知的巨人たちの百歳学(166)ー長崎でシーボルトに学び、西洋の植物分類学をわが国に紹介した伊藤圭介(98歳)ー「老いて学べば死しても朽ちず」●『植物学の方法論ー①忍耐を要す ②精密を要す ③草木の博覧を要す ④書籍の博覧を要す ⑤植学に関係する学科はみな学ぶを要す ⑥洋書を講ずる要す ⑦画図を引くを要す ⑧よろしく師を要すべし』
百歳学入門(170)
長崎でシーボルトに学び、西洋の植物分類学をわが国に紹介した伊藤圭介(98歳)ー「老いて学べば 死しても朽ちず」
伊藤圭介(いとうけいすけ)
享和 3年1月27日(1803年1月27日)―明治34年(1901年)1月20日)) 植物学者、名は清民、錦窯と号した。名古屋の人、長崎でシーボルトに学び、西洋の植物分類学をわが国に紹介し、わが国最初の理学博士となった。明治二十四年、学術上の功績によって、男爵を授けられた。同年一月二十四日死す、年98 。
植物学の方法論
①忍耐を要す
②精密を要す
③草木の博覧を要す
④書籍の博覧を要す
⑤植学に関係する学科はみな学ぶを要す
⑥洋書を講ずる要す
⑦画図を引くを要す
⑧よろしく師を要すべし
伊藤圭介は、享和3年(1803年)名古屋呉服町に生まれた。父は医家西山玄道である。名は清民、号は錦かという。幼児より父兄に従って儒学と医学とを学び、また植物学を研究することを好んだ。
文政3年(1820年)18才にして医業を開いた。19才の時、京都に遊学し、洋学を学び、文政10年(1827年)25才の時、長崎に赴き、ドイツ人シーボルトに植物学を学んだ。これが生涯を通じて学問研究の一転機となり、27才で初めて、「泰西本草名疏」を訳述刊行したのである。
以後著書は17種に上る。この中、有名なのは、「日本産物志」「日本植物図説草部」等である。
また医家としての功績の優なのは種痘を始めたことであり、嘉永5年(1852年)50才の時、尾張藩主から種痘法取調を命ぜられ、以後尾張藩の医術に尽すところ大であった。また郷土の博物学の啓蒙にも努力した。
明治14年(1881年)東京大学教授に任ぜられ、同21年(1888年)理学博士の学位を受けた。
また初代の学士会院院長となった。明治34年(1901年)東京大学名誉教授、男爵を授けられ、同年98才を以って逝去した。
明治初年(1868年)廃藩置県の際、蘭法医学の必要を強調、愛知県に対し、同志と共に西洋医学を講ずる学校の開設を建議し、これが容れられ、名古屋藩の元評定所に初めて医学校が創設された。
これが今日の名古屋大学の濫觴(らんしょう)である。
http://www.meijyo-e.nagoya-c.ed.jp/konna/rekishi/itou.htm
十年前(明治三十二年か)の初秋に、吾輩(横山健堂)は圭介先生を訪ねた。先生は時に97歳。仙顔で髭が銀白であった。やせて、背は高く、腰は幾らか曲り、頭一杯の白髪が、
ぼうぼうとして糸のように長かった。
先生は字を書くのに、右のひじを全く畳に附けて、頭を右に傾けて書かれた。
先生は、室中にただ書籍があるばかりの居間にいられた。四畳で、次の間は六畳か八畳だったかと思う。二つの居室の塵には書棚をつらね、ことに居室の書棚は、『日本植物図説』の原稿で充満していた。
先生は、三尺ばかりの低くて粗末な机に向かっていられた。
かたわらには2,3の文庫があって、材料や、原稿や、書束あるいは紙片などが乱れている。先生はその中に端坐して、旧稿を見直していられた。彼れは学仙となれるものだった。
先生は、起って書棚の旧稿を抽いて来て示された。その巻尾には、「われ老いてこの業を完成すること能わず。大成のこと,汝、篤太郎に嘱す」としてあった。(横山健堂「趣味の人」―『中央公論」明治四十二年十二月号)
故伊藤圭介翁が、学問に志してから、歿年年九十九歳まで、筆を断たずに編んだ『植物雑纂』というのがある。
日本植物の百科全書で、一植物ごとに、和漢洋文献のその植物に関するものを集め、細かに自説を述べ、微はその植物で製った菓子の広告にいたるまでを示している。
ことごとくが自筆の稿本で、彩色図をおびただしく挿んでいる。稿本は一冊の厚さが二寸ほどで、すべてで300余冊ある。翁の歿後、真砂町に火事があったが、不思議にも消防夫が、命ぜられもせぬのに、この雑纂のある部屋を堅く守って防いだ事なきを得た。
▼令孫の篤太郎博士はその後この稿本を白山御殿の自邸に移したが、数年前にも近火があった。そこで博士は、市中はあぶないというので、滝野川の人家の稀れなところに居を移して、稿本を守っていられる。
圭介翁が百歳の賀を催す折に、拠金してこれを刊行しょうとの企があって、福沢諭吉氏が翁のためにその費用を計算したところが、約五万円かかるとのことであった。
ところが翁は九十九歳で逝いて、この貴重な稿本は、今なお稿本のままで存し、世にはほとんど知る者がない。翁は学位を授けられた。翁は男爵を授けられた。
けれども翁においては、「雑纂」の刊行と、これらの光栄と割れであろう。大正七年にまのあたりこの「雑纂」を見る機会を得た余は、つくづく現日本の学を軽んずる国だということを思うて、憤ることがはなだしい。
関連記事
-
-
『日中コミュニケーションギャップを考える』(2005/6/30)②―『中国人の行動原理とは‥』★『日中間の戦争/歴史認識のギャップ、中国人の日本観、日本イメージ』
『日中コミュニケーションギャップを考える』(2005/6/30)② …
-
-
『美しい冬の葉山海』カヤック・スペシャル(2/20)★『全く寒い1日だが、 葉山公園⇔森戸海岸。 春が近くことを感じました。
<『美しい冬の葉山海』カヤック・スペシャル!(2/20) …
-
-
『オンライン/米中日アジア現代ing講座』★『米国の香港国保法への対中制裁<経済金融為替封鎖・5Gファーウェイ締め出し>は戦争に発展するのか』★『2018/12/25 記事転載」歴史は繰り返すのか!『現在の世界情勢は1937年8月の「米欧情勢は複雑怪奇なり」(1939年=昭和14年)と類似』★『この1週間後にドイツ・ソ連のポーランドの侵攻により第2次世界大戦が勃発した★『日本は<バスに乗り遅れるな>とばかり日独伊三国同盟を締結、1941年12月、太平洋戦争に突入する』
2018/12/25   …
-
-
『Z世代のための明治大発展の国家参謀・杉山茂丸の国難突破力講座⑨』★<日本最強の参謀ー「杉山茂丸」の経済雄弁術⑦』★『細かい数字を百年の国策に取り交ぜ、談論風発、相手を煙幕に巻く』★『 その六尺近い巨体を擁し、堂々人を圧する魁偉なる容貌と、どこまでも相手を魅了せずにおかない長広舌は、まさに座談の雄者(下村海南)』
2014/03/06 日本リーダーパワー史(481)記事再録編集 ① …
-
-
平田カヤッキスト(カメラマン)の『アメリカ・ヨット・ツーリング・スペシャル!>「1週間でカナダバン クーバー島北部を島巡り」①
<『葉山海』の平田カヤッキスト(カメラマン)の 『アメリ …
-
-
『Z世代への昭和史・国難突破力講座⑲』★『アジア・太平洋戦争下」での唯一の新聞言論抵抗事件・毎日新聞の竹ヤリ事件の真相④」★『この事件のまきぞえの250名は硫黄島に送られ、全員玉砕した。』
大東亜戦争下の毎日新聞の言論抵抗・竹ヤリ事件④ 以下は新名記者が自ら語る『竹槍事 …
-
-
日本リーダーパワー史(849)-『安倍首相の「国難突破解散」は吉と出るか、凶と出るか、いずれにしても「備えあれば憂いなし」③ 』★『戦後の日本人は「最悪に備える」態度を全く失ってしまった。』★『「ガラパゴスジャパン」(鎖国的、伝統的、非科学的、非合理的な日本思考)から脱さなければ、未来(希望)の扉は開けない』★『明治維新、倒幕の原因の1つとなった宝暦治水事件』
日本リーダーパワー史(849) 安倍首相の「国難突破解散」の判断は吉と出るか、 …
-
-
日本リーダーパワー史(453)「明治の国父・伊藤博文の国難突破のグローバル リーダーシップに安倍首相は学べ」⑤
日本リーダーパワー史(453) …

