『オンライン百歳学講座/天才老人になる方法②』★『長崎の平和記念像を制作した彫刻家・北村声望(102歳)の秘訣』ー『たゆまざる 歩み恐ろし カタツムリ』(座右銘)★『日々継続、毎日毎日創造し続ける』★『カタツムリのゆっくりズムでも、10年、20年、30年で膨大な作品ができる』★『私の師はカタツムリ』
2018/01/17百歳学入門(187)記事再録
健康長寿の秘訣は「あわてず、おこらず」★『とにかく日々継続、毎日毎日積み重ね,創造し続けていくと、カタツムリの目に見えないゆっくりした動きでも、1年、2年、10年、50年で膨大なものができていくのだ。私もカタツムリを師として尊敬している』
彫刻家・北村西望(102歳)
長崎の平和記念像を制作した北村西望(1884―1987、102歳)は、生涯たゆまぬ努力を貰き、文化勲章を受賞した彫刻界の第一人者である。
昭和六十二年(1987)三月、百二歳で亡くなったが、平櫛田中に次ぐ日本でも最長寿の彫刻家である。もともと彫刻家には長寿が多いのは、肉体労働であるからだろう。
大作の彫刻に挑むと相当の肉体労働がともなう。それが体に良い、創造力の燃焼によって脳は活性化する。一挙両得である。
1884年(明治17)12月16日に、のちに「長崎の平和祈念像」を作った彫刻家の北村西望<1884年(明治17)-1987年(昭和62)102歳>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%91%E8%A5%BF%E6%9C%9B
は生まれた。
長崎県島原半島の大地主の四男に育って、彫刻を志した西望は京都美術工芸学校から東京美術学校に進むが、父の反対で苦学の連続だった。
その生活難はしばしば学友の建畠大夢(1880―1942、62歳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E7%95%A0%E5%A4%A7%E5%A4%A2
によって助けられたが、建畠には到底及ばない自分の才能に絶望した西望は悩んだ末に「彼が一やるところを、私は一〇倍努力してやるしかない」と決意して制作に没頭した。
朝倉文夫、建畠大夢という日本彫刻史に残る二つの巨峰は、北村さんの恐ろしい先輩、友人であり、好きライバルであ、つた。この二人を一つの目標として、カタツムリとなってゆっくりとたゆみなく歩いてきた人生だった。本人も「あの二人がおってくれなかったら
私の今日はないと思いますよ。本当にあの連中に負けるのがくやしくてね、無我夢中でしたから。それこそもう酒もたばこも飲まないし、もちろん妙なところにも行かないし、本当に無我夢中でした。」(同前掲書)
文展(日展の前身)へ同時の初入選から九年目に、やっと建畠を超える特選に入賞したが、もう一人、同期の天才・朝倉文夫(1883年(明治16年) – 1964年(昭和39年)、81歳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%96%87%E5%A4%AB
がまだそのはるか彼方にいた。
そこで人一倍努力して芸術作品を世に多く残すには、長生きして時間を稼ぐしかない。
36歳の時に決心した西望は結局、朝倉より二〇年も長生きすることによって、長崎市がある限り永遠に残るだろう芸術作品「平和祈念像」(記念でなく祈念としたのも作者である)を世界に問うことができたのである。
「わたしは天才ではないから、人より五倍も十倍もかかるのです。いい仕事をするには長生きをしなければならない」が口癖で、平和記念像をつくるのにも昭和二十六年から四年間をかけて完成させた。
晩年、北村はきごうを頼まれると、よく「決心之大成」「洗心長寿」と書いた。
こんなエピソードが伝わっている。
ある朝、北村が自分の制作した平和記念像を見にいくと、足元に一匹のカタツムリがいた。夕方もう一度像の前に行ったとき、
なんと、そのカタツムリは九メートルもある像のてっぺんに登っていたではないか。いま都会の子供たちはカタツムリなど見たことないかもしれぬ。
昔は梅雨のシーズンなど、どこの木造家屋や庭や道端の雑草にもカタツムリがたくさんいた者だ。可愛い角をだして、歩いているようで一向に
進むのはのろい、動きはあるようなないようなー、
それがいつのまにかてっぺんまで登っているではないか。北村は感動した。カタツムリに持続のエネルギーの驚異をみた。カタツムリを生涯の師としたのである。
百歳記念のとき、島原市、玉宝寺の聖観音像の台座に、「たゆまざる 歩み恐ろし カタツムリ」という座右銘を書き、その後も研鑚を続けた。
没年の1984年にもなお、現役でニューヨークの自由の女神と対をなす大塑像をロサンゼルスに創ることに情熱を燃やしていたその若さの秘訣は、「人生のんきに構えてあせらぬこと、いっさい怒らぬこと」だった。
北村西望いわく。
『とにかく日々継続、毎日毎日積み重ね,創造し続けていくと、カタツムリの目に見えないゆっくりした動きでも、1年、2年、10年、50年で膨大なものができていくのだ。私もカタツムリを師として尊敬している』
昭和六十二年(1987)三月、百二歳で亡くなったが、平櫛田中に次ぐ日本でも最長寿の彫刻家である。もともと彫刻家には長寿が多いのは、絵画より彫刻、塑像を創る肉体労働が多いためであろう。
92歳の時、NHKのインタビューに対して「毎日朝六時に起きて、ずっとほとんど立ち詰めで仕事をしている,熱中するので1、2時間はあっと言う間にすぎる」と答えて驚かせた。
「たいてい塑像のようなものは立ってやるんですが、木彫の人はどうかすると坐ってやっていますよ、あぐらをかいて。どういうわけからくるのか、長生きしているやつぽっかりで、これは原因がわからないですね。」「粘土を使って指先にかなり力を込めて指先を使うのがいいんだという方もいる。手はしょりちゅう何かに使っていますね」。(「人・その世界」NHK編、日本放送協会、1977年刊)
こうした筋肉使い大作の彫刻に挑むと相当の肉体労働がともなう。それが体に良い、創造力の燃焼によって脳は活性化する。一挙両得である
参考文献 北村西望「百歳のかたつむり」(日本経済新聞、1984年刊)
関連記事
-
-
『リーダーシップの世界日本近現代史』(292 )★『鈴木大拙は1945年『日本亡国の3つの『日本病』を上げた。そして、約70年後、大拙師のいう『日本病』を克服できなかったために、 3/11原発事故を引き起こし、日本は再び沈没中である。
2012/06/19 日本リーダー …
-
-
『リーダーシップの日本近現代史』(329 )ー 『危機管理を忘れた国は崩壊するのが歴史法則』★『ペリー黒船来航の情報に対応できず、徳川幕府崩壊へ』★『阿蘭陀風説書でオランダ国王から黒船来航予告にまともに対応せず、 猜疑心と怯惰のために,あたら時間を無駄 にすごした」(勝海舟)』★
2017/12/ …
-
-
「トランプ関税と戦う方法」ー「石破首相は伊藤博文の国難突破力を学べ⑦』★『日本の運命を変えた金子堅太郎の英語スピーチ①』★『米国第1の広い公会堂のカーネギーホールで約6千人の聴衆を前に大演説』★『米国の依頼で「日本人の性質及び理想」というテーマで講演」★「日本軍はなぜ強いのかー武士道にその根源があり』
2017/06/28<日本最強の外交官・金子堅太郎⑦>再編集 以下は金子堅太郎の …
-
-
中東メディアウオッチ① その後のアルジャジーラ対米政府
1 中東メディアウオッチ① その後のアルジャジーラ対米政府 …
-
-
日本天才奇人伝③「日本人の知の極限値」評された南方熊楠の家族関係
日本天才奇人伝③ 「日本人の知の極限値」評された南方 …
-
-
日中韓異文化理解の歴史学(3)<まとめ記事再録>『日中韓150年戦争史の原因を読み解く』(連載70回中、37-50回まで)★『甲午農民戦争、閔妃と大院君の朝鮮王宮の腐敗と内部抗争、金玉均の暗殺、李鴻章の陰謀、日本の圧力、 ロシアの侵攻の三つどもえの対立が日清戦争へと爆発』●『英タイムズの警告(日清戦争2週間前)「朝鮮を占領したら、面倒を背負い込むだけ(アイルランドと同じ)』★『「日清戦争開戦10日前『中国が朝鮮問題のため日本と一戦交えざるを得ないことを諭ず(申報)』●『<日本はちっぽけな島国で鉱山資源には限度があり,倉庫の貯蔵も 空っぽで,戦争になれば紙幣も流通しなくなり,商店は寂れて.たちどころに困窮してしまう。 中国は日本に必ず勝利するのだ』
『日中韓150年戦争史』㊲ ロシア皇太子暗殺未遂事件(大津事件 …
-
-
世界が尊敬した日本人『アジアの共存共栄を目指した犬養毅』―パールバックはガンジーらとともに高く評価した。
世界が尊敬した日本人 アジアの共存共栄を目指した犬養毅 …
-
-
日本リーダーパワー史(755)『日露首脳会談の結果は予定通りの空振り!?』★『安倍の地球儀外交/領土問題願望/期待先行外交対プーチン独裁/国益最重視/非国際外交の対決は長期の延長戦へ』●『 日ロ首脳会談、領土問題は共同経済活動の交渉開始のみ合意』●『プーチンの戦略に完全に振り回された安倍首相…ロシア側の成果ばかり、すれ違い深刻』
日本リーダーパワー史(755) 日ロ首脳会談、領土問題は共同経済 …
-
-
『Z世代への昭和史・国難突破力講座③』★『吉田茂の国難突破力』★『GHQ草案を受入れるかどうか「48時間以内に回答がなければ総司令部案を発表する』★『 13日、日本側にGHQ案を提出、驚愕する日本政府』
2021/06/24日本リーダーパワー史(356)<日本の最も長い決定的1週間> …
