンカンに怒った。
日本陸軍最高位の山県大将から叱りつけられたら万事休す、当時はそれ程、山県大将の威力は絶大であった。ところが川上次長は平然として山県大将に答えた。
「伊藤総理から求められて新作戦の構想をやったのではなく、私が次長として最も正しい作戦と確信して、これを総長に申し上げたのでありまして、私の作戦のどこに間違いがありますか」

作戦の総責任者として一歩もひかぬと毅然として言い放った。
「陸軍も海軍もその優劣や区別はなく、大本営の務めはこの両者を統合して完全に指揮することにあり、さらには戦況の変化に応じて有利な態勢を活用することこそ私の当然の役目である」
と川上は正論で反撃して、権威で嵩にかかっていた山県大将をギャフンと言わせた。
作戦は勝つためのものであって、軍司令官の功績や、陸海軍の差別など完全に眼中にはなかった。このことを態度で示した川上は日本がその後に転落していった軍国主義の暴走で示された無能、傲慢、威張った軍人、政治家のオンパレードのなかで唯一、例外的なリーダーパワーを発揮したのである。
川上次長は伊藤首相の蔭にかくれて山県大将の逆鱗にふれるのを逃避するような卑怯な態度に出ず、正々堂々と正論を戦わせた。川上次長がこれより以後、伊藤、山県の両者からはもちろん、絶対の信頼を政府、軍からかちとり、来るべき日露戦争に備えて戦略を1人でねり、インテリジェンス網を張り巡らせていくことになる。

また、この時のシビリアン・コントロールのありかた、大本営の総理、外相の特別参加の件とその権限の問題、昭和における統帥権干犯問題を考える上で最高の事例にもなる。

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