前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

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『国難逆転突破力を発揮した偉人の研究』★『勝海舟の国難突破力⑧『徳川幕府崩壊史を語る』―『2011年3月11日の福島原発事故と対比して国難リテラシーを養う』★『なに、明治維新の事は、おれと西郷隆盛と2人でやったのサ』                   

   

 日本リーダーパワー史(171)記事再録

 
 前坂 俊之(ジャーナリスト)

 

以下は「海舟座談」の一節である。明治31年11月というと勝海舟74歳の大気炎である。この2ヵ月後に、勝は亡くなる。徳川幕府の幕を引き、西郷と共に明治維新を実現した近代日本をつくった『国難を救った恩人』である。

「ナアニ、明治維新の事は、おれと西郷とでやったのサ。西郷の尻馬にのって、明治の功臣もなにもあるものか」と、歯に衣きせぬ海舟先生の『英雄論』「幕末、明治維新の直話」は江戸っ子のたんかを切る、歯切れのいい講談を聞いてるようで、爽快無比。いまのちびっこ政治家探偵団に聞かせたい。
 また、新聞の政治部ロートルに、昔の政治家の聞き書き、経済部のロ―トルにも、創業経営者の聞き書きこそをぜひ記事だけでなく、動画つきで後世に残すために是非やるべきだ。ジャーナリストは事実を徹底して検証・肉薄することが職務で、現代史の正確な記録係に徹すべきだ。

1898年(明治三十一)十一月十日の口述

 
どうしてどうして、こンな騒ぎじゃアありゃしないよ。長州征伐に薩摩が反対した時は、大久保利通に、岩下佐次右衛門、いま一人の三人で、なかなか承知しないのサ。なかにも、大久保は剛情で、征長のお請けをせぬのサ。
 
そのころは、薩州はなんだか山師のようで、どこでも信じはしないが、軍(いくさ)の入用のかかるのに困っているから、薩州に付いて出兵を断わるものがあってはならぬというところから、ひどく弱ったのサ。
 
会津はまた乱暴で、ひどく迫る。薩州を遠まきに巻いて、打殺してしまうという。紀州が総督だから、二日も早く出兵するといって、たいそうな評議で困っていたそうな。
 
 すると、将軍が安房守(勝)を呼べと仰しゃったので、急に軍艦奉行に復して召されたのサ。何事かしらんと思って行ってみると、この次第サ。大久保等三人で出兵の断り書を出したから、板倉が弱って、「お前等三人の名ではいかぬ、松平修理太夫の考でなくてほならぬ」といって下げた。すると、翌る日、張
紙をして、同じ文句で出したから、「なんぼ、なんでもひどい」と言うと、「イエ、私等は主人の代表ですから……代表という語(ことばは)なかっがね……全権ですから、こう致したのです、主人の考も同じことです」と言うて、聴かぬ。
 
それで、広橋という公卿から、また談じて、「薩州は天璋院の筋で、まるで
他人ではなし、そうひどく言わんでも、良かろう」と言うと、「イエ、それやすから申すので、一大事んだから、かように直諌するのだ」と言った。どうも、なかなか剛情で、′掛りきっているというのサ。
 
それで、おれは、そのことを聞いてから、じきに西京へ行って、第lに会津のほうへ往った。すると、殿様は、毎日、酒を倣ませられて、妾の二人も当てがわれて、病気のようになって寝ているのサ。どうも、ひどいよ。
 
殿様はもう分かっているから、そンな、ひどいことをしないのだが、家来が聴かないというのサ。「もう、お前が来てくれれば、いいから、どうか、家来のほうに説得してくれ」というのサ。
 
それで、みンなと舌戦すると言って、とうとうみんなをたたきつけてしまった。それから、岩下等のほうへいってみると、大久保は、勝が来たというので、大阪へ往って、行き違いになったのサ。
 
「モウ、あなたが来れば、どうでもいいから」と言って、ひどい折れようサ。それで、「この書付はまずおれに預けてくれ、そのうちに善くするから」と言うと、「イヤ、どうでもよい」というのサ。それですぐに片付けてしまった。
 
 それから、大阪に帰ると、なんば、なんでも、たった一日で片付いたから、サァ、疑い出したよ。なんでも、勝は何かタクラミがあるに達いないという
のサ。慶喜などほ、現に自筆で、書いてらあナ。
 
「勝はいたって、手広いから、何事をしだすかもしれません。御用が済んだら、早く還すほうがいい」というのサ。あのころは、原市というものが付いて
いてネ、あれがどういうものか、たいへん、おれを嫌いなのサ。功を嫉(ねた)むというものか、ごく陰険で、なかなかの才子だったがネ、水戸人でネ、それで、板倉がその手紙を見せたよ。
 
こちもネ、早く帰りたいほうだから、「御用が済んだら、お暇を願う」というと、将軍がモ少しおけとおっしゃるしので、ただ何もせずに、大阪の宿屋にいたのサ。板垣さんのように、すぐに怒る方だが、なかなかこれで考えてるからナ、そう容易に怒らないよ。ずいぶん、辛棒してるからノ。そのころは、いまと同じで、毎日たへんにいろいろの人が来るよ。いちいち、隠密が入っていて、名を書きとめるのサ。それはひどいったものだよ。
 
 

すると、将軍(家茂)が俄かになくなられた。

脚気衝心だったネ。城に上ってみると、だれも出て来ず、みンななんともいわず、それはそれは閉息してしまって、ひどいものだったよ。老中などが、しきりに心配して、相談ばかりしているのサ。

 

それでその中へおして這入って、「あなたがたは、何をいっていらッしやる、この期におよんで、そう愚図愚図すべきことはありますまい」と言うと、「イヤ、お跡のことを相談しているので、一日もそのことがきまらなければ、ならぬから」と言うから、「それはたいへんな間違です。天下のことは、そンなものではありませぬ、跡々のことを相談するなどとは、私どもの一家のことです。すでに慶喜公が後見職であるから、何事もこれに任せて、そのうえで万事おきめなきるが善い、あなたがたが行けなければ、私がこれから西京へ上って、慶喜公にそう申しましょう」と言った。

 
すると、板倉は感心して「なるほど、勝の言うことは、もっともだ、それより外にありません、これからすぐに参ります」と言って、その座から、西京へ行ったよ。板倉というのは、いい人でネ、よく分かるのだが、ただ断がないだけサ。慶喜は、関東のほうでも受けが悪いし、役人がみな嫌いだからネ。そのころ、慶喜はただブラリとして、何もせずにいたよ。だが、ひどいものだよ。それでいよいよ慶事が来ると、ソノみンな悪く言っていたものが送迎するからネ、実に人情のてんぷくというものは。それはひどいものだよ。

 

 慶喜はそれから急におれに油をかけやがって、

 
 「長州に談判に行ってくれ、天朝でもぜひ、お前の外にないと仰しゃるから」などと、ひどく油をかけやがった。こっちは将軍の棺を軍艦に乗せて、帰ろうという思いだったが、馬鹿馬鹿しい役を言われて、承知すまいかと思ったが、また将軍の御送葬は済まず、将軍には恩になってるから、「生懸命でやったのだが、まだ将軍のおらるると同じことだから、どうせ、長州で殺されるかもしれないが行ってみょうというので、往ったのサ。
 
  そのころまでは、長州のほうへ通りも善かったシ、長州からは大阪へたいそうの隠密で、十分手が回っていたから、何もかも知ってら漆ナ。広沢が談判役サ。聞多(井上)も小僧でいたヅけ。談がじきについてしまった。おれがそう言ったのサ。「なぜ、あなたがたのほうで、大阪に火をつけないのです、東京まで追いまくられますよ」と言ったら、「それは知ってますが、名分がありますから」と言った。よく分かっていたよ。
 
  そうヨ、兵を出すことをとめたのサ。公平な処置をするといって約束をしたのサ。ナニ、おれの考えでは、天朝に対し、大不敬だからといって、百日の
閉門くらいで済ませるつもりであったのサ。それで帰ってみると、もう、たいへんな讒侮(ざんぶ)サ。アア早く片付いたから、勝はなんでも薩長の回し者に達いないというのサ。
 
それで、どうしても行なわれないので、すぐに東京へ帰ってしまったから、長州のほうでは、売られたように思うのも、無理はないサ。
 
 

○(質問)幕府の瓦解は、お思いより、早かったですか、遅かったですか。

 
 
それは、大言のようであるが、そう言うのサ。おれの力でまったく一年延ばした。一年先に倒れるはずであったのサ。ほうぼうに引張りをこさえて、維持したのサ。
 
 瓦解の時、禄がまだなかったから、それぞれの譜代大名に言ったのサ。「お前達は、徳川が無禄になってるを、ただ見てるのか」と言ってやったら、あちこちから持って来て、二十万両ほどになったよ。
 
いまの銭にすると、二六、百二十万円くらいだがね。それを後に禄ができた時、これを返すべきものだというので、年々、千円から三千円くらいまで、いろいろの道にして返すのサ。三条さんでも私の手から三千円を出してあるシ。ほうぼうへ五百円、千円と出ているよ。まず、こンな風にしておれの一生に六十万円くらいも出してしまうとみて、それだけ
 
のものは、別にチャンとこしらえてあるのサ。久能が十万、両山で八万、保晃会も十四、五万、地所で木下川、桜木町、千駄木、日光などで、十二万円ほどあるよ。これでも、徳川にピソな悪者があるかもしれ一ぬから、チャンと、その用意はしてあるよ。
 
もし喧嘩になれば、かえって儲かるよ。みンな取上て金だけ返すからネ。明治二十年に勘定してみたら、八十万円サ。年に四万円だろう。この間に天璋院の葬式もあるし、幕臣や何かに遣ったものもあって、それで四万円ならし。その時はこう多くてはと言ったが。あとからみると、みンな驚いてしまったよ。
 
 大久保の死ぬる前だったが、「勝サンもあまり気の毒だから、なんとか、徳川氏よりするがよろしかろう」という相談になって、一人代表として言ってきたから、ひどく怒ってやった。
 
「いったい、だれがそういうことを言った、三位でもあるまい。慶喜か。大久保か。あまり人を見下げた話だ。おれは徳川氏のために使われているのではない。慶喜が涙をこぼして、ぜひお前でなくてはと言って頼むから、引受けて徳川の家をたててやったじゃアないか。もし報ゆるというなら、七十万石をこッちにおよこしなさい、あまり馬鹿にした話だ」と、えらく威張ってやった。そのおかげで、まるでオジャンで、なんにもならなかったよ。
 
 キネ川は、一万円で買っておいたのサ。千駄木でも、二千円す。それから、木を植えたが、そのころは、あまりへンピだといったが、いまではモウ少し奥に行きたいというよ。巣鴨のは、越前で、だんだんに入れて青いというから、買っておいたのサ。
 
 天璋院は、しまいまで、慶喜が嫌いサ。それに、慶喜が、女のほうはとても何も分かりゃしないと言ったのが、ツーンとじきに奥へ聞こえている示らネ。そして、ウソばかり言って、善いかげん堅責ってあるから、少しも信じやしないサ。
 八之丞サマといって、一ツ橋のあとに直る人だったが、たいそう、ワシがお気に入りで、十二までお附きだった。そのころ、隠居をするのは、一年かか
るが、親仁(おやじ)も、私を八之丞サマにつけて、出世をさせるつもりで願ったが、そのうちに死んでしまった。それで出世ができなくなって、また落ちぶれたのサ。だが、その時、後宮におって、可愛がってくれた老女などが多かったので、その後にたいそう助けになったよ。
 
西郷なども怖がっていると聞いて、えらいものになったと思って、「アt麟さんのことかイ」などと言ったよ。それで、塩煎餅だの、いろいろと持っていって、それぞれ絶えないでおいたが、それがたいそう助かったよ。
 
 和宮と天璋院とは、初めはたいそう、仲が悪かった。会いなさるまではネ。お附きのせいだよ。それで、あちらでもすれば、こちらでもというように、
張合うものだから、入費が掛って、困ってしまったのサ。大久保なども、「奥から潰れるしかたがない」と言った。
 
「困れば、私が這入ろうか」と言うたが、こンな乱暴者だから、大久保も実は心配していたとみえる。「いよいよ困る」と言うから、「そンなら、大久保サン、どうせそれで潰れると思うなら、同じことだから、巌1つ私がやってみよう」と言ぅた。「それでも、あまりせわしくて気の毒だ」と
 
言うから、「ナニ、女などにそうかかるものか」と言って、私が引受けてやったのサ。名代の乱暴者と聞いてるから、ピンなことをするかと思ったらしいが、案外のものだから、あとで、天璋院なども、そぅ言ったよ。それで、私が言うたのサ、「私は、女の尻など叩いて、威張ってる男じゃア、ありません」と言ったよ。
天璋院のお伴で、所々へ行ったよ。八百善にも二、三度。向嶋へも二度かネ。吉原にも、芸者屋にも行って、みンな下情を見せたよ。だから、これで所々に芸者屋だの、いろいろの家を持っていたよ。腹心の家がないと、困らあナ。私の姉といって、連れてあるいたのだが、女だから、立小便もできないから、所々に知って知らぬふりをしてくれる家がないと困るからノ、そのうち、だんだんと自分で考えて、アーコーとじきに自分で改革さしたよ。
 
いまでは千駄ヶ谷は、角火鉢に錦瓶が掛ってるがネ。それは、船宿で便所をかりて出ると、そこに火鉢に鉄瓶が掛って、湯が沸いてるので、お茶を言といって出したのが、たいそうケまかって、「これはいいものだ」といって、じきにそうしたのサ。その次に行ってみたら、チャーソと鉄瓶が掛ってるから、「これは下司のすることです。銀瓶が沢山ありますのですから、これをお使いなさい」と言った。「イヤ、これが善い」などと言ったよ。一柳崖に行った時だッけ、風呂に入れたら、浴衣の単物を出したが、万事心持が違うので、じきにまたそうしたよ。
いったい風呂の湯を別に沸して、羽二重でこすのだから。それに、着物もベタベタするといって、浴衣のほうが好いなどと言うようになった。シャツを見て、あれはなんというものだと聞いて、帰りにニッ三ツ買って帰ったら、じきにそれをしたよ。初めは、変だったが、もう離せないというようになった。ワシのこうもりがさ家にも二、三度来られたが、煽煽傘を杖にして来てネ、「どうも、日傘よりも好い」と言った。そソな風に、万事自分で改革をした。
 
こっちは、少しも関係しない。「それは、あまりひどい」などと言って、賞めておくばかりサ。それで、ズーッとことが改まって来たよ。後には、自分で縫物もされるしネ、「だいぶ上手になったから、縫って上った」などと言って、私にも羽織を一枚下すったのを持ってるよ。三位は、そういうふうにして育てたから、たいへん質素だよ。外に出る時でも、双子より外に着せはしなかったのサ。
 
 ア、和宮は、モ少し上品で、それで利口なのだ。徳川のほうで万事しょうとしたが、お上でなさるようになったものだから、こちらから二千両ずつあげたよ。それでも、おかくれの後にみると、チャンと取っておいて、それぞれお附きの者に下すったよ。天璋院は、万事、和宮と相談なすったよ。肥田浜五郎がそれサ。あれは、紀州の巌数の下の地面を私が買っておいて、和宮棟のために用意しておいたのサ。すると、お上で、万事なさるということになっていらなくなったのを、肥田が欲しいというから、「お前が望みがあるなら、やろう」と言って、やると、それが三、四万円になったのサ。後に肥田が来て、「こンなになりましたから、ちと出しましょうか」と言ったから、「馬鹿言え、いらないから、やったのだ、そンな金をもらうものか」と言ってやったよ。それで、あれは、あンなに金をこしらえたのサ。
 
 勝家の家禄三万五千円は、ピョコンと浮かしてしまうつもりサ。それは、妙なもので、みンながそれを頼みにするようになると、それは、いくらあって
も足りるものでないよ。そのほかに、年に千五百円だけあると、あちらこちらの寄ってるものに、十円や二十円ずつやれると思って、ひどく苦心してるの
サ。ナ一ニ、家禄だけ残して、家と地面とを売ってしまえば、訳はないがネ。そうしては、これもあれもというようになって、際限がないから、それは決してしないのサ。
 
 このl日には、辞表を持って出たが、どうも場合が悪いので、そのまま持って帰ったよ。大東のようだがノ。しかし、こンな時に、明治の功臣が、ただ
天子ばかりを苦しめるということはない、たといできんまでも自から進んで尽力するはずだと言うておいたのサ。ナニ、黒田にサ。
ナ 山県には会いやしない。樺山は出るだろうと思ってたよ。愚直の人だからナ。
 ナニ、二カ月サ。暮れはせわしい。一月は餅や酒で済む。マ二月のはじめになると、また降参サ。どうしてどうしてまだこれが初めだもの、まだなかなかこンなことじゃ済むものじゃアない。

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