『オンライン死生学入門』★『中江兆民(53歳)の死に方の美学』★『医者から悪性の食道ガンと宣告され「余命一年半」と告げられた兆民いわく』★『一年半、諸君は短いという。私は極めて悠久(長い)と思う。 もし短いと思えば五十年も短なり。百年も短なり。生命には限りがあり、死後には限りなし」(『1年半有』)』
2015/03/19/『中江兆民(53歳)の死生学』記事転載
(遺言)「戒名は無用、葬式も無用、灰は海に投棄して魚のエサにせよ」
前坂 俊之(ジャーナリスト)
中江兆民 (なかえちょうみん)は弘化四(一八四七)年二月一日)~明治三四(一九〇一)年一二月一三日。
思想家、民権運動家。土佐国高知新町(高知県)生まれ。 本名・篤助。土佐藩高知新町(または山田町)の足軽中江篤助の長男として生まれ、本名を篤助(または篤介)と称した。藩校致道館に学んだのち、慶応元年(一八六五)九月、長崎に土佐藩留学生として赴き、済美館でフランス語を平井義十郎より授けられる。
この当時、海援隊を率いて長崎にいた土佐の先輩・坂本竜馬に親しくなり、竜馬の指導をうけて、一緒に遊んだ。
長崎に二年いたが、土佐藩の命で汽船購入のため長崎にやって来た先輩の後藤象二郎に談判して旅費二十五両をもらい外国船によって江戸に上った。時に慶応三年、中江篤介二十一歳。
その明治四年、二十五歳の時、大久保利通の馬車に乗り込んで強引に談判し、後藤象二郎、板垣退助ら推薦によって司法省出仕となって、フランス留学の官命を受けた。
明治四年一〇月、司法省留学生として渡仏する。
パリ、リヨンに滞在するが、その足跡は不明。エミ-ル・アコラースの塾に学んだ。明治政府が海外留学生を召還する方針を採ったため、フランスの教師は篤介の学才を惜しんで給費を申出たが、故国にひとり淋しく待っている老母の身の上を心配し、明治七年七月、帰途についた。二十八歳の時である。
初代の司法卿としてルソー流の自由民権思想に共鳴し、司法権を独立させヨーロッパ風の立憲国家の建設を目指していた江藤新平は、征韓論に敗れて下野し、佐賀の乱を起し、内務卿大久保により四月十三日、佐賀城内できゅう首刑の野蛮なみせしめで執行された後のことであった。
フランス革命による自由人権思想を明治政府は断固弾圧する姿勢を示したのである。
帰国後、直ちに元老院書記官となり、大井憲太郎、島田三郎らと机を並べたが、同院幹事の陸奥宗光と対立して退官、ついで、外国語学校長となったが、これまた文部省と意見が対立して三ヶ月で退官。〝役人は俺の性に合わん〟と仏学塾を興し、出入する門人は二千人の多きに達し、進歩的学者の一大勢力をなした。
一方、岡松窪谷の漢学塾に入門して、漢学の素養に磨きをかけ後に『訳常山記談』十巻を公刊するまでになるなど、フランスから日本にもち帰ってルソー流の自由民権平等博愛主義と漢学に源をもった治国平天下の政治理想―この二つを一体として兆民の自由民権思想、哲学がここに誕生する。
つまり、中江兆民こそ日本の自由民権思想・民主主義思想の先駆者、実践家と言ってよく、社会主義者・幸徳秋水をはじめ数多くの民主主義者が輩出している。
同時に明治・大正・昭和の三代にわたり国権主義の総本山・玄洋社の大将・頭山満を相手に「オィ、頭山君」と、話し、両雄相通じていた。また、勝海舟の知遇を得ており、西郷隆盛をも尊敬していたと言う明治維新の革命思想の原点にも通底した思想家なのである。
幸徳秋水はこう書いている
「兆民先生が血気なお壮んな青年時代に酒を愛し、女を愛して、身をもち崩したことは事実として認めなければならない。
聖人でも君子でもなかった先生は時として酒の力を借り、奇言奇行をもてあそんで内に欝屈した悶々の情を解き放したことは事実だ。だが、それは青年時代のことであって、身漸く老い、気が衰、芸にいたって酔が醒め、酒を断ち、身を慎み、ただひたすらに自然と家庭と道義のなかに安住の地を求めるようになった。その結果として、晩年の先生は、悠然として栄辱の外に目通し、名誉と名のつくもの、銭と名のつくものとのかかわりを裁断して流離敗残の身を以て末だ一度として天を恨むことなく、他人をとがめることなく落嘉として死生の外に達観するという悟道の境地に到達されるに至った。
先生はたしかに多感であり多血であったが、徒らに血気の私に走り、技能の末にあくせくすることなく、徳性を以て自らこれを淘溶することによって、その真を保ち、その道を全うすることができた」
徳富蘇峰も
「一年有半」の書評のなかで、「手っとり早く申上げるなら、著者(中江兆民)はその著書が高尚である以上にその品格において高尚であり、その人物において愛好すべきものがある。著者は真面目な人である。常識の人であって、奇人でも変人でもない。夫としてはその妻に対して真実であり、父としてはその子に対して慈愛であり、友に対しては決して裏切ることのない信頼できる人である。
ただ、著者の皮下に流れている血があまりに熱気を帯びており、眼底にあまりに涙が多く、一見腹黒いように見、えて実は反対にきわめて初心であり、面の皮は大変厚いように見、えて実はきわめて薄く、自らは濁世の風波には堪えられない繊弱な身を以て、強く風波に抵抗しょうと努めて結局は敗れ、
その結果として、時に奇言、奇行を籍り、そうすることによって世間と相容れないことから生れる悶々の情をおし殺そうとしたまでのはなしである。世人は往々にして著者の仮りの姿を以てほんとうの姿であるかのように勘違いして、篤介は奇人だと視るようになった」けだし正鵠をうがっている。
●「一年半、諸君は短促なりと、余は極めて悠久なり」という
明治33年3月の兆民はノド痛を発したが、それはただのカタルではなくすでに悪性の食道ガンに侵されていた。病勢は悪くなる一方だった。大阪堺に居を構えて静養に専念する一方、思い切って医者に「この先どれぐらい生きられますか」と問うと医師はためらいながら口を開いた。
「病気は喉頭ガンだから、一年半、治療がうまくいけば二年ぐらい」このとき、本人は、長くて五ヵ月と思っていたため、一年半と言われて〝寿命の豊年〃とばかり、手を叩いて喜び、女房も手を叩いて喜んだという。
それならば残された命を「一日たりとも多く利用せん」と考えて『一年有半』を書き始めた。
「一年半、諸君は短促なりといわん。余は極めて悠久なりという。もし短といわんと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり。百年も短なり。それ生時限りありて、死後限り無し」
ガンを告知されると、修業をつんだ禅坊主でも、あわてふためいて読みかけた般若心経を読み誤るというから、夫婦して度胸が据わっている。死期を悟った兆民は4月末から「一年有半」に没頭する。約3ヵ月。
八月三日脱稿するや、幸徳秋水によって博文館にもち込み、九月三日に公刊の運びとなった。九月七日に病をおして堺を出発、九月十日に東京に帰った。ところが、ノドのハレ物はいよいよ痛み、いまのように痛み止めなどない時代である。
激痛に七転八倒する。明らかに末期ガンの症状を呈し、さらに医師は余命二ヵ月と宣告した。切開した気管の呼吸はできず、いまや石盤に石墨で字を書く以外には談話は出来なくなってしまった。
だが、死を前にしても兆民の気力は衰えず、たとえ10日でも20日でも命ある限り、自分の思想、遺言だけは書きとどめたいと布団のなかで、寝返りも打てないほど激痛を我慢しながら、九月十三日から再び書き起こして、わずか二十三日目に脱稿した。正に鬼神の如しである。
これが『続一年有半』、別名『無神・無霊魂』である。博文館で発行されたのは十月十五日。死の目前に近づいたことを知った兆民は、文字通り時間と競争で気力を振り絞って『生前の遺稿』を書きあげたのだ。
その内容は「余は神の存在はもとより、霊魂の存在も断固として否定する執拗なる唯物論者なり」「伊藤、山県ダメ、頭山こそ第一党の人物」「頭山は現代において武士道を体得せる第一人者なり」など兆民一流の歯に衣きせぬ人物観、時局論、哲学論、社会観が紙面に躍動し迫り来る死を前にした思想家の絶筆が、その一言一句々読む者の心を打つ。
正篇は二十二版、続編は十七版、二十余万部、十数万部を売り尽くした。
●「戒名は無用、葬式も無用、灰は海に投棄して魚のエサにせよ」と遺言
十一月下旬に入ってから脳梗塞的症状を併発、十二月十三日午後、小石川武島町の自宅で生涯の幕を閉じ、「無神・無霊魂」と宣言した通りの冷たい物体と化した。その壮絶にしてさわやかな、悠然として死に旅立った。見事な死にざまである。享年五十五。大阪で余命一年有半と宣告されてから実は九ヵ月。死去の翌日、本人の希望で遺体を大学病院で解剖されたが、脳髄の組織は異常に発達ていた。解剖には弟子の幸徳秋水が立ち合った。
十六日、青山葬場で告別式が行われたが、参列者は五百余名、わが国における告別式の最初とされている。刎頚の友・玄洋社の頭山満が参列した。
遺言により、一切宗教上の儀式はなかった。戒名はない。墓碑も設けられていない。ちなみに、東京・青山霊園の中江兆民の墓柱には「兆民先生廃骨之標」と刻まれている。
西郷隆盛流の「命も要らぬ、名も要らぬ、官位も、金も要らぬ」という無欲に徹した中江兆民、頭山満は意気に感じていたのであり、明治の革命思想の本流を形成している。
『民権の獅子』日下藤吾著叢文社、平成三年刊)による「続一年有半」(無神・無霊魂)を現代訳では、以下になる。
●「兆民の唯物論とは」
「そもそも哲学(理学)というものを研究するには、五尺の体のなかに小さくちぢこまっていてはダメだ。もともと空間といい、時間といい、世界といっても、こういうものには元来、始めの有るわけは無く、
また上下とか、東西とかに極限の有る道理もさらにない。だから、そもそも五尺の躯とか、人類とか、小さく考えてしまって、自分だから、そもそも五尺の躯とか、人類とか、自分一個の利害とか、希望とかに身動きできぬように縛られて、
人間以外の犬や猫やモグラや糞ころがしを軽べつし、人間という動物だけをあたかも〝万物の霊長〟であるかのように自分勝手に妄想するから、神が存在する精神は不滅であるとか
、肉体が亡びても霊魂だけは肉体から離れて永久に生き残るというような、人間という動物に都合のいい議論を並べて立てて、非論理にして且つ非哲学的なタワ言を言うようになるのだ」。
(『民権の獅子』日下藤吾著 叢文社、平成三年刊)
「プラトンや、デカルトや。ライプニッツなど、いずれも宏遠達識の大学者でありながら、知らず識らずのうちに自分の死後の都合を考え、自分と同種の動物、すなわち、人類の利益に誘惑されて、天道とか、地獄とか、唯一神とか、霊魂の不滅とか、自分らが大層なしろものとして有難っているものがいずくんぞ知らん単なる言語上の泡沫バブルでしかないことを知らないで、臆面もなく書物を書いているのは、まことに笑止千万と言う他はない。
同じく、欧米の有名学者の多くが母親の乳を吸うのと同時に自分の体内に吸い込んだ〝迷信″に支配されて、無神とか無霊魂とか言うと、あたかも大罪を犯しているかのように考えているのは、これまた笑止千万である。
とりわけ、大病にかかって一年、半年と死に近づいている末期癌患者のような人間にとっては、慈愛と公正の権化であるような神が存在し、肉体が亡びても霊魂は死せる肉体を去って独自の生命を維持し続けるとしたら、大いに慰められるところがあろう。
だが、それはそれとしても、わが輩は生れてここに五十五年、神が存在するとか、霊魂は不滅であるとかいうようなタワ言を吐く勇気は不幸にしてもち合わせていない。」(同『民権の獅子』)
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