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日本リーダーパワー史(454)「明治の国父・伊藤博文の国難突破のグローバル リーダーシップに安倍首相は学べ②」⑥

   

 


   
日本リーダーパワー史(454

 

「明治の国父・伊藤博文の国難突破のグローバル

リーダーシップにこそ安倍首相は学べ②」⑥

 

◎<伊藤博文がいなければ、明治維新の開国・西欧文明の受容・明治
憲法の制定、議会制度の導入、初代総理大臣に就任し、元老として
日露戦争勝利の外交インテリジェンスはできなかった。
明治の奇跡「坂の上の雲」の主人公こそ初代大宰相・伊藤博文なのであ
る。明治時代は伊藤時代といって過言ではない。

                

前坂俊之(ジャーナリスト)

 

黒船来航(1853年)で『開国か、攘夷か』を迫られた幕末日本の大問題は明治維新によって、決着がついたが、この過去問題が、再び160年間たった現在ではTPP問題、日中間の歴史認識、国家観、ナショナリズム、外国人労働、難民受け入れ拒否の難題、国難として国会では不毛な論争が続いている。それがいつまでも完治しない亡国(鎖国・ガラパゴス・の日本病の正体(攘夷派)なのである。
明治、大正、昭和の歴史の中でみると、鎖国派、攘夷派、国内派、ドメスティック派、日本主義(エスノセントイズム)派、国内論理優先派、外資・外国人おことわり派、国際連盟脱退派(世界の孤児派)、英語教育禁止派(太平洋戦争中)が多数派を占めると、

つまり<ガラパゴスジャパン> となって、国際的には孤立、国際競争力に敗れて、<グローバリズム時代>に赤信号・国難となって最終的に国家はつぶれるのです。

早急な移民労働力の受け入れ (大前研一は毎年40万人の受け入れを提言)や、TPPになると日本農業は壊滅するので絶対反対を叫ぶ農業団体の主張をきいていると、<開国か、攘夷か>の世界中の国(おとなりの大躍進中の韓国をみるまでもなく)がすでに結論を出している問題を、「何も考えない、決められない、問題先送り」で、相変わらずチョンマゲをつけた幕府の役人たち(現在の国家官僚組織、公務員ら)と攘夷派のサムライ(大部分の政治家)の小田原評定が延々と続くという『死に至る病』 (日本病の構図)が目に見えてくる。

明治維新の志士となって坂本竜馬、伊藤博文のように断固、やるべし、開国にまい進する以外に、日本を救う道はない。ここで、 伊藤の外国新聞評などを紹介する。 


開国するために、積極的に親切に外国人とコミュニケーションして、西欧知識の吸収と日本の情報発信を先頭たって行った。今の政治家で、ここまで外交を真剣に考えている人物が何人いるか。このグローバルな時代に、外国も外国人も知らないドメスティック政治家がほとんどではないか。


しかも、伊藤が郵便事業に力をいれていたことには驚く。郵便、電報という当時の最先端の通信システムに人一倍注目してことを示している。問題解決の最強のツールは情報通信 であるのはいつの時代も変わらない。日露戦争に勝ったのは当時の最新の情報通信を日本側が導入したことである。


いま日本の経済沈没を食い止めるのはインターネット・情報通信、ロボット技術の徹底活用しかないが、日本の政治家、官僚らの認識レベルはこれまた徳川時代ではないか。その面でも、伊藤の先見性、先駆性、インテリジェンスがダントツに光っていると思う。

以上は201012月に執筆したブログの再録

 

 

◎<以下は明治の新聞報道では伊藤博文のいかに国際政治家、グローバル
リーダシップを発揮したかを示している②

 

★★『外国新聞に見る人物評「日本人列伝」伊藤博文』

 1880(明治13)年821日付『ジャパン・ウィークリー・メイル』

 

 一八六四年八月、学生の身なりをした二人の日本の若者がイギリス軍艦の甲板に立
って次第に遠くかすんでゆく海岸を眺めていた。軍艦は、外国列強の旗を侮辱した長州藩主に当事国とその同盟国の最後通牒を渡すべく横浜から下関へ向かうところだった。
二人の学生は井上馨(現外務卿)とこの略伝の主人公である。二人はともに藩の規則を破り、封建的主君である長州藩主の意向にさからって、当時日本の若者の想像力をかき立てていた西洋文明を見聞するために西洋諸国を訪れていた。

それはちょうど、エリザベス時代の荒くれ者たちが「いざ、西へ!」のかけ声とともに、南アメリカの裕福な諸都市を略奪し、憎むべきスペイン人にひと抱吹かせるために危険に満ちた大海へ乗り出していったのと似ている。

どちらも同じ熱烈な祖国愛に燃えていた。この祖国愛は処女女王治世のころのわが国の貴顕人士の顕著な属性である。伊藤と井上の場合は、文字通り命がけで、自分たちが不興を貰った藩主に外国同盟の要求に抵抗することの無益さを説くという危険きわまる役目を果たそうとしていた。
西洋訪問で得た経験をもとに状況を説明すれば、愛する国を迫りくる惨禍から救うことができるかもしれないと望みをかけていたのだ。この企ての結果は歴史のページに血で書かれているが、そのことはこの略伝の本筋とは関係がない。二人の若き使者が、失敗に終わったものの詠む誠意任務を果たしたことを記しておけば足りる。

 伊藤博文は一八四〇年、長州に生まれ、力の真の源である知識に渇いた活発な知性に対して教育が与えることのできる利点 をひとつ残らず取得した。すでに述べたとおり彼は井上公とともにイギリスに渡り、最も恵まれた環境のもとで西洋文明を勉強できるこの機会を貪るように利用した。帰国した伊藤は前述の危険な仕事を自ら買って出て大方の暗い予想に反して無事に逃げおおせた。

その後、彼は参与兼外国事務局判事に任命された。まもなく大阪府参事となり、続いて兵庫県知事となった。この責任ある難しい地位にあって、伊藤が外国で得た知謝よ帝国に計り知れないほど役に立った。

 

外国人に対しては昔からの憎しみと追放欲が今なお日本人多数の支配的感情である 

 

、その様発を防ぐために伊藤は絶えず警戒の目を光らせながら自らの外交手腕と能力を休みなく働かせなければならなかった。
爆発があれは、当時、維新に伴う産みの苦しみからゆっくり回復しつつあったこの国に大きな不幸と屈辱をもたらしたにちがいない。

 持前の熱意と能力で兵庫県知事を立派につとめたのち伊藤は大蔵大輔に任ぜられ、公務でアメリカを訪問した。
 アメリカから戻った伊藤は工部大輔になり、根強い反対を押し切って東京・横浜間の鉄道建設を実現に導いた。この件に関しては大隈公の貴重な助力があった。 一八七一年、この小伝の主人公は有名な使節団の副使のひとりとして岩倉、大久保、木戸、山県とともにアメリカとヨーロッパを訪れた。サンフランシスコでは使節団一行は盛大な歓迎を受け、伊藤が英語でスピーチをして大いに注目を集めた。

 その中で伊藤は使節団の目的と故国の抱負を詳しく述べた。

当時、文明の道に一歩足を踏み出したばかりの日本はその後、大胆に歩を進めてきている。
 一八七三年に使節団が帰国したとき政府の関心を集めて熱い議論の的となっていたのは朝鮮侵攻問題で、この問題をめぐって閣僚間に大きな対立が生じていた。伊藤ら、外国旅行で目を開かれていた閣僚たちはためらうことなく、戦争とそれにともなう日本の財政破壊に反対した。これがもとで内閣は分裂し、有名な西郷とその同調者は野に下った。政府改造にともなって伊藤は参議兼工部卿に任命されるとともに正四位に叙せられた。

 

 一八七四年、故大久保がフォーモサ(台湾)をめぐる紛糾の関連で北京に出かけると、伊藤は大久保の留守中の内務卿代行をつとめ、この年初めて召集された 地方官会議の議長 に任命された。しかし情勢不安のため同会議は結局開催されなかった。中国との問題が平和的解決を見たのち、政府の有力閣僚数人が主流派の対外政和こ対する不満から郷里に引退した。こうしたあつれきは長びけば帝国に大きな被害をもたらしたであろうが、幸いにも、昔から伊藤と試練や危険をともにしてきた頼もしい盟友、井上馨公の努力で無事におさまった。

 

ある会談-日本史上、「大阪会議」として知られている-が大阪で開かれ、立場を異にする閣僚の私憤が友好的に解消されたうえ、ひとつの重大計画が立案されて、おのおの力を合わせてその実行にあたることになった。伊藤、板軋木戸、大久保は日本に代議員制度を認可することの是非を検討する仕事を割り当てられた。彼らの努力の結果は一八七五年四月十四日に天皇が行った約束のうちに現れている。その内容は、国内にそのような制度的変革の機が熱した時点で国民議会を開設するというものであった。

 

 伊藤公はその後東北地方と蝦夷を視察して回り、人々の要求と国の資力を調査して一八七七年に首都に戻った。次いで天皇の京都行幸に随行して、西南の大反乱の天皇とともに京都にとどまった。平和が回復したのち、伊執は勲一等旭日章を授与された。


 以来・伊藤公は数々の要職を歴任し、栄誉を重ねると同時に祖国に対して多大な働きをしてきた。閣僚制度取洞局長官、地方官会議議長、そして-大久保が無残に暗殺されたのち-内務卿。
どの地位にあっても伊藤は革命後の新政府を待ち受けていた壮大な課題を正しく認識して立派に職責を果たした。グリフィスの生彩ある表現を借りれば、その巨大な事業とは「積年の病を癒やすこと、

 

封建制と党派主義をその弊害もろとも根こそぎにすること 日本に新しい国民性を与えること、日本の社会制度を変えること、日本の血管に新しい血を輸血すること 

 

、突然の光の洪水で半分目の見えなくなっている隠者の国をキリスト教世界の裕福で攻撃的な諸国家の競争国に仕立てあげること」であった。

伊藤とその同輩が彼らの前にあって解決を迫る大問題をいかにみごとに処理してきたかは、決して誤りを犯すことのない時間の手によって誤解と偏見の零が一掃されたときに歴史が忠実に記録するだろう。

 

『外国が見るヨーロッパ訪問の目的』

1882(明治15)年34日『ジャパン・ウィークリー・メイル』

 

  日本で起こることは何でも憶測の棲となるが、この国の憶測は決して仮説の衣をまとうことがない。隅々まで事実で装った話でなければ公衆は目もくれない。たとえは、昨夏、ある閣僚が友人と泳ぎに行った帰り、その友人に銃声が聞こえなかったかと尋ねた。友人は聞こえなかったと答えたが、その時あたりにひそんで二人を盗み見ていた連中はもよりの電信局に行き、前記の閣僚が水泳中に狙撃されたと東京に打電した。

同閣僚は間一髪、命拾いをし、付近一帯は戒厳令に近い状態におかれている、と。最後の点だけはこの大げさな作り話の中で事実と呼べるものだったが、世間には常時この種の流首があふれているので、たいていの場合人々はいちいち気にとめることもせずやり過ごしている。
巨人族の末の妹がまきちらしているこうした流言の最新の拾い物は伊藤博文公のヨーロッパ訪問の目的だ。彼は信用通貨の補併用に外国借款の募集に行くのだという。言うまでもないが、伊藤氏に借款の交渉をしようという考えがあるなどと言うのは、彼がアイルラン
ド王位継承者に立候補する気でいると言うようなものだ。

彼のヨーロッパ訪問の理由は二つある。第-に、過去十二カ月しだいに増えてきた職務で少し損われた健康を回復すること、第二に、西洋の議会制度のしくみを視察することだ。この二つの理由をしかるべき順序で並べたと言うつもりほない。ただ本紙に伝えられた順序に従ったまでのことだ。

 当然ながら、伊藤氏が求めている類いの情報は書物から十分得られることから、彼のヨーロッパ訪問は全く職務以上の余分なことだという意見も出た。しかし枢密院議長がまさにこの目的でヨーロッパ訪問をしなければ、先のあら探し星は今度は思い上がっていると非難すると見てよい。

 

「純良でない容器は何を注ぎ入れても自分の物にしてしまう」議会制度


 は、その中で育てられた我々にとっては簡単なしくみに見えるが、日本のために代議員制度を細かいところまで整えるように求められたら我々は困り果てることだろう。こうした事柄には実務上の細々とした点が山ほどあり、それを十分学ぶには実際に自分で視察するしかなないので我々としては伊藤氏がこの事実を正しく認識し、何であれ調査で確かめられるものは成り行き任せにしたりしないと決意していると思うとうれしい。

 

 『英郵船にて欧州へ出発』

1882(明治15)年314日『東京横浜毎日』

 

 伊藤参議が欧州行の出発日限は前号の紙上に来る十七日の趣きを記せLが、出船の都合に依りいよいよ本日午前出発せられ随行の官吏には概ね昨日午後四時出立せられたり・尤も乗船は英郵船ゲーリック号なりという。 

 

  (つづく)

 

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