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日本経営巨人伝⑥・広瀬宰平 – 明治初期の住友財閥の『中興の祖』広瀬宰平

   

日本経営巨人伝⑥・広瀬宰平
明治初期の住友財閥の『中興の祖』広瀬宰平
<『宰平遺稿』広瀬満正著、大正15年版の復刻』大空社2000年 、12500円の解説・前坂俊之>
前坂 俊之
(静岡県立大学名誉教授)
 
  広瀬宰平は明治初期に没落寸前にあった住友家を建て直し、住友財閥成立の基盤をつくった人物である。住友財閥のいわば中興の祖である。
  広瀬は文政十一年(一八二八)五月、近江国八州村(現・滋賀県野洲郡中主町)で医師北脇理三郎の二男として生まれた。父の弟・治右衛門は若い時に住友に勤め、後に別子銅山支配人になった人物である。
 
この叔父によって九歳の時、愛媛県新居浜の別子銅山に連れて来られ、十一歳で勘定場の給仕となった。二十七歳の時に結婚して翌年、住友家主人・住友吉次郎友視の推薦で、元浅草出店支配人・広瀬義右衛門家に夫婦養子となって入った。三十歳で広瀬家の家督を相続し、三十二歳で別子銅山吹方役頭、慶応元年(一八六五)九月、三十七歳で同山の総支配人となる異例の抜擢を受けた。
 
  別子銅山は住友家が元禄四年(一六九一)に開坑して以来、住友家の屋台骨であった。幕府の保護、育成によって産出額は元禄十六年には年間一、四六〇トンと最高を記録した。以後は毎年、減り続けて三〇〇トンから四〇○トンと、最盛期の四分の一以下に落ち込んでいた。しかし、この間、国内屈指の銅山として、住友家は銅精錬と銅貿易によって富豪の地位を築き上げた。
 
広瀬が別子銅山の総支配人となると同時に、住友三百年の歴史の中で、最大の存亡の危機が訪れた。それまで、別子銅山への払い下げ米は年八、三〇〇石が幕府から割り当てられ、その代金は翌年納入する御用鋼の代金から支払うのが慣例で、一七〇年にわたって続けられてきた。
 
住友家は一大ピンチを救った広瀬宰平
 
 ところが、この年幕府は長州征伐の軍費調達のため財政緊急策を打ち出し、元禄以来続けてきた払い下げ米を突然、中止してしまった。当時、別子では約三、八〇〇人が働いており、一年間で一万二千石の米を必要としていたので、たちまち途方にくれた。
 
 困り果てた広瀬や住友家当主らは幕府方に米の払い下げを必死に嘆願した。しかし、倒幕派と戦っていた幕府はそれどころではなかった。二年後にやっとそれまでの三分の二の六、〇〇〇石の払い下げが認められたが、米価は大幅にバネ上がったため、住友家は一大ピンチに陥った。
 別子銅山の坑夫たちの配給米は減らされ、価格は二倍になり窮乏の淵に立たされた。慶応三年(一八六七)五月、坑夫による大暴動が起こり、山は三ヵ月にわたって閉山した。坑夫たちは荒れ狂い、押しかけて役員や支配人に乱暴を働くものが続出、難を逃れて山を下りる役員もいたが、広瀬は毒殺の危険もかえりみず、敢然とこれに立ち向かって説得して暴徒を鎮圧、難局をきり抜けた。
 
 明治維新とともに、さらに決定的な危機が襲ってきた。大政奉還、王政復古に続いて慶応四年一月、鳥羽伏見の戦いが起こり、高松、松山両藩が朝敵とみなされ、土佐藩によって攻め落とされた。
 
 土佐藩兵の一隊が新政府の命令によって別子銅山を占領した。すでに一ヵ月前には大阪の住友家本店の銅蔵なども差し押さえられていた。広瀬は早速、隊長の川田小一郎(後の日銀総裁)に会って、夜を徹して住友の別子銅山の開坑以来の二〇〇年の苦難の歴史を説いた。
議論をもって嘆願し、「銅山経営は住友家の事業であること」、「別子を差し押さえると国家の損害になること」など、詳々と説いた。
 
  広瀬は胆力と才知を兼ね備えた人物であった。その堂々の弁論によって、深い理解と同情をもって、話を聞いた川田は心が動かされた。川田は広瀬の協力者となって、大阪の太政官当てに別子銅山の差し押さえ解除の陳情に同行してくれた。
 
明治になり民営で残ったのは別子銅山だけー広瀬の尽力
 
  広瀬は必死に陳情、交渉を繰り返し、そのかいあって、三カ月後に岩倉具視が解除を認めた。別子銅山は何とか接収をまぬがれ、住友家のものとなったのである。この時、新政府は同時に生野銀山や佐渡金山など全国の鉱山を差し押さえたが、元のまま民営が認められたのは別子銅山だけであった。
 
 徳川時代に繁栄していたり、幕府と緊密であった大商人の大半は明治維新になって没落した。何とか生き延びたのは、三井、住友ぐらいしかなかった。しかし、別子銅山の接収は免れたものの、住友家の危機はまだ去ってはいなかった。
 
 別子銅山の採鉱量は年々産出量は減る一方で、山は暴動や騒動がたえず住友家の財政も大赤字で、家財道具を担保にして約千両を借金して、やっと別子に送金している四苦八苦の状態であった。
 
  広瀬は自らの田畑を担保に、別子だけで通用する木札を発行して賃金の支払いを続けていた。住友家の逼迫は限界に近く、「銅山を売り払って本家を救え……」と十万両で別子銅山を売却する話が進み、役員のほとんどが、やむなしの態度であった。あとは広瀬を承諾させるため、最後の会議が開かれた。
 
「住友百年の計を思えば、手放すなどもっての外……」と広瀬は、ただ一人反対し、「文明開化をむかえて今後、鋼の輸出は増加し、政府も銅山の振興に力を入れる。別子が潰れれば住友もなくなる。何とかこの窮地を凌ぐしかない」と熱弁をふるった。
 
 重役全員が反対であったが、ただ一人住友家当主が広瀬に賛同して、からくも身売りは免れた。広瀬が全責任を負って再建に取り組むことを条件に思い止まったのである。
 
 広瀬は給金を返上して、再建するまで家に帰らぬ覚悟で私財もすべて投げうって、別子銅山の大改革に取り組むことになる。
 太鼓を合図に就労する時間制や、住宅の年賦制を取り入れるなど労務関係を大幅に改善し、予算制度、棲立金制度を導入、欧米の最新技術を取り入れた。
 明治五年(一八七二)にはフランスから鉱山技師のコワニ工を招き、ノミとタガネによる旧式な採掘法を改善して、ダイナマイトの使用、大型ポンプ、鉱山鉄道の導入、硫酸の企業化、湿式精錬法などの最新鋭の鉱山技術を大幅に取り入れた。
 
 明治七年三月には、広瀬はフランス人の鉱山技師ルイ・ラロックを招き、銅山の抜本的な改革に取り組んだ。ラロックには住友随一という広瀬の月給の六倍をあたえた。
 
 ラロックは全山の地質調査を行い、縦坑道の開掘、道路と運搬鉄道の敷設、洋式精練所の建設、洋式機械整備など近代化計画を提出したが、広瀬は七十万円という巨費を投じてこれを実行した。
 
 工事は明治九年に着工され、二十八年に完成したが、この結果、別子の産銅量は九年は一三〇万斤(一斤は六〇〇グラム)、十八年は二〇〇万斤、二十三年には三三七万斤と飛躍的に増加し、住友財閥の繁栄の基礎が固まったのである。
 
 明治十年(一八七七)、広瀬は住友の初代総理事となった。広瀬の声望は大阪の財界に広く知れ渡り、明治十一年には五代友厚とともに大阪商工会議所、大阪株式取引所などを設立し、その副頭取に就任、このほかにも大阪製鋼会社(明治十四年)、大阪商船会社(同十七年)などの設立にもかかわるなど、関西財界のリーダーとして活躍した。
 
 別子銅山開坑二百年にあたる明冶二十三年には盛大な記念祭を行い、別子の銅で制作した楠木正成の銅像を献上し、宮城前広場に建てられた。
 住友家に五十五年間仕えた広瀬は、明治維新に住友家の存亡の危機を見事に救い、別子銅山の建て直しによって住友財閥の発展の基盤を固め、明治二十七年に自らの甥にあたる伊庭貞剛に総理事をバトンタッチした。以後、住友を去って神戸・須磨に隠棲した。
 
 広瀬は明治十七年に住友家に仕えて以来半世紀に及ぶ自らの人生を振り返った自伝『半生物語』(住友修史室、一八九五年刊)を刊行した。
 大正三年(一九一四)一月、広瀬は八十五歳で亡くなった。
 
 本書は宰平の長男・満正が宰平の遺文を集めて編集し、大正十五年に関係者に配付したもの。『半生物語』なども収録しており、広瀬の足跡をたどるには最重要な文献である。

(経営名言①)「逆命利君」
 
「逆命利君」とは「命令に逆らって、君を利す」の意味で、今も住友の精神に脈々と息づいている。広瀬は別子銅山が明治政府によって没収される寸前をくい止めた、明治期の
〝住友中興の祖″といわれた。激しい性格で住友家の家長をいさめ、夫人を座敷牢に押し込めたことがあった。
 ある時、十二代住友家の家長・友親が数万円もする茶道具を買った。それを知った宰平は「住友家の財産は、別子銅山の地下何百尺の地底から、坑夫が命がけで掘り出した銅の利益。万金を出して茶器を買うなど、もってのほか、代々の質素、倹約の心をお忘れか」と主人を激しく叱った。
 
友親は自らの非を謝ったが、宰平はやめない。友親の夫人が「もうやめてください。主人もわかっていますから…」と口をはさむと、宰平は一層激怒し「住友家の将来にかかわる重大事に、女子供が口をはさむとはけしからん」と大工を呼んですぐ座敷牢をつくり、閉じ込めてしまった。その宰平の座右の銘がこれである。
 
(経営名言②)「浮利に走って、軽進すべからず」
 
一八八二年(明治十五)、広瀬は創業の精神を盛り込んだ住友の家法をこう定めた。バブル経済と同じく、もうかれば何でもやるという
〝金儲け主義″を排し、社会のために役立つ、仕事を行うという考えであった。
 住友四百年の歴史で、最大の危機は明治維新で、新政府が別子銅山(愛媛県新居浜市)を接収しようとした時である。
別子銅山の経営は大赤字で、住友本家でも、身売りの話が持ち上がった。
 
 他は、全員身売りに賛成したが、広瀬一人が頑強に反対し、住友は別子を維持することになった。広瀬が全責任を持って
再建に取り組み私財をつぎ込み、外国から最新鋭の技術、フランス人技術者を招噂し、必死の努力で、産鋼量は大幅に増加、
住友の基盤固めに成功した。もし、広瀬が「浮利に走るな」と別子再建に固執しなければ、住友の今日はなかった。
広瀬はその功労によって住友家初代総理事になり、甥の伊庭貞剛があとを継いだ。

 

 
 

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