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日本リーダーパワー史③・女に殺された初代総理大臣伊藤博文

   

 

女に殺された伊藤博文

                                                  
                                              

                                                   前坂俊之

 
                                       
明治から昭和までの150年の日本の偉人の中で、もっとも派手に女性と遊んだ人物はだれかと問われれば文句なしに伊藤博文である。

彼こそプレイボーイ、女好き、女たらし、絶倫男、日本一の不倫男だった。明治の新聞、雑誌、絵入り新聞などで、伊藤の女性関係、連日の芸者遊びがその三面記事をにぎわし、「博文のいくところ、必ず女あり」と言われた。

東京ではもちろん、地方に遊説した場合でも「政治は夜、動かされる」との言葉通り、夜な夜な大臣連中は新橋、赤坂、全国各地の料亭で芸者をあげて政治談議、密談を繰り返し、気に入った芸者を水揚げする、連日そのゴシップを新聞は派手に報道するといった具合で、隠さずに派手に遊びまわる伊藤の夜の生活がマスコミの格好のえじきにされた。

彼のこの好色ぶりは、明治天皇の耳にまで達した。そこで天皇が「少し、つつしんではどうか」と仰せられると、博文はけろりとして、
「博文をとやかく申す連中の中には、ひそかに囲い者など置いている者もいますが、博文は公許の芸人どもを公然とよぶまでです」
彼は天皇にたいして居直り、芸者遊びが恥ずべき行為でないと主張しているのである。この種の博文の逸話は、世間に伝わるのが早かった。同じ長州出身の山県有朋や井上馨などにくらべる世人が好感をもって迎えたのは、こういった彼の開放的な態度による。
昔からスケールの大きな好色漢に悪人はいないといわれる。こういった人物は、悪事をはたらいても、どこか抜けたところがあるからだ。
 
〔絶倫ものがたり〕
 
博文の妻梅子は、なかなかよくできた女だったといわれた。彼女は馬関稲荷町の置き屋「いろは」の養女で、芸妓時代の名をお梅といった。
 博文には、英国留学前に結婚したおすみという女がいたが、帰国してからそっちには寄りつかず、もっぱらお梅のところにいた。のちにおすみとは正式に離婚して、お梅を正妻にし、梅子と名のらせた。このころは博文の先輩である木戸をはじめとして、陸奥宗光が横浜の芸者を妻にしたりなど、花柳界の出身者を妻に迎える者が多かった。
 梅子は博文とのあいだに二男二女をもうけ、賢夫人のほまれが高かった。彼が思いきって女道楽できたのは、梅子の内助のおかげだったともいわれる。
 梅子は、博文の女遊びについては、一言も文句をいわなかった。それどころか、大磯の「浪閣」に博文の馴染みの芸者がくると、
「御前様は公務でたいへん忙しい方だから、あなたにきてもらって慰めてもらうのが一番のお気休めになるのよ。御前様はあなたをご贔屓(ごひいき)なんだから、ときどききて慰めてくださいね」といって、帰るときには必ず梅子がでてきて、反物などの土産を持たせた。芸者出身で、なにもかも心得ていたのであろう。博文も、これには内心じくじたるものがあったらしく、
「あなたの一番頭の上がらぬ人はどなたですか」
 ときかれると、“女房どの”だと答えている。しかし、それは表向きだけで、実際には芸者を自宅によんで夜伽(よとぎ)=セックスのこと=をさせ、女房に土産物の心配をさせていたのである。現代の奥さんたちがきいたら、なんというだろうか。
 
その点、博文の遊びなどはまことに豪快である。しかも女は1人だけではなく、ときとすると二人もよぶことがあった。「田中家」の女将千穂は、それをつぎのようにのべている。
浪閣」へは、大阪の芸者で文公という女とよく一緒にいった。その文公と二人でおっとめをしたが、夜はたいていかわるがわるご用をつとめた。
「今夜はおのしはさがってよい」といわれると、隣室で休むのだ。そのうち、博文の枕もとにおいてある鈴がチリリーンと鳴る。用が終わったからお前もそばへこいという鈴である。博文の絶倫ぶりには、おどろかすものがあった。        
 明治初年、横浜富貴楼は一時政治の中心地となったことがある。伊藤博文、井上馨、山田顕義などが富貴楼に集まったからである。これは、なにかとけむたい大先輩の西郷や大久保などの目をさけ、岩倉、三条の非難を逃れる意味もあった。
 
 このとき博文が富貴楼で愛した女は、おびただしい数にのぼった。河内屋のかの子、宝木のちゃら、鈴木家の小つぎ、武田家寅吉、深川屋おしゅん、山本屋駒吉、鈴木屋のおなほなど、名前のわかる女だけで七、八名、無名のものまでいれると、たいへんな数になった。
 
<伊藤と妻梅子の関係>
 
梅子は、嘉永元年(一八四八)生まれ。伊藤博文に出会ったのは、彼女が小梅の名で下関稲荷町の置屋「いろは」に芸妓として出ていたときだった。博文は小梅がたちまち気に入ったが、彼にはすでに吉田松陰の松下村塾で同門の入江九一の妹すみを、文久三年(一八六三)に妻にしていた。
 伊藤は慶応二年二八六六)にはこのすみを離別してすぐ小梅を妻に迎えて、明治以降急速に出世階段を駆け上がるのだが、小梅こと梅子の方も高官夫人として努力を重ねている。もともと字など書けなかったのに、当代一流の阪正臣の弟子になって練習し、夫の代筆をするほど上達した。皇后と歌のやりとりもできるようになった。英語もかなりこなせて手紙くらいは書けたらしい。元来、聡明なうえに非常な努力家だったのだ。
 梅子は伊藤との間に七人の子を産んだが、次々に天折してしまい生子だけが育った。伊藤にとっても自慢の子でどこに行くにも連れてまわった。後に生子は、梅子の眼鏡にかなった末松謙澄と結婚する。結局、実子はこの生子だけだったが、家庭には、伊藤が他の女に生ませた男の子や女の子が数人いた。
 
<鹿鳴館は伊藤が作り、ここで女性スキャンダルが続発した>
 
 鹿鳴館の最初の夜会は、明治十六年十一月二十八日に行われた。夜会の最大のイベントはダンスである。このとき、踊れる女性はごくわずかだった。明治政府最大の実力者、参議伊藤博文の夫人梅子もまだ踊れなかった。
 ところが、翌十七年から毎日曜日に行われることになった「舞踏練習会」では、この梅子が積極的な役割を果たしていた。
「西洋踊りは猥褻で困り切りたる馬鹿踊りなり」(『朝野新聞』)などと世間では悪評さくさくだったダンスの練習に、尻込みする高官夫人を七十名も引っ張りだしたのは、梅子の説得によるものであった。彼女はまた誰よりも粋に着こなせる着物を脱いで、率先して馴れない洋装をまとった。夫の伊藤博文の政策にそれが必要ならば、なんでもやってのけた女なのである。
 
伊藤梅子は鹿鳴館時代は三十代のなかばで、女盛りであり、気品もあり、いかにも勝気そうに見える。梅子に関しては、「芸者上がりとは思えないほど」という言い方がよくされるけれど、「芸者上がり」だったからこそ、日本の女性にとって何から何まで初めてのヨーロッパ風社交界を、トップレディとしてそつなく運営できたのだ。芸者は、もともと座敷を取りもつこと、つまりは社交のプロであるからである。
子供を梅子に押しっけて、夫の伊藤博文はたえまなく浮名を流していた。足軽出身の伊藤は、豊臣秀吉と同じような心理からか、とくに上流夫人との浮気を好んだ。下田歌子との浮気も世間を騒がせたが、とりわけ有名なのは、戸田極子(とだ・きわこ)とのゴシップである。
 梅子は岩倉具視の娘で、夫は旧美濃大垣十万石の藩主戸田氏共だが、伊藤と極子の関係が取り沙汰されているさなか、一介の公使館参事官にすぎなかった氏共(うじたか)が、突然、オーストリア駐在全権公使に出世したのだから、世間が騒ぐのも無理はない。その翌年には、後に女優第一号となる川上貞奴こと新橋の雛妓小奴の一本立ちする際のスポンサーになっている。
 
 梅子は夫の浮気に関しては一切口をださなかった。
 明治四十二年、夫がハルビン駅頭で狙撃されて死んだとき、知らせを聞いた梅子は、涙一つこぼさず、「国のため光をそへてゆきましし 君とし思ヘどかなしかりけり」と詠んだ。「国のため」と思って、夫の浮気に耐え、明治の初代トップレディとして生き抜いてた梅子は大正十三年に亡くなった。  
 

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