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日本リーダーパワー史(212)『日露戦争勝利の秘訣は軍事力以上に外交力・インテリジェンス・無線通信技術力にあった。

      2015/01/01

日本リーダーパワー史(212)
 
<クイズ・『坂の上の雲』の真実とは①・・>

『日露戦争勝利の秘訣は軍事力以上に
     『日英同盟締結の外交力
     インテリジェンス(諜報力)
     海底ケーブル、無線通信技術力――にある。
今後の日本再生にも『物づくり』以上に
①インテリジェンス
②IT・ロボット・グリーン技術-
駆使しかない。
 
 
 前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
 
 
日露戦争最大の勝因は日英軍事インテリジェンス
 
日露戦争でこれまで余り注目されてこなかったのが、日英同盟の影に隠された日英軍事協商であり、日英の諜報の全面協力である。諜報と言う性格もあってこの軍事密約の締結そのものが秘密裏に処理され、その後も明らかにされてこなかった。
 
当時、世界を支配していた大英帝国『パックス・ブリタニカ』の秘密は軍事力と同時にこのインテリジェンス、情報力にあった。世界中に海底ケーブルをはりつめて電信網を築き、ロイター通信社を支配し、情報を集めて情報機関で分析して世界制覇したのである。

 

一八五〇年代に英国は「世界制覇は海底ケーブルにあり」との世界戦略で、海底ケーブルの布設に取り組んだ。実に半世紀をついやして明治三五年、最後に残った南アフリカ連邦とオーストラリアの海底ケーブルでつないで、世界中にある植民地とロンドンを結ぶ世界電信網(All Red Route)を完成させた。このおなじ年の1月30日に日英同盟条約が調印された。

超大国英国がそれまでの『栄光ある孤立』政策を捨て去り、アジアの4等国日本と同盟に踏み切ったことに世界は驚いた。「月とスッポン」の結婚に例えられたが、1年半も続いた南アフリカのボーア戦争で窮地に立っていた英国は極東アジアでは日本と手を結び、中国の利権を守り、日本は英国を対ロシアと戦う後ろ盾にしたかったのである。

同盟の内容は日本は英国の中国での権益を擁護し、英国は朝鮮、中国における権益を擁護し、一国と交戦した場合は同盟国は中立を守り、2国以上の場合は参戦を義務付けていた。露仏同盟に対抗して、フランスの日露戦争への参戦の歯止めとなり、ヨーロッパへの戦争の波及を防いだ。日本は日露戦争になった場合に満州戦線での英国陸軍の参戦を要請していたが、これは拒否され、英国は中立を維持することになる。
イギリス、フランスとも世界一,二の植民地帝国であり、世界の重要な拠点、港は両国のいずれかががおさえていた。英国はこの全海域に海底ケーブルを敷設したわけで、日露戦争が勃発すると、一応中立を保ちながら軍事協商の密約によって諜報協力や、ロシア海軍へのサボタージュ、バルチック艦隊の寄港、燃料の石炭の補給などを妨害して、艦隊の日本到着を遅らせて日本側をバックアップした。
 
フランスもまた、この条約にしばられて、同盟国ロシアへのぐんじ、非軍事の援助に足かせをはめられてしまい、日英の外交的な勝利につながるのである。日英軍事協商の日本陸軍代表だった福島安正少将は「この軍事協商こそが陸軍が日露戦争に踏み切る最大のバックボーンになったものであり、英国から提供された対ロシア情報こそ日本が受けた利益の最大のものであった」と、後年、述べている。(佐藤守男『情報戦争としての日露戦争―参謀本部における対ロシア戦略の決定体制1902―1904-(5回連載)』(北大法学論集51巻4号)
 
日英軍事協商と諜報の全面協力体制
 
日英同盟成立から約四ヵ月たった5月14日、が海軍横須賀鎮守府内で英国側はブリッジ東洋艦隊司令長官、日本側は山本権兵衛海相、陸軍からは参謀本部田村怡与造次長の福島安正同第2部次長らが出席して日英軍事協商の秘密会議が開かれた。
7月7日にはイギリス陸軍省で、伊集院五郎軍令部次長、福島らが出席して日英軍事協商に合意、おもに海軍の協力が中心の次の「陸海軍協約」八項目を締結した。
 
① 共同信号法を定めること。
② 電信用共同暗号を定めること。
③ 情報を交換すること。
④ 戦時における石炭石炭(日本炭、カーディフ炭)の供給方法を定めること。
⑤ 戦時陸軍輸送におけるイギリス船の雇用をはかること
⑥ 艦船に対する入渠修繕の便宜供与をはかること。
⑦ 戦時両国の官報をイギリスの電信で送付すること。
⑧ イギリス側は予備海底ケーブルの布設につとめること。
 
驚くべきことだが協定の過半が通信関連の問題であり、日英の参謀本部のトップは来るべき日露戦争は『情報戦争』「インテリジェンス戦争」であるという共通認識を持っていたのだ。
戦争に当たって一番大切なのは兵力や武器以上に情報とその分析である。その情報収集のために、まず情報通信のインフラ(海底ケーブル、有線通信)を整備し、通信のプロトコル(通信規約)を決め、暗号を共同化して、諜報した内容(コンテンツ)を通信して送受信する。このインフラ、ハードとソフト(暗号、諜報)はインテリジェンスの両面である。
 
もしどんな秘密情報をスパイしたとしても、それを伝える通信手段がなくては何の役にも立たない。古代からの戦争の歴史をみても、通信、コミュニケーションの歴史である。ノロシ、タイコ、ホラガイ、早馬、伝書バトなどで敵を知らせる通信手段に使ってきたが、日露戦争前に有線通信、無線通信、電報、電話、写真などの近代通信技術が一挙に発達し、通信スピードは飛躍的に向上していた。
 
葬儀の時に後藤新平が「百年に一人の知将だった」とのべた児玉源太郎総参謀長はこの情報通信の重要性を認識していたインテリジェンスの持ち主だった。また、児玉の先輩の「日本参謀本部の父・川上操六」も全く同じで、日清戦争直前に東京―下関間の直通電信線、朝鮮半島での釜山―京城間電信線を最初に提案し、児玉が先頭に立った九州―台湾間海底ケーブルも川上が深く関与した。
 
日英軍事協商でもう1つ大切な点は、次の諜報交換の密約をかわしたことだ。
『情報を制する者が世界を支配する』セオリーを実践した英国側から強い要請があり、次の3点の密約が交わされた。
 
① ロンドン、東京の日英公使館付各海陸軍武官を通してすべての諜報を相互に自由に交換する。
② 両国の公使館付武官はいずれの任地でも自由に情報を交換する。
③ 両国海軍連絡将校の各艦隊付、両国陸軍連絡将校のインドと日本間の交換派遣、戦時における陸海軍従軍武官の各司令部配属などが決定された。
 
この結果、50年かかって世界中に張り巡らせた英国の通信ネットワークとは、その後児玉がロシア側に情報漏れを防ぐため陣頭指揮で海底ケーブルを敷設して、ドッキングさせた。

この結果、東京からの電報の場合は、東京~九州(大隅半島)~台湾(基隆)~台湾(淡水)~福建省(福州)と伝達され、そこのイギリス局から香港を介して、南シナ海を抜けボルネオを経由しマラッカ海峡を通りインド洋を横断して紅海から地中海に抜け、そしてロンドンへという経路で伝達された。(石原藤夫著『国際通信の日本史―植民地化解消への苦闘99年』東海大学出版会、1999年)

 
この軍事協商の締結で、日本陸軍は、ロンドン駐在陸軍武官からの対ロ戦略情報とインド方面でのロシア陸軍の情報が容易に入手出来るようになった。一方、ロンドンでもスピーディに日露戦争の情報を収集できる体制が整った。日露戦争で英国は22人もの観戦武官を戦場に送り込んで情報を収集し本国に伝えた。
『明石工作』の暗号電報も、この回線を使って東京に速報された。
 
佐藤前掲書によると、「この合意によって、日露戦争中、おもに恩恵を受けたのは日本であった。というのも、大英帝国が、他の列強と対略し、植民地を巧みに支配するため、世界中に築き上げてきた諜報網を、さしたる労力もなしに利用できたからである。
 
その窓口となったのが、宇都宮と在英公使館付海軍武官の鏑木誠大佐。とくに、宇都宮は、戦争中、英陸軍参謀本部作戦部のエドワード・エドモンズ少佐と親交を重ねていた。このエドモンズこそが、当時世界中からロンドンに集まってくる各国の陸軍情報を英参謀本部内で掌握できる立場にあった。ロシア陸軍部隊の動員状況について、宇都宮が逐次、東京に報告しそれに基づき満州の露軍兵力が算定されるなど、イギリス陸軍情報は、参謀本部の作戦計画策定に寄与していた」と書いている。
 
巡洋艦「日進」、「春日」の回航
 
日英軍事協商の目に見えない情報交換、サポートがいろいろな形であった。
 
明治三六年十二月「英国のギブス社がイタリア・ジェノバで建造中のアルゼンチン巡洋艦二隻を百五十三万ポンドで買わないか」という話が舞い込んだが、海軍省は予算がないのを理由に断った。この二隻の巡洋艦は世界最性能で、特に装備砲は最大射程距離二万メートルもあり日本、ロシアの主力艦を凌駕していた。
両国の軍艦比率は、日本側は主力戦艦六隻、装甲巡洋艦六隻など総排水量は二十六万トンに対してロシアは戦艦十二隻、寄進洋艦十隻など五十二万トンで、日本の二倍にのぼっていた。
ロシア側が購入を計画している情報が海軍省に伝わると、その態度は一変した。ロシアにわたれば海軍力の差は決定的に開いてしまう。
 
小村外相は二十三日、林駐英公使に対して「百五十三万ポンドの言い値で購入せよ」と訓電し、三十日に林公使がロンドンで、アルゼンチン側との契約書にスピードサインした。あやうくロシアの手に落ちるのを防いだのである。
百五十三万ポンドといえば当時の日本円で千五百万円になる。当時の日本の国家予算は二億六千万円、海軍予算が二千九百万円なので、思い切った高い買い物を決断した。両艦の所有権は日本側に移り「日進」、「春日」と命名された。
 
ところで、問題は日本までに両艦どうやって無事、回航するかである。地中海にはロシア艦がウヨウヨし、いつ攻撃してくるかもしれない。ジェノバから日本までの回航は、英国のアームストロング社と契約、英国人が船長となり二隻の乗組員四百人はイギリス人、イタリア人で編成された。英国軍艦と同じ色に外舷に塗り変えて偽装して出発した。
 
日露開戦が秒読みになっており、東京からは一刻も早く帰ってこいの矢の催促で、両艦は弾薬の積み込みも完了しないまま、一月九日、ジェノバ港を出港した。ジェノバから日本まで、どのコースを取るか、ロシア軍艦のなるべくいないところと、帰る時間を計算して海軍省は「スエズ運河経由して、地中海のロシア水雷艇に十分注意せよ。危険な状況になれば、最寄のイギリス領の港に入れ」と打電があった。
 
一月十三日、十四日にスエズ運河の地中海側の港ポートサイドに着いた。ここにはロシア巡洋艦、駆逐艦がいたが、英国政府の好意で「春日」にさきに石炭を積み込んでくれた。地中海からインド洋までイギリスの新鋭一等巡洋艦が「キング・アルフレッド」が、「日進」「春日」に寄り添うようについて、追跡してきたロシア艦隊の後ろにピタリとついて、護衛してくれたのである。
 
このため、ロシア艦隊は手も足もでなかった。アデン、コロンボと英国植民地の港には寄港したが英国艦船がおり、「日進」「春日」はシンガポールを出た直後の明治三十七年二月六日、日本はロシアに最後通牒を出し、両国は戦争に突入した。二月十六日、「日進」、「春日」は無事に横須賀港に入った。横須賀の町民は日英両国旗を掲げて、歓迎し、明治天皇は英国人艦長二人に勲章を授けた。
「日進」「春日」は整備した後、ただちに聯合艦隊に組み込まれた。
 
日本海海戦では「日進」は、「三笠」を旗艦とする第一艦隊の最後尾の殿艦として活躍した。聯合艦隊の作戦参謀の秋山真之中佐は「日本が主力艦十二隻を全部を戦線に出すことができなかったら、勝敗はどうなっていたか分からない。「日進」と「春日」この二隻がいなかったらと思うと私は今でも戦慄せざるを得ない」と述べている。(『日本海海戦から一〇〇年』
この背後に英国側の並々ならぬ協力があったことがうかがえる。同盟初期イギリスが日本に対して行った最大の貢献であった。
 
ドッガーバンク事件を起こしたバルチック艦隊
 
もう1つ、日英軍事協商の影響と思われるバルチック艦隊のドッガーバンク事件である。ロシア海軍は、陸軍の敗北をばん回するため、バルト海に駐留していたロジェストジェストヴェンススキー提督率いるバルチック艦隊(ロシア第二太平洋艦隊、戦艦七隻を主力とした計五〇隻、三〇万トンの大艦隊)を五月二十日、日本攻撃にむけて出撃させるとを発表した。

しかし、バルチック艦隊の出航準備は大幅に遅れて兵力も減り戦艦5隻を含む15隻の艦隊で半年後の10月15日にやっと地球半周一万八千カイリの大航海にスタートした。

 
この間、日本艦隊の勇敢さ、神出鬼没ぶり、その弾丸の猛烈な破壊力などに尾ひれがついて伝わり同艦隊の将兵は不安を募らせた。そこへ途中の海で日本艦隊が奇襲攻撃をしかけてくるのではないか、など真偽取り交ぜたウワサ、デマ、謀略情報が乱れ飛んで出航前から同艦隊の将兵たちは疑心暗鬼になった。

このため、ロシアはルートの要所要所にエージェントを雇い入れて、日本艦隊の動向を監視させた。そうしたエージェントからも日本の水雷艇が暗躍しているとの情報も寄せられ、また日本側もニセ情報を流して撹乱した。バルチック艦隊は恐怖心を乗せてバルト海を出て、イギリスが制海権を握る北海に入った。
 

10月21日夕、バルチック艦隊は濃霧の中を北海のドッガーバンク付近にさしかかった。ドッガーバンクとは古いオランダ語で釣り舟を意味するところで、英国の東方100キロ沖合の水深15メートルの広大な浅瀬である。タラやニシンなどの絶好の漁場で、英国の漁師の小型トロール漁船4,50隻が毎日のように操業していた
 
ここでバルチック艦隊の工作船が操業中の英国漁船の闇に浮かぶ無数の灯火を日本軍水雷艇の野襲とかん違いして「水雷艇に追跡されている」との無線を発信した。戦艦「アレクサンドル3世」、「スワロフ」は「戦闘配置につけ」「魚雷攻撃だ」と命令を発し、漁船に向けて500発以上を発砲して、英国漁船1隻が沈没、四隻が大破、3人が死亡し、5人が負傷する事件が発生した。ところが、バルチック艦隊は英漁船の犠牲者も救助せずそのまま立ち去ってしまった。
 
この事件に対してイギリス世論は激高し、ごうごうたる非難がまき起きた。新聞はバルチック艦隊を「海賊」「狂犬」と一斉に非難し、「ロンドン・タイムズ」は「海軍軍人がいかに恐怖心に駆られたとはいえ射撃目標を確かめもせず、二十分間にわたって漁船に砲撃を加えるとは、とうてい想像し難いがたい。

大艦隊の大砲で憐れな漁民たちを撃ち殺し、犠牲者を救助もせず立ち去るとは想像も出来ないことである」と断定し、国王エドワード7世も「最も卑怯な暴行事件である」と批判した。ロンドン・トラファルガー広場で「ロシアの野蛮な行為に断固たる措置をとれ」と大規模なデモ行進があり、反ロシアと親日ムードが一挙に盛り上がった。

バ艦隊はそのままドーバー海峡をこえてスペインに向かったが、英政府は賠償問題解決までバルチック艦隊をスペインのビィゴ湾に5日間ストップさせた。石炭、水の供給は中立違反になるとスペインに警告し、以後、バルチック艦隊に無法者艦隊のラベルをはり、その航海を監視し、英国の植民地への「バルチック艦隊」の入港を拒否した。
当時、船の主力燃料はほとんどが英国産の「カーディフ石炭」(無煙炭)だったが、この供給もストップした。さらに、フランス政府に圧力をかけ、フランス植民地の港を使用させないように強要した。バルチック艦隊はアフリカ西海岸沿いに喜望峰をまわり、ジエゴシアレス港で石炭積み込みと休養のため二週間の碇泊を予定していた。

ところが、イギリスの圧力により、フランスは同港の使用を禁止した。このため、同艦隊はマダガスカルの小さな漁港のノシベ港へ回った。

 ドイツは、ロシアに味方しており、ここでカージフ炭を補給する予定だったが、ここでもイギリスが再び待ったをかけたので二ヵ月間も足止めされた。
 
そのあと、ようやくフランス領インドシナのカムラン湾にたどりついたが、ここでも湾内の停泊は禁止された。給炭のための巡洋艦や運送船以外の艦艇は、国際法の規約により二四時間で出港を強要された。バルチック艦隊は後続のロシア太平洋第三艦隊の到着までの二週間を湾外の外洋で停泊した。こうしたび重なる混乱と停泊で艦隊内の士気は最低までに落ち込んだ。カージフ炭の不足で艦隊のスピードは落ちる一方で、日本海海戦の前からすでに敗色濃厚だったのである。
 
このドッガーバンク事件の影で活躍したのが滝川具和(海軍少将)と言われている。滝川は明治35年、ドイツ公使館付海軍武官となりベルリンに赴任、日露戦争時には明石と共にヨーロッパで特別任務にあたった。「対支回顧録」下巻 列伝』(東亜同文会内対支功労者伝記編纂会、1936年)では、「陸の明石大佐とならんで裏面の勲功をたてた。
 
ロシアの革命派を操縦して各地に小規模の反乱を起させ、海軍にはオデツサの黒海艦隊の内乱あり。バルチック艦隊の東航予定(三十七年六月出発の予定)を延期させ、十月にようやく出航するや抜錨するや、日本水雷艇が北海方面にあるとのニセ宣伝をながしたり、漁船をやとってバルチック艦隊の襲撃を試みるとのデマもとばして、ロシア側を動揺させて、ロシア陸海軍の極東派遣を阻止した」と記されている。
 
つづく

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