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日中近代史の復習問題/記事再録/日本リーダーパワー史(423)ー『現在進行中の米中貿易協議、米朝首脳会談』の先駆的ケーススタディ―」★『日中異文化摩擦―中国皇帝の謁見に「三跪九叩頭の礼」を求めて各国と対立』★『困難な日中外交を最初に切り開いた副島種臣外務卿(外相)の外交力』★『英「タイムズ」は「日中の異文化対応」を比較し、中国の排他性に対して維新後の日本の革新性とその発展を高く評価した』

      2019/03/17

日本リーダーパワー史(423)2015/01/01『各国新聞からみた東アジア日中韓150年対立史⑨』

『日中韓150年対立・戦争史を―英「タイムズ」米「ニューヨーク・タイムズ」など外国紙で読む、中国が侵略という「台湾出兵」をどう報道したのか②

 

<以下は2013/10/13 の記事>

最近の日中韓の対立のコジレをみていると、日中韓の150年戦争史の既視感(デジャブ)がよみがえります。あと5年(2018)後は明治維新(1868年)からちょうど150年目に当たります。この間の三国関係を振り返ると、過去100年以上は対立、紛争、戦争の歴史であり、仲良くしていた時期はこの最近3,40年ほどの短いものであり、単に「近隣関係、近隣外交は仲良くしなければ」という建前論からの「お人よし外交」ではなく、その対立、戦争のとなった原因までさかのぼって調べなければ、何重にもモツレた歴史のネジレを解かなければ真の善隣友好関係は築くことができません。

前坂 俊之(ジャーナリスト)

 

根本原因は当時の「国際秩序」(万国法、国際法)対「中華思想」の対立です。

明治維新で開国した日本はまず近隣外交に乗り出し、韓国、中国との通商条約を求めて交渉をはじめます。明治元年(1868)11月、韓国(当時は朝鮮王朝、現在の北朝鮮を含む)に修好を求めたが、この外交国書に「天皇」の「皇」の文字、「奉勅」などが入っていたのに朝鮮側は驚き国書を突き返した。

皇は中国皇帝にしか使われず、天皇が朝鮮国王の上に立つことを意味し、朝鮮支配の野望があると誤解した。日本へは秀吉の文禄・慶長の役(朝鮮では壬辰倭乱、丁酉倭乱、1592~98年)以来の恨みがあり、朝鮮国王との面会も文書も突っ返された。何度も面会拒絶、交渉拒否が繰り返され、このため明治8年2月、明治政府は外務参事官2人を京城に派遣したが、またもや参内を許さず、その洋服姿を拒否したので、書面を侍従に投げつけて帰国した。日本側は怒りを募らせた。一方、中国側との交渉も同じ状態で、一向にすすまなかった。

この対立、すれ違いの背景には朝鮮とその宗主国であった中華帝国は西欧の国際法とは異なる独自の「「中華思想の華夷序列・冊封体制さくほうたいせい=事大朝貢体制」がある。天下の中心は中華であり、周辺国は中華の徳を慕って朝貢する。中華との距離の近い朝鮮は「小中華」で遠く離れたベトナム、日本などを夷狭(野蛮人)、ヨーロッパ人は(南の野蛮人、南蛮人)と蔑んでいたのです。

 朝鮮国王・李太王の実父で実権を握る大院君はこの中華思想により「事大主義」に凝り固まって日本を蔑視、中国ともども日本が鎖国を解いたのは中華秩序への挑戦とみていたのです。

この「中華思想」について、1876年(明治9)に。ドイツ出身の医者で「お雇い外国人」として東大医学部(当時は東京医学校)教授に招かれたエルヴィン・フォン・ベルツ(1849―1913年)はこう書いている。

『中国の国家運営の不変原則は、属国の内政への干渉は必要最小限にとどめ、土着の王が中国を宗主国として認め、朝貢の義務を怠らぬ限り、その自主性は犯さないというものであった。

幕僚を従えた総督の役目は、反乱や離反の兆候を監視することにある。この原則は今日でもチベットやモンゴルに適用されている。それは英国がインドで英国総督の監視下、土侯国の統治を土着の君主に任せているのと同じ原理である。

中国は、新たに接触した異民族は必ずや中国のすぐれた文化に屈するものと信じて疑わなかった。実際、過去三千年の歴史を通じて、どの近隣民族も例外なくその通りになった。フン族、タタ-ル族、モンゴル人、満州人など異民族の王朝に支配されることが多かった。しかしその異民族も一世代後には、ことごとく中国に同化した。文化、宗教、国家制度、世界観などを中国から受容しながら、政治的に中国に屈しなかった日本は唯一の例外である。それを可能にしたのは地理的な位置と民族の勇敢さである』(「ベルツ日本文化論 東海大学出版会 2001年刊)

つまり、同文同種で、一衣帯水の日中関係にも歴史的、思想的な深い断絶が内含されていたのです。

  • 異文化摩擦―中国皇帝の謁見に「三跪九叩頭の礼」求めて各国と対立

 アヘン戦争に敗れる以前の清国は、モンゴルやシベリア東部まで治め、自国を世界の中心とみる「天朝上国」「中華思想」の世界観に浸り切っていた。古代の儒教思想を堅持して儀礼を重んじ、メンツを最重視して、外国からの使節団が皇帝に謁見する場合も「三跪九叩頭の礼」(さんききゅうこうとうのれい、これを計3回繰り返すので、合計9回、「手を地面につけ、額を地面に打ち付ける」こと)というあいさつを強制した。属国扱いの李子朝鮮、琉球王朝は朝貢ごとに、謁見してはこれを繰り返していた。

 

1793年(寛政5年、アヘン戦争より47年前)、英国の外交官が謁見した際、属国扱いして「三脆九叩」の礼を要求し、英外交官はこれを拒否して結局、条約締結はできなかった。

アヘン戦争の敗北により少し柔軟になり、1859年(安政5)アメリカ使節に対して「一跪三叩」にマケたが、アメリカ使節はカンカンに怒り、謁見は拒否した。その後も、各国と何度も謁見問題で対立を繰り返しています。

ちなみに、日本の明治天皇は謁見は西欧式の立式に改め、積極的に会見し、古式の衣装装束も西欧スタイルに一新しています。清国は日本を漢字、儒教文化を伝えたのに朝貢をしない礼節を欠いた野蛮国としてヨーロッパ以下に見下していたのに、さらに明治維新で「西欧文化のモノマネ」をしたこと「中華への挑戦」として一層反感を強めたのです。

 

この日本と中国のパーセプションギャップ(認識ギャップ、思い違い)に関して、1870(明治3)10月17日付『ニューヨーク・タイムズ』は『アジア的政策』でこう書いています。

「明治維新後の日本からの外交使節の派遣について「属国の使節団として皇帝に取り継ぐのである。10年ほど以前は.相互の孤立は制度として確立していたし,現在でも中国はまだ日本を下劣の,属国でしかるべき国とみなしている。中国が,対等の力を持っと認める必要のない政府と条約を結ぶという考えは,全く非常識に思える。中国が,日本と中国国民とのより親密な接触をもたらすような動きを承諾するようなことは,ありえないだろう。」

  • 困難な日中外交を切り開いたのが副島種臣外務卿(外相)の外交力。

この困難な相互認識ギャップ、偏見を克復して日中外交を最初に切り開いたのが副島種臣(参議、外務卿)です。明治3年8月に、明治政府は清国に対し修好を求めたが、拒絶されます。しかし、副島は粘り強く清朝実力者の李鴻章らと交渉して日清修好条規にこぎつけたのです。
その第一条には「両国は和誼を厚くし、両国の領土は互いに礼を以て扱い、いささかも侵越することなく」と謳った平等条約で、治外法権と領事裁判権を相互に承認した画期的なものでした。

1873年(明治6)4月30日、副島全権大使は天津で李鴻章と日清修好条規の批准書を交換、5月7日には北京へ乗り込み皇帝と各国の公使との懸案になっていた謁見問題を見事に解決して、そのタフネゴシエーターぶりに各国は驚嘆したといわれます。

 

その交渉過程を1873年(明治6)7月21日中国紙「申報」は「東西各国公使朝見の儀」題して詳細に報じています。それを要約するとー

「副島は到着するとすぐヨーロッパ諸国の公使たちと協議し、その推薦をとりつけ総理通商衛門に「皇帝に謁見したい」と単独で申し込んだ。総理衝門は拒否を続けて、謁見延期が2ヵ月に及んだ。副島は「5回ではなく3回●(手へんに共の旧漢字)手の礼をもって謁見の際の儀礼とする」「皇帝は,中国の支配者だが,わが国の主君も日本の支配者で対等で、日本では三跪九叩頭を強制していない」

「清国は万国法を理解せず封建的な形式主義である」と書簡をもって抗議、延々と交渉を続け『外国の対等な使節を2ヵ月間も謁見を引き延ばすはなにごとか』と非礼を追及し,最後に「即座に帰国する」と通告を突きつけた。こうしたすったもんだの末に、これまた中国流のいつもの引き延ばし、最後にひきとめてあうという謁見の戦術だが、6月29日にやっと実現した。

当日.副島はヨーロッパ式の大礼服を着用して参内,帯剣を腰に下げ,3回●(手へんに共の字)手の礼を行った。国書を呈上し,絹織物が下賜した。

副島を遇する礼は極めて丁重で、北京を離れ天津に行くと各砲台が19門の礼砲を放ち.賀意を表し、蒸気軍船を派遣して見送らせた、という。

「ヨーロッパ諸国の公使はこぞって副島を称賛した。

「日本の使臣は実に有能な臣下であり.われわれのとても及ぶところではない。時勢から見て,もし日本の使節が折よく来朝しなければ,各公使の朝見の儀はおそらくまだ決着をつけられなかったであろう」(同紙)と評価している。

副島の外交交渉の成功には当代きっての漢文通で、書道の大家であり、明治5年7月のマリア・ルス号事件では(横浜に停泊した同船内に閉じ込められていた清国人苦力231人を奴隷であるとして開放した事件)では外務卿として、奴隷解放、人権擁護していた点が清国側も大いに感謝しての返礼と思われます。

同年5月24日「ノース・チャイナ・ヘラルド」の「日本と中国」は「日中条約の批准は,中国の発展にとり極めて重要な1歩だ。その結果,西欧列強との華やかな外交活動の成果に引き比べてはるかに実際的実りがあったとしても驚くにはあたらない。おそらく,今後中国において見られるはずの変化は,意気軒昂で抜け目ない朝日(日本)の子供たちの後押しを得て弾みがつくことだろう。中国の孤立状態を破っての進まない友邦を強引に国際礼譲へ仲間りさせたとしても,われわれは驚きはしないだろう。」

同年7月26日付『同紙』は「謁見問題の場合と同じく,中国人政治家と交渉する際には.断固たる態度が何よりもものを言うという教訓を,副島は外国公使たちにまたも教えることとなった」とも指摘した。

 

英「タイムズ」は「日中の異文化対応」を比較する記事を掲げて、中国の排他性に対して維新後の日本の革新性と発展を高く評価しています。

「ここ4年間の日本の発展は,最近における最も注目に値する現象の1つであるのみならず.人類の精神史においても最も著しい現象の1つである。何世代もの長い間,この国は外国の影響に対して全く閉鎖されており,その文明は最も断固とした不動性によって特徴づけられているように思われた。日本人の排他性は隣の中国本たちのそれをさえ上回るものだった。中国の革新への抵抗は,比較的消極的で受動的だったが,日本のそれは自己主張が強く戦闘的だったのだ。4年前にこの国の封建体制が一挙に崩され,貴族たちが天皇の足下にひざまずいてしまったこの革命を他の革命と比較しようとしてもない」(1873(明治6)年8月28日「タイムズ」)

 

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