『オンライン講座・日本戦争外交史➄』★『国家戦略・リーダーシップ・インテリジェンスの日露戦争と現在の比較論―児玉源太郎・満洲軍総参謀長の「懐刀」の長岡外史参謀次長のについて②
2022/11/20
日本リーダーパワー史(45)記事再録
前坂俊之(ジャーナリスト)
今から100年以上も前、1904年(明治37)日露戦争当時に、陸軍参謀本部の建物は現在の千代田区永田町1目1番地、国会前庭南地区にあった。
本来、「大本営」は宮中にあるべきものだが、参謀本部に陸軍の大御所、山県有朋が参謀総長として執務し指揮していたので、この西洋式建築の参謀本部が一般には「大本営」と呼ばれていた。
明治天皇が軍の統帥者だが、実質は山県が最高指揮官であり、その下の参謀本部次長は長岡外史が座っていた。長岡は写真をみると驚くが世界第二位という60センチの髭を蓄えた奇人変人参謀であった。その実、大変有能で機略縦横の川上操六、児玉源太郎の子分だった。

長岡は長州出身で、陸大一期生。同期の藤井茂太とともに、陸軍の首脳を説得してメッケル少佐統率の参謀旅行を実現し、派閥に凝り固まった陸軍を打ち破るため軍事研究が目的の研究会「月曜会」を8年間主宰した偉才で、ドイツに3年間留学し、参謀本部の川上操六から薫陶を受けた。
川上の命令で日露戦争に備えてウラジオストック・ハバロフスクへの軍事視察にいき、ドイツ留学からの帰路もシベリアを経て旅順を見てきており、ロシアについては誰よりも研究をしいた。
児玉源太郎参謀次長が満州軍総参謀長として戦地に赴くに際して、広島から長岡を呼び、「俺のあとに大本営参謀次長になれるのはお前しかいない」と長岡を抜擢して後事を託したほどだ。
このとき、参謀本部次長の候補にのぼったのが伊地知幸介である。
このとき、参謀本部次長の候補にのぼったのが伊地知幸介である。
大本営では山県総長は病弱で判断力にも欠くことも多かったので、実質的な戦地への連絡などは長岡外史の次長名で出す場合が多かった。当時の通信機関は脆弱を極め、、大本営が的確に情報を掴んで命令を下ためのコミュニケーションの混乱も何度も起こっている。
そんな統帥機構の未熟な中で日露戦争で全軍を実質指揮したのは児玉源太郎であり、陸軍内で発言力でも児玉が完全に牛耳っていた。
第一回旅順要塞の総攻撃が失敗に終わったことに長岡はカンカンに怒っていた。20万タルのセメントで固められ日本の最新式の攻城砲ではびくともせぬ難攻不落の203高地の要塞について、乃木率いる第3軍はバカの1つ覚えの白兵戦の正面攻撃、正攻法をくりかえしては屍の山を築いた。
長岡は少しでも陥落を早めて、それだけ兵士の犠牲を少なくするため、「有坂砲」で知られる有坂成章少将の提案によって東京湾で担海岸砲として取り付けられていた「28サンチ砲」をはずして、旅順攻撃に使うように第三軍に指示した。
ところが、何度指示しても、第3軍の伊地知幸介参謀長からは「送ルニ及バズ」と拒否の返事が返ってくる。伊地知は大山巌元帥の姪と結婚しており、フランス、ドイツに留学、その後日清戦争時には大本営参謀・参謀本部第1部長。旅順要塞攻撃で編成された第3軍の参謀長に抜擢された。長州出身の乃木大将との藩閥均衡人事で、薩摩出身の伊地知が任命され、白兵突撃に偏った作戦に終始した。
続く第二回旅順総攻撃でも突撃に次ぐ突撃、肉弾に次ぐ肉弾の猛攻を加えたが、ごく一部を占領しただけで「死傷者3803人」を出した。「25サンチ砲」では効果がなかったことにも気付かず、「28サンチ砲」の発送を『送ル二及バズとはどういう了見か、頑固な奴め!。兵をこんなに犠牲にだすとは・・』と長岡は腹が立て仕方がなかった。
伊地知は薩摩藩士伊地知直右衛門の長男である。武勇でなり、死をいとわぬ薩摩の伝統を引き続ぎ、戦争は侍がするもので百姓町人の関与するものではない、との思想があった。一方、子供のころ見た高杉晋作の奇兵隊などの流れをくむ長岡は軍隊は民衆から支持されるものでなければならない、人的損害は許されぬとの近代的な軍隊、兵器思想の持ち主だった。
伊地知参謀長は頑固に自説を変えず、部下の幕僚や回りの進言にも耳を貸さず正面攻撃から二〇三高地への攻撃を変えなかった。犠牲者は増える一方だった。
しかし、当時の陸軍の指揮、命令のシステムにおいて他から参謀長をさしおいて司令官への直言はできなかったのである。
今のようなインターネットのグローバルなスピード時代と違い、日露戦争当時の大本営(東京)と満州・旅順(中国)との通信手段はまことに幼稚なもの。国運をかけた戦争遂行の最高指揮官の連絡、命令、報告などの通信・コミュニケーションには時間がかかり、情報通信には困難を極めた。
満州軍総司令部と大本営間の電報では早いと一時間で到着したが、遅いと九時間半もかかった。ベルリンからの「露軍攻勢転移の情報」との電報が三時間三五分でくるのに比べれば、総司令部と大本営間の通信連絡は海底電線を通したものなのでいかに不安定で時間がかかったかわかる。
この電信回線によって、軍事通信のかたわら、新聞・通信社記事をふくむ一般公衆電報も取り扱ったので、内外の新聞、通信社とのトラブルもいろいろ発生するのもやむをえない。
(続く)
関連記事
-
-
終戦70年・日本敗戦史(101)再録「太平洋戦争下の新聞メディア」60年目の検証⓶『新聞も兵器なり』の信念を堅持し報道報国に挺身した新聞>
終戦70年・日本敗戦史(101) 太平洋戦争下の新聞メディア―60年目の検証⓶ …
-
-
明治150年歴史の再検証『世界史を変えた北清事変①』-『ドイツ、ロシア、フランス、イギリスらの中国侵略に民衆が立ち上がった義和団事件が勃発』★『連合軍の要請で出兵した日本軍が大活躍、北清事変勝利の原動力となった』
明治150年歴史の再検証 『世界史を変えた北清事変①』 義和団事件の発生 18 …
-
-
速報「日本のメルトダウン」(519)東京都知事選に脱原発めざし「細川・小泉元首相タッグコンビ」が出馬か、大歓迎する。
速報「日本のメルトダウン」(519) ★☆ …
-
-
“Lecture on Japanese Political History for Generation Z” ★ “Fifty-year collusion between the former Unification Church and the Liberal Democratic Party as seen from the perspective of foreign newspapers such as the New York Times” ★ “Using pseudo-religion and anti-communist movement as signboards, it is practically an anti-Japanese inspirational rip-off” Business” to form a “conglomerate” (giant global enterprise)”
2022年9月10日 『Z世代のための日本政治史講座』★『ニューヨークタイムズな …
-
-
日本メルトダウン脱出法(735)『日本の「受け身外交」では世界と渡り合えない–東アジアの新秩序を築くにはどうすべきか』●「世界一、寄付しない日本人が損していること カリスマ投資家がやさしく教える経済の本質」
日本メルトダウン脱出法(735) 日本の「受け身外交」では世界と渡り合えない& …
-
-
日本メルトダウン脱出法(856)「トランプ圧勝は確実、しかし本選はヒラリーの理由党内の結束力に大きな差、経済の安定も強い追い風に』●『中国の「欺瞞」外交にオバマもいよいよ我慢の限界ー口では協調を求め、裏では米国に大胆に挑戦(古森義久)』●『人工知能が囲碁トップ棋士に勝つ時代に考える「知的職業」の未来』
日本メルトダウン脱出法(856) トランプ圧勝は確実、しかし本選はヒラリーの理由 …
-
-
速報(101)『日本のメルトダウン』『 海江田経産相から直接電話があった』『今後解放されることはないセシウム汚染』
速報(101)『日本のメルトダウン』 ●(小出裕章動画 …
-
-
★10 『F国際ビジネスマンのワールド・ カメラ・ウオッチ(176)』 2016/5『ポーランド・ワルシャワ途中下車 ~ワルシャワ中央駅周辺』②観光客誘致に地道に取組み『静かで落ち着いた街並み』②
★10 『F国際ビジネスマンのワールド・ カメラ・ウオッチ(176)』 201 …
-
-
『オンライン現代史講座/日本最大のク―デター2・26事件はなぜ起こったのか』★『2・26事件(1936年/昭和11年)は東北大凶作(昭和6ー9年と連続、100万人が飢餓に苦しむ)が引き金となった』(谷川健一(民俗学者)』
『2・26事件(1936年/昭和11年)は東北大凶作(昭和6ー9年と連続、100 …
-
-
中国の沙漠をよみがえらせた奇跡の男・遠山正瑛
世界が尊敬した日本人(50) 中国の沙漠をよみがえらせた奇跡の男・ …