『リーダーシップの日本近現代史]』(21)記事再録/『山岡鉄舟の国難突破力⑤『金も名誉も命もいらぬ人でなければ天下の偉業は達成できぬ』
日本リーダーパワー史(166)
『江戸を戦火から守った山岡鉄舟の国難突破力⑤
『金も名誉も命もいらぬ人でなければ天下の偉業は達成できぬ』
前坂 俊之(ジャーナリスト)
山岡鉄舟―西郷隆盛との対決
幕末に江戸城の無血開場を実現し、江戸の町を戦乱から救った恩人であり、勝海舟、高橋泥舟と並んで「幕末の三舟」と呼ばれている。15の歳、北辰一刀流の千葉周作に剣、槍などを学んでその後、無刀流を開創した剣の達人。
188センチ、体重105キロをこすという西郷以上の堂々たる偉丈夫。幕府の剣術師範や浪士組(新撰組の前身)取締役をつとめて、このあとに精鋭隊を率いて最後の将軍・徳川慶喜の身辺警護にあたっていた。
攻めのぼってくる官軍にたいして、幕府側は恭順の意向を示し、静岡まできた官軍の総大将・西郷隆盛に和戦の条件を話し合う使者を立てることになった。幕府全権陸軍総裁・勝海舟は一番「肚のすわった」鉄舟を派遣した。
鉄舟は1868年(慶応4年)三月九日、駿府(静岡)伝馬町で西郷隆盛に会い海舟の手紙をわたして、両雄相まみえた。
降伏条件として西郷が「江戸城の明渡し」、「城中の人数を向島に移すこと」、「軍艦、兵器を渡すこと」とともに、「徳川慶喜を備前藩(岡山)へあずける」との条件を示したが、鉄舟は慶喜の備前藩預かり一件だけは強行に反対、その眼力の殺気と気魄におされて、大西郷も山岡に一歩譲った。江戸城の無血開場の基本合意はここになったのである。
西郷は山岡を評して「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛した。このあと、正式の勝と西郷の江戸城開城の会談が同月13日、14日に行われ、15日に予定されていた総攻撃は回避され、江戸住民150万人は戦火から免れたのである。日本の近代歴史上に残る英雄たちの腹芸であり、『名場面』であり、このとき、歴史が転換したのである。
山岡は剣と同時に禅の達人であった
ある時、鉄舟は当代きっての落語家・三遊亭円朝に「桃太郎の昔話を一席聴かしてくれ」といった。円朝は得意の1席をぶったところ鉄舟は「お前は舌で語るから肝心の桃太郎が死んでいる」と酷評された。
その後、円朝は鉄舟を訪ね、教えを請うと、「今ごろの芸人はすぐ名人気取りになる。昔はそうではない。始終自分の芸を問うて修行した。しかし、どんなに修行しても、落語家ならばその舌をなくさん限り本心は満足せん。俳優ならその体をなくさなければダメだ。」という。円朝が直ちに修禅を希望し、鉄舟は「趙州無字」の公案を授けた。
それから二年間、円朝はさんざん苦心研鑽し、悟るところがあって鉄舟に参見、桃太郎を演じた。鉄舟は、「今日の桃太郎は生きている」とうなずきのちに鉄舟は、円朝に「無舌の居士号」を与えた。
鉄舟はすべての生命を大切にした。虫やガにいたるまでも殺生を嫌い追いはらっていた。
明治初年ころ、東京市内で野良犬を捕獲してことごとく撲殺したことがあった。これを聞いた鉄舟は野良犬を見つけさせ、自分の名札をつけて飼犬とした。鉄舟の家は野良犬だらけとなり、この犬のたちのえさ代だけでも、実に一日三斗以上にもなった。
鉄舟は訪ねてくるものには、実に懇切に対応した。玄関番が面会を謝絶したりした場合は叱って客を呼び戻させた。会見する時は、誰が相手でも額を畳につけてていねいにあいさつした。
たくさんの訪問者があり、昼間から夜中まで、場合には深夜の二時三時までいた。なぜなら、鉄舟と対面すると、うちとけて自然と長居になるのだった。
鉄舟は客人と話していて、「ちょっとごめんこうむります」といって奥の間に行き、横になると、すぐに、客室まで響いてくる大いびきで熟睡。三十分ほどで目を覚まして、「失礼しました」と再び談話を続けた。
禅家の遷化(死に方)には3つ。座脱(坐禅を組んだまま死ぬ)、
立亡(杖をついたまま死ぬ)、
火定(かじょう、火中に死ぬ)である。
立亡(杖をついたまま死ぬ)、
火定(かじょう、火中に死ぬ)である。
鉄舟は晩年は胃ガンを病んでいた。明治21年七月十七日夕、風呂から上がると夫人に、「白い衣を持ってこい」と命じ、白衣を着て、皇居に向かって一礼して、蒲団に入った。その夜,ガンが破裂して危篤状態に陥った。
親族門人知人が二百人ばかり馳せ参じて、鉄舟の病床をとり囲んだ。勝海舟が駆けつけ、「オレを残して先に逝くのか。ひとり味をやるではないか」「もはや用事がすんだから、お先にゴメンこうむる」といった。
同夜、鉄舟は、「みんなさぞ退屈であろう。俺も退屈だから」といって三遊亭円朝に命じて落語をやらせた。円朝も満座の雰囲気に打たれ、涙声で落語をやると、鉄舟はフトンにもたれ微笑ながら聞いていた。
十九日午前九時、弟子に向かって「しばらく人払いをしてくれんか。昼寝の邪魔になるから」といって、一同を別室に退席させると、鉄舟はおもむろに身を起こして蒲団を離れると、皇居に向かって「結跏趺坐」=(けっかふざ)は、仏教の瞑想する際の座法)した。しばらくすると右手を差し出したので,側にいたものがウチワを渡した。鉄舟は目をつむって、そのウチワの柄で字を書いていて果てた。
関連記事
-
-
『決定版・20世紀/世界が尊敬した日本人』ー20世紀で世界で最高にもてた日本人とは『「ハリウッドを制したイケメンNo.1, 『ハリウッドの王者』と謳われた早川雪洲』①
決定版・20世紀/世界が尊敬した日本人 20世紀で世界で最高にもてた日本人とは誰 …
-
-
日本メルトダウン脱出法(874)『「伊勢志摩」が世界経済浮沈の鍵を握っている ー 先進国は財政出動に同調してくれるのか』●『東京五輪の「盛り下がりムード」は食い止められるのか?』●『過去最大の外債爆買いでも進まぬ円安、為替ヘッジが黒田日銀の妨げ』『大手企業志向が深く根付いている日本に「起業エコシステム」は根付くのか』
日本メルトダウン脱出法(874) 「伊勢志摩」が世界経済浮沈の鍵を …
-
-
『Z世代のための日本政治・大正史講座』★『尾崎咢堂の語る明治・大正の首相のリーダーシップ・外交失敗史⑤>』★『加藤高明(外相、首相)―事務官上りが役に立たぬ例』★『志の高い政治理念集団としての政党』が日本にはない。派閥グループ集団のみ、これが国が崩壊していく原因』
2012/03/17   …
-
-
『F国際ビジネスマンのワールド・ニュース・ウオッチ(129)』「大東亜戦争の真実を知る最上のテキストは藤原彰氏の著作です
『F国際ビジネスマンのワールド・ニュース・ウオッチ(129)』 「 …
-
-
『オンライン/明治外交軍事史/講座』★『森部真由美・同顕彰会著「威風凛々烈士鐘崎三郎」(花乱社』 の背景を読む➄』日中友好の創始者・岸田吟香伝②『 楽善堂(上海)にアジア解放の志士が集結』★『漢口楽善堂の二階の一室の壁に「我堂の目的は、東洋永遠の平和を確立し、世界人類を救済するにあり、その第一着手として支那(中国)改造を期す」と大書』
2013/02/19『リーダーシップの日 …
-
-
『リーダーシップの世界日本近現代史』(284)★『医師・塩谷信男(105歳)の超健康力―「正心調息法」で誰でも100歳まで生きられる』★『 「生れるということは「生きる(息きをすること)、これが人間の最初であり、水を飲まなくても飯を食わなくても、多少は生きられる。ところが息が止まるとと生きていけない。息を引き取り臨終となる。これが根本!」』
2015年3月29日/百歳学入門(109)記事再録 医師・塩谷信男 …
-
-
日本リーダーパワー史(501)勝海舟の外交突破力を見習え③各国の貧富強弱により判断せず、公平無私の眼でみよ③
日本リーダーパワー史(501) いま米国 …
-
-
『「ロシア紙」からみた「日中韓150年戦争史」(66)『(日清戦争開戦2ヵ月後―「新たな世界的強国の誕生」『ノーヴォエ・ヴレーミャ』
『「申報」『外紙」からみた「日中韓150年戦争史」 日 …
-
-
日本風狂人伝(23) 日本『バガボンド』ー永井荷風散人とひそやかに野垂れ死に ③
日本『バガボンド』ー永井荷風散人とひそやかに野垂れ死に ③前坂 俊之 …