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片野勧の衝撃レポート(40)太平洋戦争とフクシマ⑬≪悲劇はなぜ繰り返されるのか「シベリア抑留と原発」

      2015/01/01

  

  片野勧の衝撃レポート(40

 

  太平洋戦争とフクシマ⑬


≪悲劇はなぜ繰り返されるのかー
★「シベリア抑留と原発」⑬

 

片野勧(ジャーナリスト)

 

権力の横暴を監視しないマスコミ

 

相良さんは国家権力の横暴を監視するべきマスコミの不見識さにも言及する。たとえば、原発。

「私は原発関連の本を10冊は読んでいますが、なんとなく体制寄りで哲学がない。原爆に使えるプルトニウムも飯舘村に降ったんですよ。それを追求しようとしないマスコミは問題ですね」

さらに話は自治体にも及ぶ。

「私は市役所にも何回か行って物申してきましたが、当然知っておくべきことを知らないのです。原発は安全だと知らされ、受け入れた。しかし、完全な過ちだったことが分かったわけでしょ! 地域で最も信頼されなければならない機関なのに、何を聞いても知らないという。困ったものです」

国策で推進した原発。当然、責任者がいるはずなのに、誰も責任を取ろうとしない。なぜなのか。

 

「戦争だって東条英機など責任者がいました。しかし、これだけの被害を出したのに、責任者がいないのはおかしい。これは自身の失敗を棚上げして、責任を国民に押し付ける1億総懺悔論ですよ」

相良さんは語気を強めて、こう締めくくった。

 

1億総懺悔論

  

1億総懺悔。戦後史を振り返る。ポツダム宣言を受託し、無条件降伏した1945年8月15日からわずか3日後に、皇族であり陸軍大将だった東久邇宮稔親王が首相に任命され、東久邇宮親王は同年9月7日の帝国議会で施政方針演説を行った。

「敗戦に因って来る所は固より一にして止まりませぬ、前線も銃後も、軍も官も民も総て、国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔し、神の御前に一切の邪心を洗い清め、過去を以て将来の誡めとなし、心を新たにして、戦いの日にも増したる挙国一家、相援け相携えて各々其の本分に最善を(つく)し、来るべき苦難の途を踏み越えて、帝国将来の進運を開くべきであります」

 

この1億総懺悔論は国民を悲惨などん底に突き落とした戦争責任を免れるために、軍や政府が組織を挙げて行った大キャンペンだった。つまり、太平洋戦争に負けた戦争責任を国民全体で担わせ、戦争への道に突き進んだ国の指導者の責任を隠ぺいする論理である。今、これと似た論理が原発事故を巡り、頭をもたげていると相良さんは思う。

 

たとえば、復興構想会議(議長、五百旗頭真:防衛大学校長、神戸大学名誉教授)の提言。「失われたおびただしい『いのち』への追悼と鎮魂」「地域・コミュニティ主体の復興」「災害に強い安全・安心のまち」「国民全体の連帯と分かち合いによって復興を推進する」……。

これは、東久邇宮親王風にいえば、「戦いの日にも増した挙国一家、相援け相携えて各々其の本分に最善を竭し、来るべき苦難の途を踏み越えて、帝国将来の進運を開くべきであります」という1億総懺悔論とそっくりではないのか。

 

津波被害や原発事故の原因究明や責任追及は一切棚に上げ、それを被災者の個人的な震災体験にすり替え、国民一人ひとりがどう支え合うかという個人の心の持ち方へと誘導しているのである。

 

真の加害者は誰か

 

私は原発事故でふるさとを追われた人に話を聞く機会があった。今年(2014)2月14日。東京・江東区の36階建て高層マンションの国家公務員宿舎・東雲(しののめ)住宅。

「原発があるおかげで働く場所もできた。それで掌を返したように東電の悪口ばかり言うのも問題だよ。それを許してきた我々にも責任があるのじゃないのか」

福島第1原発から20キロ圏内の南相馬市から避難している男性がぽつんと言った。私は考え込んだ。原発事故の真の加害者は誰なのか。電力会社か、国か。それとも電気を使ってきた私たちか。

この男性は「国や東電はもちろん加害者だが、我々にも加害責任がある」と言いたいのだろう。確かに、我々は3・11フクシマの事故前、原発電力の恩恵を受けてきた。しかし、事故後、我々は変わった。原発の廃棄を求める声は圧倒的に多い。その声が後押しして原発は今、1基も動いていない。

 

にもかかわらず、原発再稼働が主張される。その責任は国民にあるのではない。政治家と東電と官僚にある。もし、我々が節電に努めて電力消費量を少なくすれば、国は原発再稼働を止めるだろうか。そんなことはない。

もちろん、私は国民にも一切責任がないというのではない。大きな責任がある。しかし、政策を決定した者と、その政策に従った者とでは、責任の大きさは違う。「1億総懺悔」論を持ち出して、原発の恩恵を受けてきたのだから、事故賠償についても国民が負担すべきという論理はいかがなものか。

 

問題は、「電力を使う」ことへの責任ではない。政府の政策を変えさせる手段を持ちながら、それを行使していないことへの責任である。政策決定の最前線に立つ政治家には、我々以上の重大な責任がある、と。しかし、彼らにその責任を自覚させうるのは、それを表現する選挙しかない。そこにこそ我々自身の責任が存在するのだ。

大事なのは一人ひとりの自立した生き方で、指弾されるべきは安全神話を垂れ流した原子力ムラであり、政治ムラ、官僚ムラ、医学ムラ、経済ムラだろう。

 

ひとつ屋敷に20数人が同居

 

私は相良さんを取材し終わった翌25日、やはり南相馬市原町区に住んでいて、お兄さんがシベリアに抑留されたという婦人を訪ねた。菊地ミチ子さん(78歳、旧姓・武山)である。時計の針は午後1時を少し回っていただろうか。突然の訪問にも関わらず、彼女は快く迎えてくれた。元小学校教員。

 

――終戦時はどこに住んでおられましたか。菊地さんは、「ここに住んでいました。当時、小学3年生で9歳。こんな田舎にも爆弾が落とされました。びっくりして、神棚しょって、家族一緒に防空壕に逃げました。幼いながらも、戦争の怖さを体験しました。今になっても辛く、悲しい思い出として蘇ってきます」。

幼いころ、菊地さんが住んでいたのは南相馬市原町区北原。戦時中は疎開してきた親戚の子供たち、戦後は外地から引き揚げてきた叔父の家族たちと同居。ひとつ屋敷に20数人が住んでいたという(旧武山家住宅は国重要文化財に指定)

菊地さんは母や姪たちから聞いた話を語ってくれた。

 

「母とお風呂に入ったとき、母が『お父ちゃんが死なないで帰ってくるよう、ノンノ様にお願いしようね』と窓からお月様を見上げながら、手を合わせて拝んでいたので、私も一緒に拝んでいた」と姪が語ってくれた時があった。その当時、姪は2、3歳。姪の母は22、23歳。二人の姿を想像しただけでも涙が出てくると菊地さんは、こんなことも語ってくれた。

「いつのころからか、我が家に憲兵隊のお兄ちゃんが訪ねてくるようになった。日曜ごとに7、8人連れだって(もっと大勢だったかもしれない)、農作業を手伝ったり、私や姪と遊んでくれたりした。お昼の食事時になると、長テーブルを部屋いっぱいに並べ、それはそれは賑やかだった。大きな羽釜のご飯は『おかわり、おかわり』で家族の分はなくなるほどだった」

 

母から聞いた話。

「隠居のじっちゃん、ばばちゃんは戦地の孫の無事を祈り、ひもじい思いをしないよう、毎日、(かげ)(ぜん)を作り、一緒に食事をとっていたんだよかあちゃんはいつも丸い石を手にお風呂に入っていたけど、それは石を2人のお兄ちゃんとなぞらえ、一緒に温め洗ってあげていたんだよ――と。

 

兄はシベリアで4年間捕虜に

 

また母はこんなことも言っていた。

「馬との別れは辛かった。悲しかった。馬も家族の一員だものね。別れの朝、馬小屋の前で家族みんなで人参をやった。背中を撫でてやった。馬の目が涙で青く光って見えたような気がした。背に日の丸の旗を揚げ、父ちゃんに手綱を曳かれ、じょうぐちを出て行った。夜ノ森公園から戦場へ送られたんだって……」

武山家が最も驚いたのは、出征していた2人の兄が何の前触れもなく突然、帰ってきたことだった。上の兄は終戦後間もなく、米とチャイナ服を土産に帰ってきた。下の兄はシベリアで捕虜生活4年を経て、ひからびたような姿で帰ってきた。

「お兄ちゃんはシベリアで過酷な労働を強いられ、飢えと疲労、寒さなど言葉に絶するほどの生活ぶりだったのだろう」(会報誌『九条はらまち』No153)

それゆえか、復員してから一度も誰にも戦地での話はしなかったという。

 

異国の丘」を皆で聴き入る

 

今日も暮れゆく 異国の丘に 友よ辛かろ 切なかろ……

 

幼い子供の無残な死。望郷の念……。シベリア抑留の悲哀を伝えて、今も歌い継がれる「異国の丘」。作詞は福島県出身の増田幸治、作曲は吉田正。

当時、増田は軍曹でロシア語通訳として勤務していた。吉田も抑留された後、シベリアから帰り、プロの道に入り、ヒット・メーカーとして数多くの名曲を生んだ。この歌はタウリチャンカ第六(のち第四と改称)収容所で作られたといわれている。ミチ子さんは語る。

「いつのころか、『異国の丘』のレコードを聴くのが我が家の日課のひとつになっていました。夕食の後、父が蓄音機のハンドルを回し始めると、母はもちろん、家族全員、時には親戚の人たちまで寄って行って、『異国の丘』に聴き入りました」

それぞれの立場で、それぞれの思いで、息子、夫、兄、甥等の無事の帰りを信じながら聴き入っていたのだろう。

 

武山家では毎年正月3日、「いとこ会」を開いている。その「いとこ会」では、無事にシベリアから帰ってきた兄を中心に肩を組み、「異国の丘」を歌うのが恒例になっている。ある年の「いとこ会」。誰かが歌い出した。2番ごろには40数人が肩を組み合って大合唱。歌っているうちに、みんなの笑顔が歪み、涙声になった。その兄も平成11年(1999)2月、75歳で他界した。

 

――今もいとこ会を開いているのですか。

「2011年の秋、家族、親せき、みんなで作品を持ち寄って第1回の文化祭をやりました。地方新聞にも報道されました。しかし、大震災と原発事故でもうできなくなりました。残念です。でも希望は持っています。最寄りの人たちだけ集まって元気を取り戻そうと『ミニいとこ会』を開きました。続けていきたいと考えています」

戦争で兄はシベリアに抑留され、また今回の原発事故で家族が分断された。この2つの国策に翻弄された悔しさがミチ子さんの表情からうかがえた。

 

避難先を転々とした

 

ミチ子さん夫婦は避難先を転々とした。震災翌日の3月12日。福島県二本松市の次女宅へ。翌13日は次女の長男が学生生活を送っている池袋に6日間。19日は夫の弟が住む北海道札幌へ。そこで17日間、お世話になった。その後は夫婦2人だけの避難生活を送った。レオパレスで100日、公営住宅で85日、空港で1日。震災翌日から数えると、計210日間、避難したことになる。

しかし、夫は3年前、大腸がん手術を受け、その後再発防止として定期通院、薬も服用していたが、原発事故、避難等で中断。その夫も昨年(2013)6月、亡くなった。ミチ子さんは言う。

「これから先、戦争を知らない子供たちを戦場へ送るような事態が決して起きませんようにと、願うばかりです。また原発事故という悲劇が起こったのに、再稼働なんてとんでもないことです。決して許されることではありません」

戦争を美化し、原発を容認する風潮に穏やかな口調だが、出てくる言葉は厳しい。

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