前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

日本リーダーパワー史(601)『安倍・歴史外交への教訓(7)「世界史の中での日韓関係のパーセプションギャップ⓶」―秀吉以降の平和外交の朝鮮通信使を最も歓迎したのは長州藩、長州と韓国の深い関係

   

 

 日本リーダーパワー史(601)

『安倍・歴史外交への教訓(7)

「世界史の中での日韓関係パーセプ

ションギャップ⓶」―秀吉以降の平和外交の朝鮮通信使を

最も歓迎したのは長州藩、長州と韓国の深い関係

韓国との慰安婦問題の背景には日韓のパーセプションギャップ、戦争、外交失敗の歴史がある。

私は明治以来の日中韓150年戦争史という連載をこのブログで、5年ほど前から書いている。そのために、日中韓の外交史、戦争史、コミュニケーション史などの歴史文献をいろいろ読んで勉強しているが、なかなか平易に書かれた良くわかる本がない。徳富蘇峰の「近世日本国民史」などはその最適本だが、文語体なので読みづらい。福沢諭吉の中国、朝鮮論なども、尾崎行雄の中国論も同じく文語体なので読み読みづらい。

そんな中で大宅壮一の「炎が流れる」(第3巻、文芸春秋社、1964年)を読んで、これが一番良くわかると感心した、『昭和のマスコミの帝王』と言われた大宅壮一だけに『日韓併合の舞台裏』「朝鮮統治の2つの世論」「根強く残る対日敵意」など150Pにわたって、分かりやすくデータ豊富に日韓500年対立史「反日のルーツ」をまとめている。そのポイントを紹介する。

以下は「島国からの脱皮」ー大宅壮一「炎が流れる」

(第3巻、文芸春秋社、1964年)

ところで、私は、秀吉の〝朝鮮征伐〃のあと、朝鮮人の対日感情、国交関係がどんなふうにかわっていったか、ということに興味を持って、少しばかり古い文献を調べてみた。日韓併合の舞台裏についてに昭和三年、朝鮮総督府から出た松田甲述『日鮮史話』に教えられるところが多かった。同書によると、

「かえりみるに、慶長十二年(1607年)平和克復後の第一回の〝通信使″呂祐吉(ろゆうきち)らのきたりしより、寛永十三年(1637年)第四回の〝通信使″任洸 (にんこう)らのいたりしころまでは、朝鮮にありては〝壬辰の役″(1592年の〝朝鮮征伐″)の余怨いまだ容易に消滅せず、日本を目して〝島夷″と呼び、〝倭奴″とののしり、ただ武事のみをたっとびて、文筆にくらきものと見なし、使者の一行は、往々暴慢軽侮の言動をもってした。

しかし、日本はひたすら平和政策に基づき、かれらの言動を隠忍し、一方さかんにシナより書籍を輸入し、文教の隆興をはかりしをもって、鴻儒碩学(こうじゅせきがく)相つぎて出で、詞藻に富める俊才も、また諸方に出ずるにいたり、明麿元年(1655)第六回の〝通信使″趙衍(ちょうえん)らのいたりしころは、三都はもちろん、沿道の学者は競うてかれらに応接し、経史を談論し、詞賦を唱酬して、感情の融和をはかると同時に、知識を海外に求むるにつとめた」

となっているが、慶長12年というと、秀吉が死んで、日本軍が朝鮮から引きあげてちょうど十年目である。

これより前に、家康が朝鮮の捕虜を送りかえしたので、そのお礼に向こうから使いがやってきて、京都の本閻寺を宿坊とし、二条城で家康に会い、和議をととのえてかえっている。〝通信使″というのは、韓国からやってきた親善使節のことであるが、これが日本にくるまでには、辛抱強い外交的折衝を必要としたにちがいない。

現在、韓国人が日本人に会ってすぐロにするのは、〝日韓併合以来三十六年〟にわたり、日本がおこなったという虐政と搾取にたいする恨み、つらみである。当時、かれらの使った“遠夷〟ということばは、いまの〝日帝″にあたるわけだ。

これを緩和するのに、徳川政府は文化政策に重点をおいた

。家康が学問奨励に力を入れたのも、一つはこういうところから出たのであろう。戦国時代のあとをうけて、文化的な面では、朝鮮とのあいだに、かなり大きな落差があったので、まず日本の文化的水準を高める必要があったのだ。

延享五年(1747年)、荒井筑後守というのが、朝鮮の使節について書いた随筆によると、「(新井)白石先生、鮮客応対の節、中華新渡の書目録を出され、これらの書籍、朝鮮にもわたりたるやと問われしに、朝鮮人はまだ見ざる書多きよし申しけるとかや。按ずるに、日本は金銀多き国ゆえに、書も多く、中華の賓客もてくるならんかし」

このころになると、日本の文化的水準は、朝鮮に追いつき、追いこしていた、というよりも、金のあるにまかせて、シナから新刊本をどしどし買いこみ、朝鮮の使節に見せびらかしたらしい。

この随筆には、朝鮮の国情、習慣、産物を初め、〝朝鮮征伐″中の逸話などが紹介されている

長州と韓国の深い関係

朝鮮からの〝通信使〟は、慶長十二年(1607年)から明和元年(1764年)まで、157年間のあいだに⒒回やってきた。

使節一行は、正使、副使以下、総勢約4、500人から成っていて、往復にかれこれ270日もかかった。江戸はもちろん、沿道の各藩で、往復ともたいへんなもてなしをうけ、ゆうゆぅと旅をつづけたのである。しまいには、あまり金がかかりすぎるというので、文化元年(1804年)に中止し、幕府から対馬に特使を派遣して、朝鮮の使節をうけることに改宗。

ところで、沿道諸藩のうち、朝鮮の使節をもっとも歓迎したのは、長州(山口)の毛利藩、筑前(福岡)の黒田藩、江州(滋賀)の井伊藩であった。このことは使節たちが筆をそろえて、この三藩をたたえているのを見ても明らかである。

戦後の日本の政治家のなかで日韓関係の正常化に、もっとも強い関心を示しているのは、〝特使〟専門の大野伴睦

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E4%BC%B4%E7%9D%A6

は別として、石井光次郎

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E5%85%89%E6%AC%A1%E9%83%8E

、岸信介(安倍首相の祖父)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B

であるが、石井は福岡県人、岸は山口県人である。どっち朝鮮近海に出漁する漁民の多い選挙区の利害とつながっているといってしまえばそれまでであるが、これらの地方と半島との歴史的、伝統的な関係を無視するわけにはいかない。

それなら、井伊藩の場合はどうか。

もともと近江は、新羅の王子天日槍命(あまのひほこのみこと)とその一族の土着したところで、大津には「新羅明神」、琵琶湖の北にある余呉湖には「白木明神」がある。その後も、朝鮮から日本にきた亡命者、商人、職人などの多くが、この地方に住んだので、朝鮮に関係のある地名、風俗、習慣がいまもたくさん残っている。琵琶湖の東岸には、〝朝鮮人街道″と呼ばれているものがある。

天日槍の子孫である田道間守の弟の娘が、開化天皇(第九代) の曾孫・息長宿禰王(おきながすくねみこ)の妃として迎えられ、そのあいだにできた息長足姫が仲哀天皇の皇后となった。

これが神功皇后https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%87%E5%90%8E

だということになっている。

皇后が〝三韓退治″https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9F%93%E5%BE

%81%E4%BC%90

に異常な熱意を持ったというのは、祖先の〝失地回復〃の意欲から出たというよりも、当時の日本は、いまよりもはるかに密接に半島と結びついていたからだと見るべきであろう。

どっちにしても、この時代のことは、伝説に属していて、なんともいえないが、彦根藩主が朝鮮の使節をとくに歓待したというのは、近江との伝統的なつながりを考えた上でのことではあるまいか。

そうらんこく

使節の属官曹蘭谷(そうらんこく)の書いた『奉使日本時閲見録』によると、「彦根の城界に入る。市肆(しし)

人物の盛んなる大阪にゆずらず、しかして容状豪俊、服飾華鮮、童男童女、こうこうとして珠貝のどとし、館所はすなわち宗安寺、屏帳什物の修麗なる陸路の過站に冠たり。中下官を接待するのさい、みな銀匙を用ゆ」彦根の繁栄ぶりをほめちぎって、大阪に劣らないといっている。下っぱの接待にまで銀のサジをつかったというので目を丸くしているが、そのころの日本の消費ブームが想像される。

では、毛利藩の場合はどうか。

同じ記録に、「接待の節、他処に倍す。しかして錦褥の備待するもの、上中下官にいたるにおよぷ」と出ているが、下官までニシキのフトンに寝かせたというのだ。

                                                                                                    つづく

 - 現代史研究

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

『Z世代のための歴代宰相の研究③』★『日露戦争を勝利した世界史上空前の宰相・桂太郎の国難突破力③』―「その後,『日英同盟』の破棄と「日独・日中同盟」を孫文と提携した秘密会談の内容』★『孫文の秘書通訳・戴李陶が『日本論』で発表(1928年)した』

  2022/11/29/ 日本リーダーパワー史(1232)記事再録 …

no image
日本リーダーパワー史(972)ー初代ベンチャー企業の「真珠王」御木本幸吉(97歳)★『「資源もない」「金もない」「情報もない」「技術もない」「学歴もない」「ないないづくし」の田舎で、独創力で真珠養殖に成功した不屈の発明魂』★『エジソンも「わたしもできなかった」と絶賛』★『『スタートアップ企業は御木本幸吉の戦略から学べ』

日本リーダーパワー史(972) 世界史を変えた『ミキモト真珠』ー『スタートアップ …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(120)/記事再録☆『今年は中国建国70周年だが、中国革命の父は毛沢東ではなく、孫文である」☆『その孫文を全面支援した宮崎滔天を中国に派遣して日本に亡命させて来いと指示したのが犬養毅(木堂)です』★『中国革命のルーツは・・犬養木堂が仕掛けた宮崎滔天、孫文の出会い』

日本リーダーパワー史(116) 中国革命のルーツは・・犬養木堂が仕掛けた宮崎滔天 …

no image
『世界一人気の世界文化遺産「マチュピチュ」旅行記』(2015 /10/10-18>「朝霧の中から神秘に包まれた『マチュピチュ』がこつ然と現れてきた」水野国男(カメラマン)⓶

    2 2015/11/02★&lt …

『オンライン/2022年はどうなるのか講座①』★『異常気象とコロナ共生、経済再生の2022年(上)』★『コロナ収束と感染拡大の米英、EU,ロシア』★『デルタ株は自壊したという仮説』★『世界気象機関(WMO)異常気象の日常化と警告』★『石炭火力は「段階的な廃止から削減へ」★『中国の脱炭素・グリーン戦略のスピード』

  (以下は2021年11月15日までの情報分析で、3人による放談です …

no image
『オンライン/日本経済150年史での代表的経営者の実践経営学講座』★『日本興業銀行特別顧問/中山素平(99歳)昭和戦後の高度経済成長の立役者・中山素平の経営哲学10ヵ条「大事は軽く、小事は重く」★『八幡、富士製鉄の合併を推進』『進むときは人任せ、退く時は自ら決せ』

  2018/05/12 /日本リーダーパワー史( …

no image
クイズ『坂の上の雲』 英『タイムズ』などが報道する『日・中・韓』三国志・・日清戦争の原因とは・・・

クイズ『坂の上の雲』   英『タイムズ』などが報道する『日・中・韓』三 …

no image
池田龍夫のマスコミ時評(122)「吉野文六氏の苦悩と外交密約の罪」(4・13)「両陛下パラオ訪問と世界平和への努力」 (4・10)

池田龍夫のマスコミ時評(122)  吉野文六氏の苦悩と外交密約の罪(4・13) …

no image
近現代史の復習問題/記事再録/日本リーダーパワー史(82)尾崎行雄の遺言「日本はなぜ敗れたかーその原因は封建思想の奴隷根性」

日本リーダーパワー史(82)尾崎行雄の遺言「日本はなぜ敗れたかーその原因は封建思 …

no image
日本リーダーパワー史(678)日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(57) 『福島安正大佐のインテリジェンスが10年後に『日英同盟』(核心は軍事協定)締結へつながった。

日本リーダーパワー史(678) 日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(57) 『福 …