日本リーダーパワー史(602)『安倍・歴史外交への教訓(8)「世界史の中での日韓関係のパーセプションギャップ③」―秀吉以降の平和外交の朝鮮通信使を最も歓迎したのは長州藩、長州と韓国の深い関係⓶
日本リーダーパワー史(602)
『安倍・歴史外交への教訓(8)
「世界史の中での日韓関係のパーセプ
ションギャップ③」―秀吉以降の平和外交の朝鮮通信使を
最も歓迎したのは長州藩、長州と韓国の深い関係⓶
韓国との慰安婦問題の背景には日韓のパーセプションギャップ、戦争、外交失敗の歴史がある。
私は明治以来の日中韓150年戦争史という連載をこのブログで、5年ほど前から書いている。そのために、日中韓の外交史、戦争史、コミュニケーション史などの歴史文献をいろいろ読んで勉強しているが、なかなか平易に書かれた良くわかる本がない。徳富蘇峰の「近世日本国民史」などはその最適本だが、文語体なので読みづらい。福沢諭吉の中国、朝鮮論なども、尾崎行雄の中国論も同じく文語体なので読み読みづらい。
そんな中で大宅壮一の「炎が流れる」(第3巻、文芸春秋社、1964年)を読んで、これが一番良くわかると感心した、『昭和のマスコミの帝王』と言われた大宅壮一だけに『日韓併合の舞台裏』「朝鮮統治の2つの世論」「根強く残る対日敵意」など150Pにわたって、分かりやすくデータ豊富に日韓500年対立史「反日のルーツ」をまとめている。そのポイントを紹介する。
以下は「島国からの脱皮」(大宅壮一「炎が流れる」
、第3巻、文芸春秋社、1964年)より
毛利藩の場合はどうか。同じ記録に、「接待の節、他処に倍す。しかして錦褥の備待するもの、上中下官にいたるにおよぷ」と出ているが、下官までニシキのフトンに寝かせたというのだ。
下関では、阿弥陀寺を迎賓館にあてた。この寺は安徳天皇の冥福を祈るためにつくられたもので、明治八年官幣中社「赤間官」となった。http://bakutora.japanserve.com/spt-shimo-akama.html
下関ばかりでなく、中の関の田島、上の関の竃戸でも、大いに接待したらしい。上の関では、三斗の米でつくった大餅を出して、一行を驚かせている。
どこでも、土地の学者、文人が動員されて、酒食を共にしながら、筆談をしたり、詩を吟じたりして、日韓の文化交歓をつづけたのである。 萩出身の学者で医者でもあった滝鶴台(たきかくだい)は、http://kineko.matrix.jp/hagi/meirinjusha.html
http://kineko.matrix.jp/hagi/kakudainohaka.html
「わが藩有司に命ず、およそ使賓を待つ、家にかえるがどとくならしめよ」と書いてある。当時、鶴台は江戸にいて、太宰春台から〝海西無双″といわれたほどの人気者であったが、朝鮮の使節がくるというので、わざわざ長州によびかえされ、接待役を仰せつかったのである。
これを見ても、毛利藩が使節の接待にいかに気をつかったかがわかる。
かように、朝鮮と長州のつながりは、古く、深く、強い。日清戦争後、日本の全権公使とし韓国に駐在して、閔妃殺害事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%94%E5%A6%8
にも関係した三浦梧楼
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%A2%A7%E6%A5%BC
は高杉の〝奇兵隊〟出身である。また日韓合併″の立役者伊藤博文のあとをうけて韓国統監となった曾禰荒助
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E7%A6%B0%E8%8D%92%E5%8A%A9
、合併後の初代朝鮮総督寺内正毅
https://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl#q=%E5%AF%BA%E5%86%85%E6%AD%A3%E6%AF%85
その下で政務総監から朝鮮中枢院議長となった山県伊三郎(有朋のオイでその養子)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E4%BC%8A%E4%B8%89%E9%83%8E
など、日本の朝鮮関係者に、旧毛利藩士が多いということは、決して偶然ではない。
また〝日韓合併″のさい、日本にもっとも協力したという趙重応は、正徳元年(1771)、六代家宣時代)に韓国の正使として日本にきた趙泰億の子孫である。
昔も二つの朝鮮
毛利氏の前に、本州西部から九州北部を領していた大内氏の先祖は、朝鮮からきたということになっている。
推古天皇の十九年(西暦611年)、百済国の琳聖(りんせい)太子が、周防国多々長浜について、多々姓を名のっていたが、これが大内氏の先祖である。足利時代、対朝鮮の外交、貿易は、主として大内氏を通じてなされていた。足利義満のときに、朝鮮から倭寇を取り締まってくれといってきたのにたいし、義満は大内義弘
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E7%BE%A9%E9%9A%86
に命じて、その要求を果たすことを約束するとともに、そのかわりに『大蔵経』を求めている。
そのさい、使節としてきた申叔舟(しんしゆくしゆう)が書いた『海東諸国記』のなかで、大内氏について、
「系の百済より出でしをもって、もっともわれに親しむ」
と書いている。大内氏が百済の血をうけていることを自他ともに認めていたことが、これでよくわかる。これが家臣の陶晴賢(すえはるかた)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E6%99%B4%E8%B3%A2
に滅ぼされ、晴賢は毛利元就にほろぼされたのである。
ところで、秀吉の〝朝鮮征伐〟のさい、捕虜となって日本にきて、近世儒学の祖といわれる藤原 惺窩(ふじわら せいか)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%83%BA%E7%AA%A9
の師となった姜睡隠(きようすいいん)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%9C%E3%82%B3%E3%82%A6
というのが、朝鮮の宣祖王(1567-1607)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E7%A5%96
におくった『賊中見聞録』のなかで、毛利氏についてつぎのように書いている。
「輝元(元就の孫)の祖、代ってその地(大内氏の領土)をおそい、安芸州の広島に都し、物力の雄、倭京に擬す。その風俗を倭中に見るに、やや厚し。性すこぶる寛緩、多くはわが国人の気性ありという」
毛利の居城広島の〝物力〟は、京都をまねたものであるが、その風俗は、日本のなかではましなほうで、性質もゆったりとして、朝鮮人に似ている点が多いとほめられている。
朝鮮語の通訳として長く対馬藩に仕え、享保八年(1723、八代将軍吉宗時代)毛利藩に転じた松原新右衛門というのは、何年も朝鮮にいたことがあって、当時の朝鮮通であるが、これが朝鮮事情について語った珍しい文献が発見された。そのなかに書かれていることで、おもしろそうな点をひろってみると、
①釜山の「日本館」の敷地は、500間に300間(15万坪)もあって、100間四方もある大饗応場ができている。
②そこに日本人がいつも500人くらい住んでいる。
③「日本館」から、日本の里程で一里半ばかり先に石碑がたっていて、日本人はそこから先に行ってはならぬことになっている。
④釜山の浜辺に、秀吉の〝朝鮮征伐″のときに築いた城がまだ残っていて、朝鮮政府で管理している。
⑤朝鮮ではシナの年号<当時は康凞(こうき)>を用いている。
⑥朝鮮には砂糖がない。
⑦釜山のあたりにも虎(トラ)が出る。トラの耳に切れ目が一つあれば、人間を一人、二つあれば二人食ったことになっているという。
⑧シナの庚凞帝には男の子がたくさんあって、そのうちの一人を朝鮮王にしようとしているが、そうなるといまの朝鮮国王は、〝浪人″するほかないというもっぱらの評判である。
⑨朝鮮ではいつも、臣下が二つの部族にわかれていて、一方を南方といい、一方を西方というが、いまは南方が政権をにぎっている。日本の源氏、平氏と同じだ。(南北の対立は歴史的なもので、第二次大戦後に始まったことではないのである)
⑩朝鮮で、こどもがいたずらをすると、〝倭奴来(日本人が来た)″という。日本人にたいする恐怖が、それほど深く頭にしみこんでいるというのだ。(日本でも、同じような場合に、″もうがきた″といったものだが、これは〝蒙古がきた″という意味だということだ。
つづく
関連記事
-
-
2014年世界経済トレンド・ウオッチ②』「エリートの失敗が未来を脅かす」(英FT紙)「2014年市場は「退屈への反乱」に警戒せよ
2014年ー世界経済トレンド・ウオッチ②』 …
-
-
『リーダーシップの日本近現代史』(135)/記事再録★『山県有朋から廃藩置県の相談された西郷隆盛は 一言で了承し、即実行したその日本史上最強のリーダーシップ①』(徳富蘇峰『近世日本国民史』(明治の三傑))★『行政改革を毎回唱えながら、中央省庁再編、道州制、都道府県市町村再合併、財政削減などなかなか進まない、リーダーシップ不在の日本沈没政治』
2012-03-24 /日本リーダーパワー史(246)記事再録 …
-
-
『インターネット江戸学講義①』★『諸国を遍歴漫遊・遍歴して芸術創造にまい進した“歩くノマド”たち』★『90歳まで描き続き生涯現役を貫いた“歩くノマド”だった葛飾北斎』★『全国を歩いて学問を修め、発明した大天才「平賀源内」』★『紀州藩御庭番として各地を遍歴、膨大な著作を残した「畔田翠山」』
2012/05/30 /『インターネット江戸学 …
-
-
「Z世代への遺言」「日本を救った奇跡の男ー鈴木貫太郎首相③』★『鈴木首相の「玄黙」「治大国若烹小鮮」「汐待ち」』★『鈴木首相と昭和天皇の「阿吽の呼吸」で、戦争に終止符を打った日本史上最大の決定的な瞬間です』
昭和天皇の戦争責任について、 さて、天皇の戦争責任について未だに論 …
-
-
正木ひろしの思想と行動(’03.03)
―ジャーナリストとしての正木ひろしー戦時下の言論抵抗― -Hiroshi Mas …
-
-
<クイズ>-世界で最ももてたイケメンの日本人は誰でしょうか?-ファースト・サムライの立石斧次郎
<クイズ>-世界で最ももてたイケメンの日本人はだれでしょうか① 全 …
-
-
『新型コロナウイルス/オミクロン株のスピード動向①』★『オミクロン株が世界的に猛威を振るう』★『オミクロン株は2ゕ月遅れで日本に襲来』★『ブースター接種率は米EUは3,40%なのに、日本は先進国ダントツの最低0,5%にとどまる大失敗』★『再び、後手後手の対応のスローモー岸田政権』
オミクロン株が世界的に猛威 前坂 俊之(ジャーナリスト) 世界中で再び新型コロナ …
-
-
『2014年世界・政治経済ウオッチ⑩』「アメリカなき世界に迫る混沌の時代」◎『日本は弱い、その自覚がなければ中国に負ける」
『2014年ー世界・政治・経済ウオッチ⑩』 …
-
-
日本メルトダウン脱出法(744)「大村智さんノーベル賞受賞、背景にある日本人の心 成果や実績を求めるのではない、ファクトへの飽くなき追究」●「朝鮮半島の南北統一に日本は大いに首を突っ込め 「韓国にも日本にもメリットがある」と米国の専門家」
日本メルトダウン脱出法(744) 大村智さんノーベル賞受賞、背景にある日本人の …
-
-
終戦70年・日本敗戦史(67)徳富蘇峰が語る『なぜ日本は敗れたのか』⑯日本の統一教育の欠陥ー「個性無視、型にはまった人間を 粗製乱造した教育制度で日本亡国」
終戦70年・日本敗戦史(67) A級戦犯指定の徳富蘇峰が語る『なぜ日本は敗れ …
