『ガラパゴス国家・日本敗戦史』㉜終戦時の決定力、決断力ゼロは「最高戦争指導会議」 「大本営」の無責任体制にある
2015/01/01
『ガラパゴス国家・日本敗戦史』㉜
『来年は太平洋戦争敗戦から70年目―
『アジア・太平洋戦争全面敗北に至る終戦時の
決定力、決断力ゼロは「最高戦争指導会議」
「大本営」の機能不全、無責任体制にあるー
現在も「この統治システム不全は引き続いている』
終戦を断固,すすめた米内光政元首相(終戦時の副総理、海相)は
昭和20年11月17日 米国海軍側の取調に対して、『最高戦争と指導会議』
について、
<「証言記録 太平洋戦争 終戦への決断」(サイケイ新聞社、1970年、188-203P)>
◎「最高戦争指導会議などと呼ばれるものですから、国家の一元的な戦争努力のビラミッドの頂点に当たるものだという印象を受けやす いのです。
しかしそれは名前のつけ方が間違っていたと私は考えます。なぜなら実質的には、戦争指導機関ではなくて、連絡機関であったので
すから…:」。
●「戦争指導に関する限りでは大本営が最も有力な組織だが、大本営では、陸軍作戦の問題に関する限りは参謀総長が、海軍作戦に関する限りは軍令部総長が、こうするといえばそれで決りました。そしてもし、両総長の間に意見の相違が起こるようなことがあれば、何もできなかったのです(陸軍、海軍分裂、バラバラ)。」
答 日本の政界、言論界では、首相の経歴を持った人、または、天皇から総理大臣前歴者と同じ待遇を許されたものは「重臣」どとよばれていました。
この「重臣」という意味は、元老的政治家という意味で、一般の人々には、上層部で起こっていることは何でも知っているはずだという印象を与えていたようです。
ところが実際は、政府筋や最高軍事機関などで、どんなことが起こっているのかということは何も知らされていなかったのです。したがって、国内の傾向が戦争に向っているのやらその反対の方に動いているのやら、重臣は知る地位にいなかった。
いわゆる重臣というのは、内閣が総辞職して次の内閣をつくらなければならぬことになった場合、それについての意見を求められるのを主な目的としておかれた一団の人たちのことを指すわけです。つまりこの人たちはそんな時に、はじめて存在理由があるわけです。
この重臣というのはどちらかといえば、得体の知れないもので、決定的な行動をとる権限があるわけでなく、ただ内大臣の相談相手になるだけでした。
重臣グループは述べたように、ただの諮問機関にすぎないのですから、その進言などまったく問題にされないこともあったわけです。
この重臣たちの正しい権能については、一般の人々から多少の誤解を受けていたようです。
問 実は本日の質問によって、われわれは最高統帥部の計画や、決定された重要事項について、はっきりしたところをつかみたいと思っています。
貴下こそ誰よりもくわしく知って〕おられるにちがいないと、われわれが予想していた重要問題について、あなたのど意見を承りたかった次第ですが…。
答 すでに申しあげた通り、私は昭和十九年七月末に小磯内閣に入閣するまでは、まったく政治活動に縁がなかったので、残念ながら何も知らない立場に圏かれていました。
したがって、それ以前の重大な案件や計画について、何も申し上げるようなことはありません。しかし、昭和十九年七月末以後のことなら、それはむろん、副総理兼海軍大臣という立場ですから、それならば私の知っている限りのことを喜んで申しあげましよう。
問 では、閣下、「最高戦争指導会議」の機能、およびその運営法について、どうぞ、簡単にお述べ下さい。
答 最高戦争指導会議は次の二つの部分から成り立っていました。
① 6名よりなる正規の構成員-首相、外相、陸相、海相(以上政府側)参謀総長、軍令部総長(以上は統帥都側)
➁、右の外、正規構成員は必要に応じ、他の閣僚を構成員に加える権限をもっていました。
また、幹事というものがありましたが、この幹事は、会議で行なわれたことについて、直接の責任は持ちませんでした。
また、正規構成員ではないが、参謀次長と軍令部次長が会議に列席しました。
この両次長が列席して、両次官が列席しなかったのは、以前、参謀総長と軍令部総長が皇族〔閑院宮と伏見宮〕であったとき、輔佐のために、次長の出席が必要であると思われて、そうした慣例ができたのです。
この旧例は、両皇族が総長をやめて、臣下の者がその後任者になっても続けられました。
問 では、この最高戦争指導会議にはどのようにして問題が提出されたのですか。それが機能を果たす手順はどんな風でしたか。
答 最高戦争指導会調における議案は、作戦計画の討議にかぎらず、むしろ、戦争努力の他の画-戦力維持の方法特に問題、および現情勢の下で、戦争が順調に遂行されて行くかどうかという点にその重点がおかれたようでした。
問 なるほど。そこで、そういう問題は、最高戦争指導会議以外の機関を通じてか、あるいは両統帥部総長によって提出されたわけですね。そうでないとすれば、どんな筋から討議材料が提出されましたか。
答 提案はすべて、六人の正規構成員から持ち出されました。いいかえると、外部からは何も提案されませんでした。
問 それなら六人の構成員だけが、いわゆる決議参加権を持っていたものと推断できますが、正規メンバーの外の人にも、決議参加権のようなものがありましたかの
答 いや、議決権を持っているのは六人の正規構成員に限られていました。
この六名が自分たちの必要と思う政策なら何でも採択するのです。
しかしこれは最終的なものではありません。という重要事項と関連のあるものは、内閣にまわされ、そこを通過しなければ最終的なものとならないからです。
〔編者往〕 実際において、政府は最高戦争指導会議決定事項の内容に鑑み、閣議の決定を必要とするものについては、更めて、これを閣議に付し、いわゆる閣議決定の手続を経た後、実行に移した。
この閣議に付する際、所要に応じ、決定事項の中から統帥事項を除き、この事項は両総長が幕僚長として、それぞれ、別個に処理した。
なお、重要な決定事項は天皇に上奏して、裁可を仰ぐのを例とした。>
問
最高戦争指導会議は、意見の相違や論争のあった事項については、それを直接、天皇のお耳に入れましたか。
答 論議が特に重要なものと考えられる場合、会議は天皇のご臨席をお願いすることになっていました。もちろん天皇のご臨席を至当とするほど、問題が重要であるかどうか、それを決めることは六名の構成員にゆだねられています。
つづく
関連記事
-
『Z世代のための最強の日本リーダーシップ研究講座㉟」★『120年前の日露戦争勝利の立役者は児玉源太郎』★『恐露派の元老会議に出席できなかった児玉源太郎』★『ロシア外交の常套手段の恫喝、時間引き延ばし、プロパガンダ、フェイクニュースの二枚舌、三枚舌外交に、日本側は騙され続けた』
元老会議の内幕 (写真右から、児玉総参謀長、井口総務部長、松川作戦 …
-
★『Z世代のための日本政治史講座㉒』★『歴代”宰相の器”とな何か!』★『日本の近代化の基礎は誰が作ったのか』★『わしは総理の器ではないとナンバー2に徹した西郷従道』★『なんでもござれと歴代内閣に重宝されて内務大臣三回、海軍大臣七回、陸軍大臣(兼務)一回、農商務大臣などを歴任、縁の下の力持ちに徹し、有能人材を抜擢した』
2012/09/09 &nbs …
-
日本リーダーパワー史(873)―『慰安婦問題をめぐる日韓合意をひっくり返した韓国政府の二重外交の歴史復習問題⑶』★『伊藤統監は「今次のハーグ密使事件は保護条約の違反であり、日本に 対する敵対行為である』★『「英タイムズ」「ニューヨーク・タイムズ」など の「日韓併合への道』の報道連載(21回→27回終)』
日本リーダーパワー史(873)― 「 英タイ …
-
『リーダーシップの日本近現代史』(237)/『日本人に一番欠けているものは自由と正義への希求心』ー冤罪と誤判の追及に生涯をかけた正義の弁護士・正木ひろし氏を訪ねて』★『世界が尊敬した日本人―「司法殺人(権力悪)との戦いに生涯をかけた正木ひろし弁護士の超闘伝12回連載一挙公開」』
2017/08/10   …
-
『リーダーシップの日本近現代史』(14)記事再録/『第3の敗戦を迎えた今、政治家に告ぐー150年前の「岩倉遣米欧使節団」の国家戦略と叡智に学べ
2012/09/22   …
-
日本リーダーパワー史(39)『日本敗戦の日、森近衛師団長の遺言<なぜ日本は敗れたのかー日本降伏の原因>
日本リーダーパワー史(39) 『日本敗戦の日、斬殺された森近衛師団長の遺言 &n …
-
『オンライン講座/日本戦争報道論①」★『ガラパゴス国家・日本敗戦史』⑫「森正蔵日記と毎日の竹ヤリ事件⑤まきぞえをくった二百五十名は硫黄島 で全員玉砕した』★『挙国の体当たり―戦時社説150本を書き通した新聞人の独白』森正蔵著、毎日ワンズ)は<戦時下日記の傑作>森桂氏に感謝します』
2014/10/09 記事再録 120回長期連載中『ガラ …
-
「タイムズ」からみた「日中韓150年戦争史」(61)『(日清戦争開戦4週間後)-『日本の朝鮮侵略(下)』
『「申報」「タイムズ」からみた「日中韓1 …
-
『「申報」などからみた「日中韓150年戦争史」 (67)イタリアにいたラクーザお玉は日清戦争の連勝にびっくり仰天!
『「申報」からみた「日中韓150年戦争史」 日中韓のパ …