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『 2025年は日露戦争120年、日ソ戦争80年とウクライナ戦争の比較研究①』★『日露戦争でサハリン攻撃を主張した長岡外史・児玉源太郎のインテリジェンス』★『「ないない参謀本部」のリーダーシップの実態>』

      2024/12/20

2015/01/02日本リーダーパワー史(91)記事再編集。掲載
前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
日露戦争の終番の唯一のロシア領の占領であったサハリン攻撃の内幕を紹介する。
 
そのためには、日露戦争が開始になってからの参謀本部の序列に触れておかなければ、戦争の指揮系統は理解できない。
 
日清戦争のあと、日本はロシアと早晩対決せざるを得ないだろうことは、軍首脳の頭の中にすでにあった。それは遼東半島を還付することが決まった日からである。三五年四月少将田村怡与造が、対ロ作戦計画を樹立すべく参謀次長となった。総長は大山巌である。それも束の間、36年10月病魔の冒すところとなり、五〇歳で死んだ。
大山は、自分は総長を辞めたいとして、山県に新総長を希望したが山県の意が得られず、それでは乃木希典を起用してはと提唱した。寺内陸相が書いた山県への書翰の中には、乃木の総長就任は「難しいと存ぜられます」といっている。
大山は辞めたい。山県はいやだという。このまま決定せずにいれば大事になると考えた児玉は、「フム、そういうことになっているのか。それじゃ我輩がガマ公(大山元帥のニックネーム)のために次長になってもよいネ」といった。
 
内務大臣兼文部大臣の児玉源太郎が参謀次長になることは、親任官から勅任に2階級降ることになる。それでは内閣のゆるぎになるとして、桂首相としても即決できず、山県に相談してくれと言った。
児玉は「そういうことは現今の非常時に問題なかろう。我輩を直ちに次長に推すことに手続を取ってくれヨ」と即決した。「児玉をおいて人なし」ということで山県も了承、大山も32年5月以来座ってきた参謀総長を、さらに続けることになった。
 
その児玉は開戦後は満州総司令部が編成され、大山と共に満州軍総参謀長として、満州の最前線に出て行った。あとの山県参謀総長の下で、おもり役の参謀次長には児玉が長岡を推した。児玉は三〇年、陸軍次官兼軍務局長のとき、参謀本部第二部員の外史を引き抜いて、軍務局第二軍事課長に据えた。
 
参謀次長を引き受けた児玉は「君、戦争中に理屈は禁物じゃ。今の部内を見渡したところ、君より他に適任者はないのだ。君は川上さん(操六大将)のご命令で二度もシベリア、朝鮮を視察している上に、君まで欧州に留学して、君の戦術、軍政を体得してきた。帰りは旅順まで行ったではないか。君の身体は試験済みじゃ。是非引き受けてもらわんと困る」と六月二〇日付で外史は参謀次長となり、大山に代わって山県が参謀総長となった。
ところが、参謀本部にきてみれば「ないない参謀本部」そのもので、山県参謀総長はリーダーシップのかけらもなかった。老人もうろく症なのか、決断ができずに問題先送り、トップ会議でも下らぬ約束を優先して座をはずすことが多く、長岡はひとり気をもんで、最終的な判断は児玉にそれとなく頼んで解決したのであった。(以上戸田大八郎著『長岡外史』(昭和51年, 長岡外史顕彰会発行)
 
早くからサハリン攻略を説いていた陸軍の傑物・長岡外史
 
日本海海戦で期待のバルチック艦隊は壊滅したが、ロシアは戦争をあきらめてはいなかった。ネボガトフ少将が日本海で降伏旗を掲げた翌々日の五月三十日、ロシアは宮廷の軍事会議で戦争続行を決定した。同時に極東軍総司令官のクロバトキン大将を降格し、第一軍司令官のリネウィッチ中将を総司令官に任命した。そしてロシア本国からさらに精鋭部隊三十万を満州に送り込んで、反撃態勢を整えていた。
 
一方、「ないない参謀本部」(長岡外史参謀次長の自嘲的な命名)
 
の日本は兵力、弾薬、装備、かんじんの戦費がすでに底をつき、これ以上戦う余力は残っていなかった。日本は日本海海戦後、ただちにルーズベルト米大統領に講和の斡旋を依頼した。ルーズベルトもすぐに動いた。
 
ドイツ皇帝に親書を送って、ロシア皇帝ニコライ二世を説得してもらった。
 六月三日、ルーズベルトから「ニコライ皇帝が大統領の提案を承諾した」という電報が入り、いよいよ講和あっせんが本格化し、日本側は一息ついた。
 六月七日、ルーズベルトはハーバード大学の同級生で、日本政府の特使でもある友人の金子堅太郎を大統領官邸に呼び、食事の後に講和斡旋の経過を話した。
 
「いよいよ講和談判の開始になると思うが、ここで君に忠告することがある。この際、日本はすみやかにサガレン(樺太)に出兵し占領する必要がある。一旅団の陸軍と二、三の砲艦を派遣すれば、すぐに占領できる。講和談判が開始される前に早くサガレンを攻撃するよう日本政府に言ってもらいたい」と樺太占領を強く指示した。
 
 日本の参謀本部でも、開戦直後から樺太攻略作戦は練っていた。ことに満州軍総参謀長・児玉源太郎大将の留守居役ともいえる陸軍参謀本部参謀次長・長岡外史(ながおかがいし)少将は、次長就任直後から熱心に樺太攻略を推進してきた。しかし周囲からの猛反対と、旅順攻略に予想以上の時間がかかったため攻略作戦は延期に延期を重ねてきた。
 
樺太の領有権は日本にあった。
 
 その長岡は周囲から「また樺太攻略の話か!」といやがられるほど熱心な樺太攻略主義者だったが、その理由は次の点にあった。
 
①樺太の領有権はロシア占領はるか以前からである。日本は一六二四年に官吏を派遣したが、ロシアがきたのは一八〇三年のこと。日本は一八七五年に樺太千島交換条約でわずか八万円で樺太をロシアに譲ったが、これは圧力によって屈したものである。
 
②樺太はアジア大陸の自然の連続ではなく、日本帝国を構成する群島半島の連鎖の一部である。中国・黒龍江の前哨線でもあり、樺太を占領しなければ日本海の制海権の半分をロシアに依然握られたままになる。
 
③樺太には鉱産物などの天然埋蔵量が多く、林業資源と同時に漁業権の獲得によって豊富な魚業資源を得ることができる。
 
 長岡は旅順攻略戦開始の明治三十七年七月以前にも、樺太攻撃作戦を立案して山県有朋参謀総長に説明したが、山県は気乗りうすで、寺内正毅陸相にいたっては樺太攻撃を持ち出すと「ことには軽重、主戦支戦があり、そんな支戦はだめだ」といつも怒りだす始末だった。
 
海軍もバルチック艦隊が東上中でもあり、旅順、ウラジオストクにロシア艦隊が控えている段階では「軍を二分するのは愚策である」と山本権兵衛海相は強く反対し、取り合わなかった。
 それでも長岡は粘り強く説得し続けてきたが、旅順攻略に思いのほか手間取り、派遣部隊や人月は一応決定したのに、攻撃作戦は延び延びになっていた。長岡は前線の児玉稔参謀長に手紙で樺太攻略の必要性を訴え、側面援助を頼んだ。
 
 明治三十八年四月、児玉が帰国して側面から樺太攻略を進言したが、状況に変わりはなかった。バルチック艦隊が迫りくるなか、軍首脳はメインの作戦で頭がいっぱいで、樺太攻略作戦を考える余裕はなかったのである。
 状況が一変したのは日本海海戦の大勝利だった。いまこそ、「樺太攻撃の絶好のチャンスが到来した」と長岡は喜び勇んで説得に走り回った。
 
ルーズベルト大統領の講和提議が日本に到着した六月九日、伊藤博文枢密院議長は桂首相、寺内陸相、小村外相と山県参謀総長室で会談した。そのあと長岡が部屋に入ると、伊藤は葉巻を吹かしながらルーズベルトの電文を読み上げた。
 
 長岡が「樺太攻撃の準備は完了し、作戦はすぐ実行できます」と説明すると、「それはやるがよい。何も戦争を進めるのと大統領の平和勧告とは全く別物である」とOKを出し、山県総長も「準備はできており、外交を妨げぬならやってよい」とはじめて賛成した。山岡は嬉しさのあまり総長室内を小躍りして回った、という(谷寿夫「機密日露戦争」より)。
 
つづく
 
 
 

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