「司法殺人と戦かった正木ひろし弁護士超闘伝⑩」「八海事件の真犯人は出所後に誤判を自ら証明した(中)」
◎「世界が尊敬した日本人―「司法殺人(権力悪)との戦い
に生涯をかけた正木ひろし弁護士の超闘伝⑩」
「八海事件の真犯人は出所後に誤判を自ら証明した(中)」
「月刊 ジャーナリスト」1977年12月号「懺悔する男」で掲載>
前坂 俊之(ジャーナリスト)
自由への陣痛
四人を乗せた車は、午前九時すぎ、正門鉄トビラを静かに出た。車のバック・ウインドーから見るクリーム色の高い塀は、みるみるうちに遠ざかっていった。一六年前、Yが入所した時には、草ぼうぼうの荒地に刑務所だけがポッンと建っていた。無気味な古城のような感じだった。「青島へ」と告げると、タクシー運転手も顔をしかめるほどだった。
すべてが予定通り、秘密裡に運ばれた。観察所に行くのも省かれ、県道を抜け呉に向かった。
何回となく裁判所へ出廷する間に、護送車の網目越しに街の変貌ぶりは目にしてきたが、自由の身で眺めると、また別の感慨にとらわれる。疾走する車の群れ、窮屈な街並み。Yの解放感は窒息しそうな風景にすぐ吹き飛ばされていった。
鼻をつく排気ガスで一度に車酔いしてしまい、車の中に何度か嘔吐した。運転手は事を止めて、酔い止めの薬を買ってきてくれた。Yはそれを飲んだ。
車は国道31号線を南下していく。右側に広がる広島湾に至ると養殖カキの杭が一部、虫歯のように欠けて海面に突き出ている風景に出くわす。潮の香りが車中に舞い込んだ。それでもYの頭痛は一向に収まらない。初めて接する風景を見る余裕もなかった。
約一九キロの.道のりを、呉に着くまで、Yは、吐き気と頭痛の中に閉じ込められ
た。それは二〇年ぶりの社会復帰に伴う一種の陣痛だったのかも知れない。
呉市街を貫流する二河川上流の更生施設についたのは正午だった。Yはぐったりしたままだった。付添いの保護観察所の係官も、社会へ復帰第一歩をしるした感想を聞く機会を逃がしてしまった。
山田はYの体に気を使った。造船所の電気溶接工の重労働には耐えられないと考えた。当分の聞、この施設で体を馴らせることにした。
こうして約一八年間も白黒を争った日本の裁判史上に例のない八海事件の焦点の男は自由の身になった。
Yは獄中でいつも、解放された日のことを空想していた。しかし、この日は施設の自分の部屋ですぐ床を敷き、倒れこむように眠ってしまう。こうして、本人には予想もできなかった頭痛に苦しみながら、記念すべき日は終わった。
原田弁護士との対面
あくる日。Yは広島地裁呉支部庁舎の通りにある弁護士の原田香留夫宅を訪れた。街路樹のプラタナスが長い影を道路に描いていた。夕碁が近かった。途中、信号がわからず、赤信号で横断、あやうく事故になるところだった。
原田弁護士は不在だった。来訪を告げると、原田夫人は一瞬、顔色を変えた。はにかんで立ちつくすY。新聞写真で何度か見て、刻みこまれた若い時のYの顔と、目の前の本物の顔がピッタリ重なりなるまでにしばらく時間がかかった。
原田夫人は呉合同法律事務所にあわてて電話をかけた。折よく、原田弁護士はいた。夫人は口ごもりながら、Yの来訪を知らせた。原田も驚いて、すぐ自宅へ戻ってきた。
原田弁護士が初めてYに接触したのは昭和二九年、第一次最高裁へ上告中のことである。Aの弁護を引き受けた原田は思い切って、吉Y広島刑務所に訪ねた。
Aらを引き込み、死刑を逃れた冷血漢のY―彼こそが、八海事件をドロ沼の長期裁判に持ち込んだ張本人であった。しかしそれに反して、原田が八海事件は冤罪であると確信するにいたった契機もYであった。時々、思い起こしたように真実の告白をしていたからである。
法廷での息づまる対決で、原田はYの偽証に何度かやり場のない憤りを覚えた。しかし今、Yの出所で事件はすべて終わったのである。応接間のソファーに落ち着かぬ様子で座っているYを、原田は正面から見据えた。
複雑な思惑が交差した。ここにくるまでには、命を削る攻防と、無実の被告の量り知れぬ苦しみが集積されていた。当時と今と違うことといえば、金網越しでの刑務所の対面や、法廷での不自由な対座ではないという状態である。原田は、時間の中に織りなされたYとの関係の推移に思いをはせた。
早速、赤飯がたかれ、応接間横の六畳間で簡素な出所祝いの宴が設けられた。二〇年ぶりの酒はYのほおを赤く染めた。
再会
酒も入り、最初の緊張も緩み饒舌になったYはしばらくして、原田弁護士に申し出た。
「私の嘘で大変御迷惑をかけました。A君らにおわびしたいのですが……」
原田はまず、親しくしている中国放送の記者にYの仮出所を知らせた。YとAら他の被告の対面を企画して、全国に放送してもらおうと考えたのである。
そうこうするうち、地元の中国新聞が一〇月一九日付社会面トップでYの仮出所を報じてしまった。Yが居住する場所は紙面に明記しない配慮はあったものの、マスコミのY追跡が始まった。中国放送記者も落ち着いてはいられない。原田と中国放送記者は山田を無視することにした。
二人がおぜんだてをして、一〇月二五日、呉市内に原田、佐々木両弁護士、Y、A、Hの被告が集まった。
このときの録音テープの各被告の声に、事件の真相、証言の真偽が明瞭に表れている。Yは声をやっとしぼり出しながら、あえぐように話し、一方、Aは落ち着いて堂々としていた。二人の態度の差は決定的だった。どちらが嘘をついたか。
この対話テープを聴いてみれば誰にでもはっきりわかる。 Yがここで語った刑務所内での経過や状況が、事件のさまざまな問題を浮き彫りにしている。裁判のデタラメさと、警察、検察、裁判官、刑務官、裁判、司法全体の構造の中に「真実を明らかにする正義の不在、司法の不公正・良心の欠如、冤罪・誤判を再生産していく腐敗システムが強固に生き残っている。
つづく
関連記事
-
-
『オンライン講座/日本興亡史の研究 ㉑』★『日本の政治家で最も少ないグローバルな戦略をもった経済政治家の先駆者(三井物産中興の祖・同上海支店長)―山本条太郎①』『三井物産上海支店長時代でロシア情報を収集し、日本海海戦でバルチック艦隊を偵察・発見させた。その後、政治家となった山本条太郎の活躍がなければ日本海海戦の勝利はなかった』
2011/12/14 日本リーダーパワー史(223)記事再録 前坂俊之(ジャー …
-
-
『リーダーシップの日本近現代史』(134)/記事再録★『山県有朋から廃藩置県の相談された西郷隆盛は 一言で了承し、即実行したその日本史上最強のリーダーシップ②』( 下中弥三郎『大西郷正伝第2巻』(平凡社、昭和15年))★『行財政改革を毎回唱えながら、中央省庁再編、道州制、都道府県市町村再合併、財政削減はなぜ進まないか、リーダーシップ不在が続く』
2012/03/26 /日本リーダーパワー史(248) …
-
-
『オンライン/日本の戦争を考える講座➅/ ★ 『 日本議会政治の父尾崎咢堂の語る<150年かわらぬ日本の弱体内閣制度のバカの壁』★『日本政治の老害を打破し、青年政治家よ立て』★『 明治初年の日本新時代の 当時、参議や各省長官は30代で、西郷隆盛や大久保利通でも40歳前後、60代の者がなかった。 青年の意気は天を衝くばかり。40を過ぎた先輩は何事にも遠慮がちであった』
2012/03/16 日本リーダ …
-
-
日本メルトダウン脱出法(697)『コラム:日本の平和主義後退の「暗い影」『コラム:なぜ米国は中国軍を「訓練」するのか』
日本メルトダウン脱出法(697) コラム:日本の平和主義後 …
-
-
『リーダーシップの日本近現代史』(251)/東武鉄道創業者/根津嘉一郎(79)ー「借金が恐ろしいのではない。利子が恐ろしい」「克己心」(己に克つこと)こそが健康長生法」★『長生する大欲のためには、日常生活での小欲を制しなけれならぬ』
2015/08/20 知的巨人 …
-
-
歴史張本人の<日中歴史認識>講義⑨袁世凱の顧問・坂西利八郎が「100年前の支那(中国)財政の混乱」を語る⑨
日中両国民の必読の歴史の張本人が語る 「 …
-
-
片野勧の衝撃レポート●太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災 『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すか』㉓
片野勧の衝撃レポート 太平洋戦争<戦災>と …
-
-
日本の最先端技術「見える化」チャンネルー『機械要素技術展2018』(6/20)ーモーター界の巨人/白木学氏が発明した小型・軽量・大パワー・高効率のコアレスモーターのプレゼン
日本の最先端技術「見える化」チャンネル 「日本ものづくりワールド2018」機械要 …
-
-
『Z世代への昭和史・国難突破力講座㉓』★『日本一の戦略的経営者・出光佐三(95歳)の独創力・長寿逆転突破力スゴイよ②』★『眼が悪かった佐三は大学時代にも、読書はしなかった。「その代わり、おれは思索するんだ」「本はよく買ってきては積読(つんどく)、放っ読(ほっとく)」だよと大笑い』
2021//12/25『オンライン/ベンチャービジネス講座』再録・再編修 出光佐 …
-
-
『リーダーシップの日本近現代史]』(23)記事再録/日本リーダーパワー史(76)辛亥革命百年(14)中国革命の生みの親・孫文を純粋に助けたのは宮崎滔天
2010/07/20 /日本リーダーパワー …
