知的巨人の百歳学(148)-世界最長寿の首相経験者は皇族出身の東久邇稔彦(102歳)
2019/03/31
世界最長寿の首相経験者は皇族出身の東久邇稔彦(102歳)
ギネスブックの首相
百二歳。世界の総理大臣、首相経験者の最長寿者としてギネスブックに掲載された、昭和天皇の叔父に当たる東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)について知っている人は少ないであろう。皇族軍人として半生を送り、日本の最大の危機に際して宰相として、難局に当たり、後半生は一転して皇族を離れて自由奔放に暮らして百寿を全うした飛びつきり〝異色な自由人〟であった。
東久邇内閣が誕生したのは、終戦二日後の一九四五年(昭和20)八月
十七日のこと。「終戦では降伏に抵抗する陸軍が暴発する可能性がある。天皇の威光による皇族内閣しか、軍人をおさえて、この難局は乗り切れない」と木戸幸一内府から何度も口説かれていたが、「真っ平ご免です」とガンと固辞していた。
最後に敗戦で憔悴(しょうすい)しきった天皇から「東久邇たのむ」と懇望され、「終戦の処理がすめばすぐやめさせてもらいます」としぶしぶ引き受けた。無条件降伏による国の滅亡、連合軍の進駐、占領という歴史上最大の難局に「終戦管理内閣」として引っ張り出された。
この時、東久適は五十七歳。皇族で初めて総理大臣になった例は、日本の憲政史上、後にも先にもはない。
叛骨を培った海外生活
東久邇稔彦は、一八八七年(明治20)十二月、久邇宮家(朝彦親王)
の第九子に生まれた。貧乏宮家だったため、生後すぐ京都の農家へ里子に出され父母の顔を知らずに育った。野山を元気にかけ回って、孤独な「ワンバク坊主」としてのびのびと育った。
十九歳で東久邇家が創設されて皇族の一員に。それでも自由奔放で、やんちゃな性格はかわらず、窮屈な皇族生活になって度々周囲と衝突した。明治四十四年、明治天皇との陪食を体の不調を理由に断わったため、大正天皇からきびしく叱責された。東久邇は「皇族を辞めます」(臣籍降下)と申し出てひと騒動起きた。
一九一五年(大正四)に明治天皇の第九皇女の聡子と結婚する。同九年、夫人と子供らを置いたまま単身でフランスに渡った。陸大、政治法律学校に通い、マルクスの「資本論」を読み、社会主義も勉強した。画家モネやルノアール、政治家クレマンソー、ペタンらの軍人とも交友を深めて、革命的と言っていいほど自由で人間性を謳歌した七年間のパリ生活を送った。
この間、大正天皇とはうまくいかず、大正天皇の容態悪化によって宮内省から再三帰国の要請があったが、一向に帰らなかった。皇室の殻を破るその大胆で自由な発想、その叛骨精神、国際的で視野の広い考えはこのフランス生活で培われた。
その後、陸軍軍人として大将まで登りつめたが、軍国主義に批判的で日米戦争には反対し、和平、終戦を口にして軍からにらまれた。近衛文麿や重臣から、第三次近衛内閣の後継首相に出梅を打診されたこともあったが、これは幻に終わり、東条英機の開戦内閣が誕生した。その欧米派の「皇族のホープ」束久邇がどたん場の終戦に登場したのは何とも歴史の皮肉である。
首相就任直後の八月二十七日、東久邇は「軍も官も民もすべてが総ザンゲすることが、わが国の再建の第一歩であり、国内団結の第一歩である」と記者会見で述べたが、これは戦争責任を国民に押しっけるものだ、との反発を招いた。この「一億総ざんげ」は一躍、流行語となった。
八月三十日、マッカーサー元帥が厚木に降り立った。九月十日、武装解除、戦争犯罪人の処罰など、日本占領政策を発表した。
九月二十七日、モーニング姿の昭和天皇は米大使館にマッカーサーを表敬訪問。軍服姿のマッカーサーと直立不動の緊張した天皇が並んだ写真を各紙は翌日一面トップで掲載した。この写真に驚いた山崎巌内相は朝日、毎日、読売を不敬罪で発売禁止処分にした。
これにはGHQが激怒し、「新聞・通信の制限を一切撤廃せよ」と日本政府に命令し、山崎内相の罷免、政治犯の釈放などを強くもとめたため、十月五日、つい東久邇内閣は退陣に追い込まれた。内閣史上最短の五十四日間である。
しかし、わずか十数日で国内を「降伏」で統一し、連合軍上陸にも全く危害を加えなかった陸海軍の完全武装解除を実現したその危機管理能力は高く評価された。
首相を辞めた東久邇はすぐ「臣籍降下」し、敗戦の責任をとって直宮家以外の皇族は全員皇籍を離脱すべきだ、と主張した。昭和二十二年十月の皇室改革で自ら皇籍離脱し、やっと念願の庶民になった。
-
奔放に生きた最晩年
- 東久邇は生まれた環境と、長いパリ生活によって庶民感覚に通じていた。商売にも大変熱心で新橋駅西口の闇市マーケットに皇族のまま「東家」という乾物商を開いたり、喫茶店、タバコ販売、古美術商などを次々に開店したが、いずれも殿様商売で失敗。昭和25年には新興宗教「ひがしくに教」の開祖となって世間をアッと驚かせたが、法務府から数名の使用を禁止されてこれも解散となった。しかし、ヨーロッパの皇族のように自由奔放に暮らしたのである。なった。しかし、ヨーロッパの皇族のように自由奔放に暮らしたのである。
その後、国を相手に二度も土地の訴訟を起こしたり、九十一歳の昭和五十三年には聡子夫人と死別したが、その直後には知人の女性が無断で妻の座に入籍していることが週刊誌でスキャンダルとして報じられて話題になるなど、晩年まで元気そのもので波乱万丈の人生を送った。
「最晩年は、子供や孫とは別に一人暮らし。お手伝いさんらが身のまわりの世話をするほかは訪れる人も少なく、視力もほとんど失い、終日、机に向かってラジオを聞く毎日。数年前から入院生活を続けていた」(『朝日新聞』平成二年一月二十日付)という。一九九〇年(平成2)一月に百二歳で亡くなったが、世界の首相経験者の最長寿者としてギネスブックに掲載された。
関連記事
-
日本リーダーパワー史(218)<日本亡国病―百戦百敗の日本外交を予言した西郷隆盛<外務大臣には最高の人傑を当てよ>
日本リーダーパワー史(218) <日本亡国病―その後も百戦百敗の日 …
-
『Kamakuraシーカヤック・フィッシング・ワンダフル動画日記』★『逗子マリーナ沖で、サバ、ソーダカツオ、イナダ、カワハギ、入れ食い。海は豊饒だね。最後はカモメの大合唱というフィナーレ。』
鎌倉シーカヤック/フィッシング/ワンダフル日記
-
日本風狂人伝⑮ 日本一の天才バカボン宮武外骨・「予は危険人物なり(上)は抱腹絶倒の超オモロイ本だよ。
生涯、やることなすこと、権力をからかい、既成の権威や習慣に挑戦して、筆禍や名誉毀 …
-
日本のメルトダウン(525)「人類はロボットによって二分されるのか」 「全く的外れな日本の「ドイツの脱原発を見習え」論」
日本のメルトダウン(525) ●「人類はロ …
-
★『アジア近現代史復習問題』・福沢諭吉の「日清戦争開戦論」を読む』(4)ー「北朝鮮による金正男暗殺事件をみていると、約120年前の日清戦争の原因がよくわかる」●『(朝鮮政略) 一定の方針なし』(「時事新報」明治27年5月3日付〕』★『朝鮮は亡国寸前だが、李鴻章は属国として自由に意のままに支配しており、他国の侵攻の危機あるが、緊急の場合の日本側の対応策、政略は定まていない』★『北朝鮮リスクとまるで同じ』
★『アジア近現代史復習問題』 ・福沢諭吉の「日清戦争開戦論」を読む(4) 「 …
-
『日米戦争の敗北を予言した反軍大佐/水野広徳③』-『その後半生は軍事評論家、ジャーナリストとして「日米戦わば、日本は必ず敗れる」と日米非戦論を主張、軍縮を、軍部大臣開放論を唱えるた』★『太平洋戦争中は執筆禁止、疎開、1945年10月に71歳で死亡』★『世にこびず人におもねらず、我は、わが正しと思ふ道を歩まん』
日米戦争の敗北を予言した反軍大佐、ジャーナリスト・水野広徳③ &nb …
-
『日本敗戦史』㊱『近代最大の知識人・徳富蘇峰の語る『なぜ日本は敗れたのか➁』「リーダーシップ・長期戦略の欠如」
『ガラパゴス国家・日本敗戦史』㊱ 『来年は太平洋戦争敗戦から70年目―『 …
-
『リーダーシップの世界日本近現代史』(279)★『新型肺炎の国家リスクにどう対応するか」★『 帝国ホテル・犬丸徹三が関東大震災で示した決断/実行力 に学ぶ>
2011/04/03 日本リーダーパワー史( …
-
福沢諭吉の「韓国独立支援」はなぜ逆恨みされたのかー<井上角五郎は韓国王から信頼され外衛門 (外務省)顧問に任命された>④
「日本開国の父」『アジア開国の父』の福沢諭吉 の義侠心 …
-
日本メルトダウン脱出法(798)「もはや経営危機」東芝5500億円赤字の衝撃度』●「親族の資産隠し疑惑で習主席の反腐敗運動に陰り?」●「シェアリングエコノミーの旗手が語る 工業資本主義の終焉と気候変動問題」
日本メルトダウン脱出法(798) 「もはや経営危機」東芝5500億円赤字の …
- PREV
- 日本リーダーパワー史(973)ー『イチロー引退』★『日本最高のプロフェッショナル』★『「イチローに最大の敬意を払う。彼の球界における国際的なインパクトは殿堂入りで締めくくられるだろう。常にプロフェッショナルで、常に素晴らしい。引退後の人生が素晴らしいものになりますように」』★ <イチロー記事一覧>
- NEXT
- 日本リーダーパワー史(974)ー『中国皇帝の謁見儀式と副島種臣(初代、外務大臣)の外交インテリジェンス➀『中国の近代化を遅らせた中華思想の「華夷序列・冊封体制」の弊害が今も続く』★『トランプのプロレス流、恫喝、ディール(取引)外交は対中国の旧弊行動形式に対しては有効な方法論である』