百歳学入門(158)★『昭和戦後日本経済成長の立役者』松下幸之助(94) 『病弱だったことが私の成功の最大の秘訣!ー『私1人でできんのでみんなに任せてやってもらった。」
2016/09/08
百歳学入門<158>
『昭和戦後日本経済成長の立役者』松下幸之助(94)
『病弱だったことが成功の最大の要因です。
健康だったら、仕事も自分で
やろうとして、そこそこの成功で
終わっていたかもしれない』
94歳 松下電器創業者 松下幸之助 (1894年1月27日~1989年4月27日) 松下は近代以降日本の実業家の中で、五指に入る成功者といえるだろう。 裸一貫、丁稚奉公から出発して自分の努力と才覚で、一代で日本を代表する世界的企業を築き挙げた。
松下は新聞記者から「成功の要因は何ですか」と聞かれた時、 「病弱だったこと。それが成功の最大の要因です」と語っている。
1894年(明治27)11月、紀の川に近い和歌山県海草郡和佐村(現和歌山市)で、松下は、兄弟姉妹八人のなか三男の末子として生まれた。
病弱の家系で、松下自身生まれつき病弱で、子供の頃、父親が米相場で失敗して財産を失い、貧乏のどん底にあった。 一年ほどの間に兄二人、長姉も相次いで死亡。しばらくして残った姉二人も亡くなった。
幸之助も血痰を出し、結核で寝たっきりで医者の手が離れることがなかった。 こうした状態で松下自身は30,40代まで生きられまいと覚悟した。
病弱の身体では安定して勤務できないため、18歳で電灯会社を辞めて独立して商売を始めた。
⒛歳でむめ夫人(三洋電機社長、井植薫の実姉)と結婚。大正7年3月、75円の資本金で、大阪市北区西野田大開町(現福島区)に個人経営の松下電気器具製作所を設立した。 松下夫妻と義弟の井植歳男の三人だけのちっぽけな町工場だったが、ソケットやアイロン、ラジオなどを次々に手掛けた。
健康に不安があったので、四十歳代まで養生しながら働き、人に仕事を頼る、任せざるを得なかった。 「人間万事塞翁が馬」 それがまた松下の成功を導く大きな要因になった。仕事を遂行するために、彼は「人を使う、人を育てる、人を生かす」 ことにすべての神経を集中し、それを経営の根本においた。
人に任せて、どんどん仕事をやって もらう人使いの名人となり、松下自身は経営に徹したのである。、 「病弱だったことが、今日の松下をつくったと思います。 もし、私がもし健康だったら、仕事もすべて自分で やろうとして、そこそこの成功で終わって いたかもしれない」と語っている。
- 『病弱と寿命は別。弱い人は弱いなりに、順応した生活態度
- をとるならば、頑強な人とは違った形で十分な
- 社会活動もできますし、寿命を保てます
「身体と病気を大事に扱い、病気とも上手に付き合っていく」という松下のやり方は五〇歳頃まで続くが、無我夢中で働くなかで、だんだん健康、元気になってきた。
60歳の頃、易者に手相を見てもらったところ、長命の相ありといわれ元気百倍、彫刻家・平櫛田中の 「今やらねばいつ出来る、おれがやらねば誰がやる」に感激して、長生きに挑戦しようと決意した。
松下の健康長寿観は
- 人間の寿命は九〇%が天寿で、残り一〇%は人寿。平生からの努力が必要。
- 病弱だったら病弱なりに、天からの試練、修錬の場を与えてくれたと感謝して最善の努力をする。病弱は健康な人では思いつかない仕事や考え方に気づかせてくれる。
- 病気と仲よくつき合う。病気を恐れて遠ざけていれば、あとから追いかけくる。反対に病気と仲よくすれば病気の方からが逃げていく。
- 病気になったら、死ねば死ねと腹を固めて、残された人生を精一杯生きる。
晩年の松下は、松下病院の中に設けられた社宅から会社に通う、病院での下宿暮らしのような生活であった。 病院では規則正しい生活を送り、唯一の楽しみは晩酌。好きなお酒を毎晩小瓶に半分ほど飲んでいたが、 うれしい時は一本に増えた。
85歳のとき、インタビューに「特別の健康法はしていない。私は小さい頃から病弱な体質だったので、 健康には人一倍苦労しました。そこから得たことは、“病気を 恐れずに、病気を大事にしてきた”こと。 よわい身体を丈夫にしようとは考えずに、よわい身体のままに何とか健康を維持していこうと考えました。
一種の諦め、一病息災が、健康長寿、一病長寿につながったと思っています」と答えている。
1983年(昭和58)、89歳の時には『長生きの秘けつは心配』だと次のように述べている。 「長生きするには適当に心配すること。1日一回はしゃくにさわることがある。これが肝心で、私は130歳まで生きて日本の長寿記録をつくってみせるつもりだ。」
91歳の誕生日の感想を聞かれて「先月、大阪ビジネスパークに建設中のツイン21の最上階に上ったが、38階からの眺望もさることながら、街並みが一変しているのを見てまだまだなすべきことは無限にあると思った。」。
『91歳は百歳に向けての第一歩、130歳まで生きるよ』と意気軒高だった。
関連記事
-
-
『日本の運命を分けた<三国干渉>にどう対応したか、戦略的外交の研究講座⑨』★『ロシアの恫喝(どうかつ)外交に陸奥外相は<清国相手の外交は、底のない桶で水を汲むようなもの、清国の撤兵は信用できぬ>と拒否』★『陸軍参謀本部幕僚たちも震え上がったが川上次長が<断固やるのだ>と一喝!』
逗子なぎさ橋珈琲テラス通信(2025/11/11am700) ロシ …
-
-
『Z世代のための日中韓外交史講座』 ㉘」『1874(明治7)年5月23日付 フランス紙『ル・タン』報道の「日本便り」(上)』★『150年前の日本人分析<日本の政治、教育の欠陥をこれほど見事に分析した記事はない>』★『現在も延々と続く政治の混乱と教育貧困の日本の<死に至る病>は今も続く(上)』
『①論理的な学問なし②記憶力、詰め込むだけの教育③理性的学問では小学生レベルの無 …
-
-
『リーダーシップの世界日本近現代史』(291)/『陸奥外交について『強引、恫喝』『帝国主義的外交、植民地外交』として一部の歴史家からの批判があるが、現在の一国平和主義、『話し合い・仲よし外交』感覚で百二十年前の砲艦外交全盛時代を判断すると歴史認識を誤る。
2016/07/07 日中北朝鮮 …
-
-
『日本の運命を分けた<三国干渉>にどう対応したか、戦略的外交の失敗研究』⑰』★『なぜ「黄禍論」は「日本禍」となったか 』★『W・K・フオン・ノハラ著、 高橋輝好訳『黄禍論-日本・中国の覚醒』(2012年)二冊を読んで、大変啓発された』★『三国同盟の主犯は在日ドイツ公使「マツクス・フオン・ブラント」だった』
逗子なぎさ橋珈琲テラス通信(2025/11/17am700) なぜ「 …
-
-
★『この夏の思い出/稲村ヶ崎サーフィン総集編②』-『台風18号の波はどうか、胸くらいかな(9/15)』★『稲村ヶ崎ビッグサーフィン/上級テクニック学習動画(20分ぶっちぎり)ー台風15号接近中の稲村ヶ崎海岸』
★『この夏の思い出/稲村ヶ崎サーフィン総集編②』 今朝(9/15AM6,50)の …
-
-
★『地球史上最大級?のスーパー「台風19号」が12―13日に中部、関東に上陸する危険性大!?』★『台風15号(9/9)の千葉県内の停電被害甚大』-『世界的な地球環境異変の一環で、日本は<スーパー台風、大地震による<ウルトラ災害時代>に突入する。』
【動画解説】台風19号 東海・関東に上陸の見込み2019年10月12日 7時09 …
-
-
★5日本リーダーパワー史(777)『アジア近現代史復習問題』 小村寿太郎の日清戦争前インテリジェンスを学ぶ①『清国の病状ー統一のない政治と国防』★『120年後の現在も変わらない、変えられない「世界一の汚染、汚辱大国」の実態』★『これでは先進国の仲間入りはできない中国の悲劇』
★5日本リーダーパワー史(776)ー 『アジア近現代史復習問題』 小村寿太郎 …
-
-
世界、日本メルトダウン(1034)–『朝鮮半島チキンレースの行方はどうなる!』★『北朝鮮攻撃は偶発的な軍事衝突以外にはありえない』●『中国流の「言葉の遊び」「空約束」外交にオバマ政権も日本外交も何度も騙されてきたが、トランプも同じ失敗の轍を踏むのか?』
世界、日本メルトダウン(1034) 『朝鮮半島チキンレースの行方はどうなるのか! …
-
-
日本リーダーパワー史(281)社会貢献の偉大な父・大原孫三郎ー百年前に企業の社会的責任を見事に果たし希有の経営者②
日本リーダーパワー史(281) <クイズー日本で最も偉かった財界人 …
