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日本リーダーパワー史(191)真珠湾攻撃(1941)から70年ー情報統合本部の有無<日米インテリジェンスの決定的落差>(中)

   

日本リーダーパワー史(191)
 
国難リテラシー
 
『真珠湾攻撃(1941)から70年―この失敗から米CIAは生れ、日本は未だに情報統合本部がなく<3・11日本敗戦>を招いた』<日米インテリジェンスの決定的落差>(中)
 
                前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
今年は『日米中』の三国関係にとって節目の年であることは、このシリーズで昨年から長期連載して考察している。「孫文による辛亥革命から100年目」が、この10月10日である。満州事変から80年がこの9月18日と間もなくやって来る。さらに、日米同盟が迷走する日米戦争の真珠湾攻撃から70年目が12月8日と目白押しである。
『日米中』の戦争歴史観、戦争認識が試される季節がこれから始まる。発足したばかりの戦争を知らない世代が中心の『野田素人どじょう内閣』はこの泥沼で複雑怪奇な国際外交の駆け引き、大魚の丸のみ、攻撃に対してドジョウのように敏捷に立ち回り、反撃できるかかどうかー残念ながら,そのインテリジェンスも歴史、外交知識も皆無だろうと危惧する。
今回は日米戦争の発端となった真珠湾攻撃の作戦立者・草鹿龍之介の証言と、アメリカ側の真珠湾攻撃に対する情報評価の両面を見て行く。
 
以下は昭和22年に書かれた草鹿龍之介の手記の一部である。(『帝国海軍 提督達の遺稿』(小柳資料)水交会、平成22年より)
 
 
・出撃
 
配属された潜水艦3隻を前方200浬に出して警戒させた。出港してから南雲長官が小声で「参謀長!!君はどう思うネ。僕はエライことを引き受けてしまった。僕がもっと強く出てキッパリ断ればよかった。うまく行くかネ」と言われるので「大丈夫ですよ。必ずうまく行きます」と答えると「君は楽天家だから羨ましいなァ」と言われた。南雲長官はかん馬のような武将であったが、余りの冒険なので出撃してからもなお一抹の不安を抱えておられたのであろう。
 
主将としては無理もないことと思う。そこへ行くと参謀長は何と言っても影武者でその責任感覚は比較にならない。出撃後は勿論厳密な無線封止だ。若い電信員が波長調整などで電波を出しやせぬかと気にかかる。隠密航行のため飛行機による日施哨戒は全然やらない。
 
天佑と云うか、天候は数十年来の統計を破って、時々、霧の襲来はあったが極めて静穏で何時でも補給が出来た。段々作業に慣れて給油時間も短縮し、曳航速力も段々増して、最初は9節であった12節まで上げることが出来るようになった。それで駆逐艦の如きは毎日のように暇さえあれば燃料を補給して満載状況にしていた。
 
12月2日夜、連合艦隊長官から待望の「新高山登れ」(開戦日は12月8日と決定せらる。予定通。攻撃を決行せよ)の隠語電報受信して、青天に白日を望むようなサッパリした気持となった。

軍令部からも毎日かゆいところに手の届くような真珠湾の敵情を知らせてきた。

12月6日最後の補給を開始し,第二補給部隊の給油船3隻を分離し、7日全部の補給を終わって第一補給部隊の給油船5隻を分離、いずれも帰途の補給待機地点に先行させた。その後、機動部隊は24節に増進し一挙に南下した。時に真珠湾の真北約600浬、天は我に味方してこれまで一隻の艦船にも飛行機にも会わせなかった。

 いよいよ明朝を期して乾坤一の大壮挙を決行するのだ。このとき、赤城のマストにスルスルとZ旗一旗を掲げて艦隊総員の一大決心を促した。

 7日夕刻、伊七二潜水艦から「アメリカ艦隊はラハイナ泊地に在らざる旨」の通報があり、大本営からは「真珠湾内の在泊艦戦艦9隻、その他若干、空母及び重巡は全部出動しある旨」の情報があった。
そこで、太平洋艦隊の主力は真珠湾に在りと判断し、空母のいないのは物足りないが全攻撃力を挙げて湾内の艦船に集中することに決心し、飛行機の一部を割いて敵空母を捜索攻撃するなどの考えは一切棄てた。
 
・空襲計画
 
 真珠湾攻撃隊総指揮官たる渕田中佐の攻撃計画は次のようなものであった。
若し奇襲が出来れば雷撃隊で戦艦、航空母艦に致命の一撃を加え、間髪を入れず高高度水平爆撃によって内側の戦艦を撃ち、引き続き急降下爆撃で重巡以下の残敵を倒す。同時に主要飛行場及び地上防御砲火を爆砕して第二次攻撃を有利にする。若し、強襲の止むなきに至ればこれと反対に、先ず急降下爆撃及び制空によって雷撃隊水平爆撃隊の突撃路を啓き敵主力に殺到させる。
 
 第二次攻撃は当然強襲を予想させるが第一次攻撃で収めた戦果を利用して討ち漏らした敵の戦艦、航空母艦その他に止めを刺す。
 
同時に主要飛行場を徹底的に破壊して,我が機動部隊に対する敵機の追摂逆撃を不能ならしめる。奇襲か強襲かは総指揮官が攻撃開始直前の状況に応じて判断し時を移さず機上から発令する。真珠湾侵入路は被発見並びに敵防御砲火の考慮から東方山脈地帯を横断することにしてあるが攻撃実施上、風向風力によって適時変更する。
 
・攻撃開始
 
12月8日黎明、月齢19日の月は断雲の間に見えかくれしていた。雲高500米乃至2000米、雲量5乃至7、視界は良好であったが東北東の風が15米位吹いてかなりの波あり、艦の動揺も大きく母艦機の発着及び水上機の着水は稀困難な状況であった。
 
〇一三〇(日出約三十分前)真珠湾の北方230浬の地点において第一次攻撃隊は一八三機を発進、続いて1時間15分後に第二次攻撃隊一六七機を発進した。
 攻撃隊発進に先だち、利根、筑摩の飛行機からは「ラハイナに敵なし」「敵艦隊は真珠湾に在り」の報告があった。世紀の矢は放たれた。敵の存在は確実だ。必勝我に在り。いまはただ攻撃の成功を待つばかり。このときの我々の喜びはどんなであったか。私は不覚にも感激の涙を流して思わず長官の手を固く握った。
 
〇三二〇指揮官の「全軍突撃せよ」の電令を、続いて規約略符「トラ」(奇襲に成功せり)を受信した。鳴呼遂に奇襲に成功したのだ。
 
それからは引っ切りなしに各機から戦果の報告が来た。(戦況省略)この間、機動部隊は敵襲に備え上空に直衛戦闘機を配し対空砲火の威力発揮に便なる如く緊縮隊形をとって、更に20節で南下し帰投する飛行機の収容のため真珠湾の北方190浬まで近接した。第一次攻撃隊の戦闘は約一時間で終わり戦場を去ると入れ代わりに第二次攻撃隊が進入した。
 
指揮官は〇四二五全軍突撃を下令し残敵を猛攻した。敵はこの頃までに相当に準備が出来ていたので対空砲火はかなり猛烈で第一次攻撃のときよりははるかに損害が多かった。
 
機動部隊は午前四時反転して高速避退北上し〇五三〇から〇八三〇の間に攻撃隊を収容した。その頃風が強く艦の動揺のため着艦は困難な情況であったが事故はなかった。然し、未帰還機三十数機を出したことはまことに遺憾の極みであった。
 
渕田中佐の総指揮官機は最後まで真珠湾の上空に居残って全軍の戦果を確認し友機の最後を見届けシンガリを勤めて帰艦した。

早速淵田中佐を艦橋に招いて戦況や戦果について報告を受けた。大体において真珠湾内の敵主力を潰滅したことが判明したので私は何の躊躇もなく南雲長官に進言して引き揚げることに決し、連合艦隊長官あて「第1航路を採り帰環す」「敵主力艦二隻撃沈、四隻大破、巡洋艦約四隻大破以上確実、飛行機多数撃破、我が飛行機損害軽微」の二電を発し、再びこの無線封止に返り、警戒を厳にしながら北上し第一補給部隊の待機地点に向かった。

 
 
真珠湾の航空攻撃は絶好の幸運に恵まれたに拘わらず何故もう一度攻撃を反覆しなかったか、工廠や油槽を破壊しなかったのは何故かなどの批判もあるようだが、これはいずれも兵機戦機の機微に触れない下司の戦法であると思う。
 
抑も真珠湾攻撃の大目的は、敵の太平洋艦隊に大打撃を与えてその企図を挫折させるにあった。だから全力を挙げてこれを撃ち奇襲は成功してその戦略目的を達成したのである。奇襲と云うものは元来周到な計画の下に風の如く殺到し風の如くにさっと引き揚ぐべきものでいつまでも執着してはいけない。
 
機動部隊は連合艦隊の虎の子である。機動部隊の立ち向かうべき敵はまだ一、二に止まらない。勢力保存と云う訳ではないが一刀両断敵を切ったら他の敵に対する構えをしておかなければならない。一つの敵に固着した戦さは避くべきである。これが機動部隊の使い方と思う。
 
・引き揚げ
 
 帰路は大体往路の線をやや南に沿いミッドウェーの索敵機を避けて豊後水道に向かうことに決めた。連合艦隊や軍令部からいろいろその後の敵情を知らせて来たが別に敵が追摂して来る様子もないので九日夜補給部隊に合同して補給を行った。
 この頃、連合艦隊から「機動部隊は帰路状況の許す限りミッドウェーを空襲して敵飛行機の使用が出来ないように極力破壊せよ。」との電命を受けた。
 
命令なれば致し方ないが、私は甚だ不愉快であった。ミッドウェー飛行場は開戦と同時に第七駆逐隊がこれを砲撃している。更に機動部隊の全力を挙げてこれを叩くことは何でもないことだが、やるなら組織的にちゃんと計画をたてて慎重にやるべきだ。当時の情勢としては必ずしもミッドウェーを叩く必要もなく叩いてみたところで土を叩くまでのことだ。
 
それを帰り掛けの駄賃に一稼ぎさせようと云う連合艦隊の出来心が気に食わない。大冒険を決行し大戦果を挙げ意気揚々として引き揚げて来る機動部隊に対しては脚下に気を付けて怪我をするなと面倒みることこそ最高司令部の心構えでなければならない。
 
この時から既にミッドウェーは私にとって鬼門であった。後日このミッドウェーが機動部隊の命取りになろうとは夢にも思わなかった。
 
 ミッドウェーの攻撃は第二航空戦隊に下命したが間もなく連合艦隊はこれを取り止めて来た。その後も敵情に関してはいろいろの電報を受け取ったが敵潜水艦は恐らく南方諸島の線に配備して我を遊撃せんとしているものと判断した。一四日になって連合艦隊から第四艦隊のウエーキ島攻略作戦に協力するよう電命して来た。これも思い付きのようなものだが第四艦隊が苦戦とあっては止むを得ない。
 
一六日、第八戦隊、第二航空戦隊、駆逐艦二隻を分離してウエーキ島の攻略に協力させた。これに前後して機動部隊の実状を知らない連合艦隊からはいやでも返事をしなければならないような長文の協議事項を次ぎ次ぎと電報して来る。
 
こちらは折角成功して帰るのだから駆逐艦一隻でも怪我させたくないと思って敵潜水艦に対して厳重に警戒しているのだが返事をしない訳には行かない。致し方なく赤城はかなり電波を出した。それがため敵の潜水艦は我が動静を感知して我が前程にうん集して来るものと判断した。
 
どうせ敵に我が位置を覚えられたのであるから逆に出て敵潜水艦をまいてやれと決心して、わざわざ真珠湾戦果の詳報を三回発信させ急にウラカス島に向けて大変針増速南下した。
 
 次いで一七日午後六時西に大変針、大山列島の北端から南方諸島の西側に出ようと考えたが、午前十時頃から敵潜水艦の散開面に突入したらしく数回に亘って潜望鏡を発見し二隻は確実に撃沈した。内一隻は飛行機の爆撃により艦首を垂直にして沈んで行った。
 
 散開線を突破して西に大変針迂回した後、豊後水道に向かった。その後は一回も敵潜水艦に会わず、二三日午後一時頃豊後水道入り口に到着した。行き交う艦船はすべて信号を掲げ艦旗を卸して戦勝と無事帰還を祝ってくれた。
 
かくて、単冠湾発航以来一ヵ月の渡洋遠征を終えて広島湾の連合艦隊泊地に帰投した。真珠湾の航空攻撃に協力した特殊潜航艇に就いて一言したい。
 
 万死に一生を期すると云うことがあるが、これは万死に一生を期し得ない必死行であった。若い人々の純情を思えば何とかして一番槍をつけさせたいのであるが、若しこの重大作戦が蟻の一穴から崩れては取り返しが付かないと考えて、一番槍は飛行機に譲って貰ったのである。
 
内地出撃前、機動部隊と第六艦隊の協定では特殊潜航艇は真珠湾進入後、昼間は湾内に鎮座し日没後攻撃を決行する原案であったが、特攻隊員の熱心な希望によって、第一、第二次航空攻撃の中間に行ってもよいことに決定された。実施のあとを顧みると寧ろ原案の如く敵が一安心した隙に乗じて夜間決行した方が却って効果があったのかも知れない。
 
 広島湾に帰着後、真珠湾攻撃の戦況を陛下に奏上するの議が連合艦隊司令部におこり宇垣参謀長は「南雲長官はその職責上艦を離れる訳にゆかないから草鹿参謀長行け」と言ったが「それは形式論だ。職責上、当然総指揮官のやるべきことだ。最大の光栄でもある」と退け、南雲長官は攻撃隊総指揮官淵田中佐と第二次攻撃隊指揮官嶋崎少佐を同伴して上京することになった。
出発に際し、
私は淵田、嶋崎の両指揮官を呼んで「君達はいずれも田舎士だから御下問のあった際は十分用語に注意して粗相のないように注意せよ。」と言ってやった。
 
一二月十日に簑口艦隊に対し優渥なる勅語が下賜されて将兵の士気は愈々昂った。上奏がすんで帰還してから「どうであったか。」と聞くと、両人はロを揃えて「私共は手落ちなくやって参りました。長官は始めは神妙に上奏されましたが陛下の御下問になると長官は指をさしながら、こいつがこうやりましたと山形弁丸出しで、私共はハラハラいたしました」と苦笑した。南雲長官は身に余る光栄と感激に満ちて楓爽と帰艦しその喜びを私共高に頒たれた。その頃が私の生涯中の最良のときであった。
 
真珠湾攻撃成功の主原因は何と言っても山本連合艦隊長官の確固不動の信念と堅忍不抜の実行力である。これが我が海軍の総力を結集して本作戦に集中せしめた。それに、軍令部が痺いところへ手届くように至れ。尽くせ。の協力をしてくれた。私は衷心からその協力を感謝してあつくく謝意を表した。

日米開戦に反対した山本五十六元帥が、真珠湾奇襲を遂行したことは、歴史の皮肉である。しかも、国交断絶の通知を外務省、在米日本大使館のミスで攻撃後に行ったことは世紀の失敗であった。


 

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