『リーダーシップの日本近現代史』(183)記事再録/★「英タイムズ」「ニューヨーク・タイムズ」など外国紙が報道した「日韓併合への道』⑯「伊藤博文統監はどう行動したか」(小松緑『明治史実外交秘話』昭和2年刊)①
/記事再録
★「伊藤博文統監はどう行動したか」(小松緑『明治史實外交秘話』中外商業新報社, 昭和2年刊)より)①
これまで、外国紙の報道で「日韓併合への道」をみてきたが、今度は日本側の当事者・小松緑が記録した、伊藤博文ら日本側の対応について、見ていくことにする。本書は小松が「桜雲閣主人」のペンネームで書いた中外商業新報(現・日経新聞)に連載した『明治史実外交秘話』中外商業新報社, 1927(昭和2)からの転載である。日韓併合への道の経過と伊藤統監の言動を率直に述べている歴史資料である。
小松緑
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E7%B7%91
小松緑は1865(慶応元)年9月7日生。エール及プリンストン大で法学博士の学位を受ける。帰朝後外務省に入り、陸奥宗光に認められ、外務省翻訳官として明治29年、外交界に入り、米国、シャム、遼東守備軍司令部等に勤務。その後、伊藤博文に認められその秘書的な役に。伊藤博文が韓国統監となったのに随行して、明治39年5月韓国統監府書記官に任命され外務部長となり、次いで総督府外事局長・中樞院書記官長に、日韓併合の衝に当った。
大正5年退官,以後著述に従事。昭和4年のジュネーブ国際労働会議に資本家代表の顧問として出席した。『伊藤博文伝』の伝記の主要執筆者で、「明治外交秘話」「伊藤公直話」『日韓併合の裏面』』等がある。昭和17年(1942)歿、78才。
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保護制度の創設
外相・小村寿太郎はポーツマス講和会議から帰るとすぐにまた北京に出かけた。日露講和条約中、中国の承認を得ることとなっていた主なるものは、旅順、大連の租借地、長春ー大連鉄道をロシアから日本に誤り受ける二件であった。
これは単に主を代えただけで、中国に敵って何等の痛痒を感じない事柄であったから、中国は難なくそれを承諾した。又ロシア軍隊の占領していた満洲全部を挙げて、清国(中国)の行政庁に還付する規定や、清国が満州の商工業を発達するために列国に共通する施設をなす場合に、日露両国においてこれを妨げてはいけないとの規定などは、中国の利益になるものであるから、もとより異存のあるはずがなかったので、小村の北京における談判はすべて円満に納まった。
しかし日本の重視していたのは中国問題ではなく、韓国問題であった。それが日清戦争開戦の動機であり、また日露戦争開戦の真因であった。
日露条約で、ロシアは日本が韓国において政治上、軍事上及び経済上の卓越なる利益を有することを承認し、かつ日本政府が韓国において必要と認むる指導保護、管理の措置をとるに当り、これを阻害し、またはこれに干渉せざることを約したし、英国はすでに日英同盟において日本の対韓処分権を認めたし、また米国は別段の協約をしなかったが、ルーズヴェルト大統領は日露戦争の結果、韓国が日本の支配に帰したことを繰返し公言していたのであるから、もはや韓国の処分について故障を容れる国は1つもなくなった。
ここにおいて日露講和後に、第一着にわが政府のとるべき方針は、国際紛争の禍根たる韓国をわが保護の下に置くことであった。それには、韓国と条約を結んで新制度を扶植することにせねばならぬ。そこで初物食いの伊藤がまたもや飛出すことになった。
明治38年10月2日に、枢密院議長伊藤博文は、日韓保護条約を結ぶべく全権大使に任ぜられた。この時駐韓公使は林権助であったが、談判は主として伊藤と韓国外務大臣朴斉純との間で行われた。伊藤は十一月九日に京城(ソウル)に到着し、同月十七日に条約に調印した。この条約で、日本保護制度の創設において韓国の外交を全部担任することになり、京城に統監を置いて、韓国の対外関係事務を監督指導することとし、なお従来日本の領事官が駐在していた地方、その他必要の地方に理事官を配置し、理事官は統監の指導の下に従来領事官に属した一切の職権を執行することとなった。
かくて韓国の外交権の日本に移ったので、外国の駐韓公使、領事はことごとく本国に引揚げることになった。
伊藤がこの保護条約を結んで後、まさに帰国しようとして、光武帝(後の李大王) に謁見した時に、辞令に巧な光武帝は、伊藤に向って、『今、卿の髭を見るに、黒白相半ばしている。その白毛は
恐らく日本皇帝陛下の輔弼として蹇々匪躬(けんけんひきゅう)=自分の身をかえりみないで君主に忠節をつくすこと=の節を尽した徴標であろう。残る黒毛が白化するまで、朕のために啓沃(けいよく)=心に思うことを隠さずに主君に申し上げること=の労をいたされよ。』と語られ、言葉を改めて、
『朕は卿が統監として再び京城に来られることを望む。卿、老躯の故を以て辞してはならぬ。』と念を推された。
これは必ずしも一片のお世辞でもなかったろう。伊藤の威望と温容とを慕って、衷心からその再来を願われたに相違ない。伊藤もその誠意に感じて、
『臣の一身は素より我が君主に捧げたものであります。もし勅命下らば必ず尊慮に副い奉りましょう。』 と答えて引下ったが、伊藤は同じ年の12月21日にいよいよ統監に任命され、翌年2月1日に京城に赴任し、統監府の事務を開始した。
著者は、韓国の外交を担任されることになった伊藤統監を助けるべく外務省から統監府に移った。それから引続いて10年間も朝鮮で奔走することになろうとは夢にも思わなかった。
朝鮮に美人が少い訳
今の朝鮮を見ただけの人には、併合前の実状は想像することさえもむずかしいであろう。野山の荒れ果てていたことは言わずがなであるが、京城の町中でさえも、家という家はみんな頭のつかえそうな低い屋根に泥塗の荒壁という有様。
それに道路が狭い上に石塊出没して凹凸状を成し、その傍の土溝(どぶ)には垂れ流しの糞尿が縦横に溢れ、汚臭紛々として鼻を衝き、息もつけない。この穢路(わいろ)の奥にあった一軒の日本家が著者の仮住居であった。
そこへ統監府から時時、書類を持って往復する小使でさえ、通るたんびに命が縮まるといっていた位だから、その非衛生的穢状が察せられるであろう。
ある折りに、伊藤統監にこの話をして見たが、風光明媚な南山の高台に改築きれた統監邸に納まっていた伊藤は、『田舎ならばいざ知らず、ここは痩せても枯れても王城の地だ。そんなところがあるものか。』
といって本当にしなかった。 次の日曜日に、著者の家に同僚が集まって碁会を催した。当時はそんな事より外に慰安の途がなかったのだ。すると突然、伊藤統監が見物に来られるという電話がかかった。伊藤はザル碁の方だが、負け嫌いで勝つまでは何番でもやるという好き者であった。
集まった人々の中には、統監がああいう汚い途を通られては大変だから断るがよかろうという者もあったが、著者は、いや途の汚い事なら先日詳しく話してあるからかまわないといって、そのままにして置いた。
程なく伊藤は陸軍武官・村田中将(恂)、海軍武官・宮岡少将(直記)の両人を連れてやって来た。挨拶をする間もなく、
いきなり、
『なんだ、この道の汚いことは!』と怒鳴りつける。
著者は、『先日それを申上げたが、御信用にならなかった。ただ今拙者の告白の偽りならぬことを御諒解になったでしょう。』
『なんでこんな所に住んでいるのだ。』
『外に家がないからです。拙者ばかりでなく、閣下の下僚は皆かくの如き非衛生極まる晒巷(ろうこう)に屈居して、あたら命を
縮むべく余儀なくされているのであります。』
伊藤の機嫌はますます悪くなったが、結果は吾々に取って大に善かった。
『すぐに官舎を作らせる。』
それから五六ヵ月間に、十二軒の官舎が南山の空地に急造された。今度は山伝いに五六分間で統監邸に行けるようになったので、著者は毎晩九時頃から出かけて、伊藤の寝酒の相手や碁の相手をした。
村田は大酒飲みな上にお付武官という職掌がらで伊藤の側を離れなかった。時々明石元二郎(当時の憲兵司令官)が宋秉畯(そうへいしゅん)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E7%A7%89%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%B3
を連れて来ては対韓策などにロを出してよく伊藤に叱られたものだ。
伊藤が酒を飲む時に政治談は大禁物。彼れは若い女に酌をさせながら、手柄話や懐旧談に耽って、一日の労を忘れるのであった。村田と著者とがいつも聴き役を勤めていた。
ある晩、村田が、『文禄の役に宇喜多秀家が元帥として京城にいた時、
道巡撫の娘をもらって側室にしたという話がありますが、統監も朝鮮美人を御召抱になってはどうです。』
と何気なく戯談を言い出した。伊藤はそれを聞いて、『今日の朝鮮には立沢な男は多いが、美人は少いようだ。』
と言いながら丁度そこへ案内されて来た宋秉畯に向って、
『面白い話が出た。どうじゃ、おぬしは朝鮮に美人の少い理由を知っているか。支那(中国)には西施、王昭君、楊貴妃などという絶世の美人が多かったし、今でも舞妓などの中には綺麗なのがいくらもいる。朝鮮では余り美人の話を聞かないし、実物を見たこともない。どうも不思議じゃ。』
伊藤がこんな事を熱心に訊き出したのは、宋秉畯が朝鮮にも美人がいますといって、第二の江原道巡撫の娘でも周旋するに違いないと思ったからであろう。
つづく
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