『1949(昭和24)年とはどんな時代だったのか』
2016/02/02
2007,10,01
1949(昭和24)年とはどんな時代だったのか
占領からの脱出、政治、経済の自立へ(昭和24年)
前坂俊之(静岡県立大学国際関係学部教授)
①共産主義の防波堤に、吉田内閣安定に
GHQ(連合国総司令部)による五年間の占領でほとんどの対日占領改革は成し遂げられた。1949年(昭和24)一月、戦後三度目となる総選挙を前に、マッカーサーは「日本の民主化は終了し、今年は経済の安定に取り組む年である」との年頭所感を発表、対日占領政策の転換を示唆した。その中で「労働者には様々な負担がかかるが、それは避けられない。だからといって安易にストライキは許されない」と釘を刺した。
こうした発言の背景には国際的には米ソ超大国による冷戦の激化、アジアでは中華人民共和国の誕生(1949年10月)、朝鮮民主主義人民共和国、ベトナムなどの共産主義の台頭によって、アメリカは中国、アジアでの優越的な地位を失なった点がある。共産主義の波がドミノ的に周辺国や日本に及ぶことを恐れた。米国はヨーロッパにおけるドイツ、極東における日本の2大敗戦国の経済を安定化することで共産主義の防波堤を作る世界戦略を作成し、アジアでは日本・韓国・フィリピンなどを反共国家としてソ連・中国・北朝鮮を包囲する。そのためには日本の経済再建と一刻も早く独立させる必要があった。
すでに前年から米国の対日政策の転換は始まっていた。ロイヤル米陸軍長官は「日本を共産主義進出阻止の防壁とし、アジアの工場再建すべき」と米政府に提言、同政府は具体的な政策プログラムに着手、その主なものが対日講和条約の締結であり、日本の再軍備ともいえる国家警察隊の組織、さらには経済安定九原則の指示(※4)や対日援助の増大など、経済の安定化であった。これらを米国側から強く要求と期待が日本側に突きつけられた。
国内政治では一九四八(昭和23)年に吉田内閣が成立するが、少数与党で安定せず、その年の十二月に内閣不信任案が可決されてしまう。吉田はすぐに衆議院を解散し、翌年の四九年一月に総選挙に打って出た。この時の総選挙は激烈を極めて2当1落(二〇〇万円使えば当選、100万円では落選する)といわれる金権選挙のはしりとなった。また、『三バン』 (選挙戦で当選するには『ジバン』(地盤)、『カンバン』(看板=肩書)、『カバン』(鞄―金)の三つのバンが必要条件という意味)が流行語ともなった。
選挙結果は、吉田率いる民自党が解散時から一一二増の二六四議席を獲得して過半数を大きく超えた。池田勇人、佐藤栄作、前尾繁三郎らの高級官僚が多数当選した。逆に、連立三党の社会党は一一二議席から四八議席へと大幅に議席を減らし、民主党も九十から六九議席に後退、国民協同党も半減し、中道三派は惨敗した。こうして第三次吉田内閣が成立したが、吉田首相の貴族趣味の白タビに英国紳士風の葉巻をふかしながら政治を牛耳っていくスタイルを、人々は『ワンマン』『白タビ』とニックネームで呼び、以後六年間におよぶ長期保守政権の幕あけとなった。
②共産党の大躍進・・革命前夜か、という雰囲気に
一方、この総選挙で共産党は四議席から三十五議席へと大躍進した。これを追い風とみて「吉田内閣打倒と民主人民政権の樹立」を叫び、支持・支援を国民に訴えた。
折りしもドッジ・ラインの実施で、日本経済は安定化にむかったものの、中小企業はバタバタと倒産が相次ぎ、民間企業や政府系企業では厳しい人員整理が行われた。
政府やGHQに対する不満は爆発寸前まで高まり、その反動として共産党支持が拡大した。そんな時、ソ連によるシベリア抑留者でされ、共産主義に洗脳された「赤い引揚者」約2000人が引き揚げ船『高砂丸』などで舞鶴に入港、肉親の歓迎を拒否し、インターナショナルを歌って気勢を挙げて共産党に集団入党するなど、『革命近し!?』という異様な熱気に包まれた。「われわれは筋金入りのコミュニストだ」と発言し、『筋金入り』「つるし上げ」(反動的な言動にたいして糾弾すること)などが流行語となったが、合計9万5千人がソ連から引き上げてきた。
この状況をマッカーサーと吉田内閣、財界は危惧した。吉田はGHQの指示によって、前年には強大な公務員組織の力を削ぐため、スト権否定を法制化、49年は本格的に共産党勢力の厳しい取締り対策を次々と講じていった。
同年四月、政府は「団体等規制令」を公布。左翼団体・個人にも取り締まり対象に拡大、法務省に団体役員や構成員の氏名のなどの登録を義務づけた。この新政令で共産党は有力党員を登録したため、翌50年から本格化するレッド・パージ(のターゲットにされた。
団体等規制令の制定を受け、東京都や各自治体では「公安条例制定」が相次いだ。デモや集会の事前の届出を義務づけ、公安委員会の許可を必要とする内容で、労働運動への規制を狙ったものであった。
同年五月、「行政機関職員定員法案」(いわゆる「定員法」)が国会を通過、約29万人の行政整理を発表。旧軍人の復員と外地からの引き揚げ者で約六十万人にもふくれあがった国鉄と、全逓(全逓信労働組合)の労働者を整理するのと組合幹部を狙い撃ちする意図もあった。
六月一日、初代の総裁に下山定則が就任し、国鉄は国営から公共企業体として独立採算制のもとスタートした。
「定員法」に対して国鉄や組合も猛反発した。国鉄労組のストライキが多発し、「人民電車」事件や列車妨害事件が頻発した。国鉄と当局の激しく対立。全逓、全官公労組、国鉄労組合も同調し、日本製鋼所、東芝製作所でも争議が起こった。
共産党は拡大中央委員会を開き、徳田球一書記長は「吉田内閣を九月までには倒す」とのいわゆる「九月革命」を叫ぶ。六月三十日、福島県平市で、共産党支持者と警察の間で衝突し赤旗を掲げて警察署を占拠すると騒乱事件の「平事件」が起こった。相次ぐ騒乱、列車妨害の事件で社会的な不安がピークに達した。
③列車恐怖時代に突入
ここで『戦後3大謎の事件』といわれる下山事件(七月六日)三鷹事件(七月一五日)、松川事件(八月一七日)の恐ろしい事件が相次いだ。この他にも悪質な列車妨害事件が続出し、七月一〇日までに六八六件、犯人の捕まった150件のうち、二〇名までが前国鉄職員で動機は首を切られた恨みだった。国民は『列車恐怖時代』と恐れおののいた。
○ 下山事件
七月一日、国鉄は九万五千人の首切りを組合に通告、四日、第一次分三万七千人の首切りを発表した。その翌五日に事件は起きた。下山定則総裁が出勤途中、「買い物をする」と日本橋・三越に寄った後、行方不明となった。六日深夜、常磐線綾瀬駅付近でバラバラの轢死体として発見された。
捜査の結果、五日の夕方、現場付近で下山に似た男性を目撃した人物が十七人もおり「元気なく歩いていた」と自殺を匂わせる内容だった。さらに現場から約一キロ離れた旅館に、「下山らしき人物が5日午後、3時間ほど滞在した」との証言も得られた。
遺体を解剖した東大法医学教室は、死後轢断の可能性、すなわち他殺説を示唆した。生活反応が認められない、靴底に付着した土が現場付近のものでない。眼鏡やライターなど所持品が轢断現場から発見されなかったーなどから別な場所で死亡(自殺か他殺かは不明)した下山の遺体を、何者かが現場に運んだ可能性も浮かんだ。
『朝日』など新聞の多くは「他殺説が決定的 特別捜査本部を設置」などの大見出しで、他殺説をとり、最高検察庁も「他殺」を意味する「死後轢断」と公表した。警視庁の捜査本部では自殺、他殺の両面から捜査が行われたが、決定的な証拠を得られないまま八月四日、自殺として事件を締めくくり、捜査本部を解散する。
しかし、その後も他殺、『毎日』は自殺説をとり、両説をめぐって、警察、検察の捜査陣も新聞、マスコミも2分して謎の事件の究明が続けられる。松本清張は小説で、CIAがからんだ謀略、他殺説を指示した。国鉄の人員整理とその反対闘争の最中に起こったこの事件は続く三鷹、松川事件とともに労働運動に打撃を与え、国鉄労働組合は、すっかり気勢をそがれた。
○ 三鷹事件
下山事件から1週間後の七月十二日、国鉄当局は第二次整理分六万三千人の首切りを通告した。対応をめぐって国鉄労組は十五日分裂した。その日午後九時半ごろ、中央線三鷹駅で七両編成の無人電車がまま暴走、ホームの車止めを突破、駅前交番を破壊して商店街へと突っ込み、乗客ら六人が死亡、二十人が負傷するという惨事が起きた。翌日、吉田首相は「最近の社会不安は共産主義者の煽動によるもの。人員整理は国家のために必要」との声明を発表した。
警察当局は国労の共産党員らの共同謀議による犯行と見て共産党員九人と非党員の竹内景助の計十人が逮捕されたが、一審では「共産党員らによる共同謀議説は捜査官らが作り上げた『空中楼閣』であり、竹内一人の犯行である」として、竹内に無期懲役を、他の全員に無罪判決が下った。控訴審では竹内を無期懲役から死刑に変更。最高裁でも八対七の一票差で竹内の死刑が確定した。竹内は無実を主張しつつ、1967年に獄中で病死、事件は故意によるものか、事故なのか、謎に包まれたままとなった。
下山、三鷹事件という血なまぐさい列車事件が続く中、国鉄の第三次整理として国労の指導者の解雇通告が行われ七月二十日、吉田内閣の念願だった国鉄の大人員整理は完了した。
○ 松川事件
三鷹事件から約一ヶ月後の八月十七日深夜、東北本線の青森発上野行の上り旅客列車が、福島県松川駅に近いカーブで脱線・転覆、機関士、助手ら三人が死亡した。レールの継ぎ目やボルトが取り外されていた。翌日、増田甲子七官房長官は「集団組織による計画的な妨害行為と推定され、三鷹事件などと思想的底流は同じも」との談話を発表した。
捜査当局は、三鷹事件と同じく国労福島、東芝松川工場の労組幹部の共同謀議によるものとして各十人を逮捕、起訴。第一審は死刑五人、無期懲役五人を含む全員有罪。第二審は死刑四人、無期懲役二人を含む十七人が有罪。最高裁では「原審破棄、差し戻し」となり、仙台高裁で「全員無罪」の判決が出され、最高裁で無罪が確定した。
作家の広津和郎らが第2審の段階から「松川事件は冤罪事件である」として救援活動に立ち上がり、大衆的な裁判闘争の盛り上がりによって最高裁の差し戻しややり直し裁判に無罪判決に大きな影響を与えた。
三鷹、松川事件は謎につつまれたまま迷宮入りし、結局、3大事件は労働組合や、共産党などに大きなダメージを与えた。昭和23年には労働争議参加者六七一万人であった、翌年には三三一万人と半減、さらに25年には二三五万人と3分の1に落ち込んだ。組合組織率も24年六月の六六五万人が、25年には五七七万人とダウンしてしまう。国鉄のみならず中央・地方の官公庁、公団の六十二万人の首切り、民間企業四十三万人の整理も抵抗なく進んだ。翌50年には追い討ちをかけるようにレッド・パージの嵐が吹き荒れることになる。
④竹馬経済時代からドッジ・ライン不況へ
ところで、経済はどうなっていたのか。戦後のどん底からすこしずつ脱し始めていた。戦後4年目で庶民の生活は戦後の焼け跡、廃墟の中のドン底からは脱し始め、衣食住は好転し始めた。男は国民服、軍隊服に兵隊靴、女はもんぺというそれまでのスタイルもだんだん少なくなり、衣料切符制度(25年に廃止)もなきに等しい状態であった。食生活も輸入米の増加、料飲店の再開、食料統制の撤廃によって外食権なしで、飯を食べられる。戦後すぐの栄養失調、買出しというてんやわんや時代は過去のものになりつつあった。しかし住生活はまだまだであった。引揚者で人口が増えたのに対して、住宅の新築はすすまず、住宅不足は深刻であった。
一九四九年二月、トルーマン大統領の特命を受けてGHQの経済顧問としてジョセフ・ドッジ公使(デトロイト銀行頭取)が来日した。
ドッジは敗戦後の西ドイツの通貨政策を成功させた男で、日本経済の再建のために派遣された。ドッジ公使は『日本経済は足が地についていない竹馬経済であり、竹馬の足を切って自分の足で自立すべきである』と警告。「日本経済はアメリカの接助と国内のさまざまな補助金の二本の足でやっとたっており、両足を地につけず竹馬にのっている。竹馬を高くすると転んで首を折る」と診断して、「自立経済を達成するには、竹馬を切り落とさなければならない」とのきびしい態度を示した。この「竹馬経済論」が一躍、流行語になった。
ドッジは3月7日、昭和二四年度の財政予算にあたって次のような荒療治(いわゆるドッジ・ライン)を日本政府に指示した。その内容は①超均衡予算の編成-各年度ごとの財政収支を均衡させ、いままでの国債の大幅な償還と、デフレ黒字予算を組む②価格差補給金や損失補給金など、政府の補給金の思い切った削減、③復興金融金庫の新規貸出しはすべて打ち切り、国の一般会計から従来発行された復金債を償還する④対ドル単一為替レートを設定し、かくれた貿易補給金をいっさい打ち切る、⑤アメリカからの対日援助物資の見返り資金を重要産業向けの設備投資資金などへ運用することーによって悪性インフレを退治して、自由貿易を促進するーなどであった。(内野達郎『戦後日本経済史』講談社学術文庫(昭和53年刊)
このドッジの命令に従って予算作りを担当したのが吉田学校の優等生・大蔵大臣の池田勇人である。池田は大蔵省主計局長を経験した予算作りのベテランだが、そこを見込んで吉田が引っ張って議員に当選、いきなり大蔵大臣に抜擢した。その池田もあまりにも厳しいドッジの命令と、国内の反ドッジ勢力の板ばさみに悩まされ、一度は辞職を考ええる。しかし、吉田に説得されて再びドッジの命令する予算作りを敢行、予算を成立させた。
4月25日から米政府の強い意向で1ドル360円の単一為替レートが実施された。事前の日本政府の積算、予想では330円となっており、若干の円安となったことが貿易収支にはプラスに働いた。さらに5月12日には、GHQによって東京、大阪、名古屋3取引所の再開が許可され、占領経済から自由経済へと大きく舵を切った。ドッジラインは悪性インフレを克服するための荒治療として大きな効果を発揮した。
同年五月、アメリカから税制改革のためカール・シャウプ(コロンビア大学教授)を団長とする使節団が来日する。ドッジラインによる経済安定化を税制面から助ける目的で、8月にGHQにシャープ勧告をおこなった。所得税中心主義の徹底、資本蓄積のための減税、法人税の減税、大衆課税の強化、補助金制度の見直しなど、国の負担を地方へまわし、地方税を二倍にするなど従来の税制を抜本改革するものだった。50年の予算編成で即実行を吉田内閣にせまった。
ドッジ、シャウプの2大カンフル剤としての強力なデフレ政策によって通貨は縮小の方向に流れが変わり、戦後インフレは急速に収束していき、翌五〇年に消費者物価は七・二%下落する。また、昭和24年には戦後経済を管理してきた経済統制も急速に撤廃され、自由経済への移行も進んだ。
「金は出さず回収する、輸入は高く、輸出は安い」-企業は深刻な資金不足に襲われ、整理・倒産が続出し、日本経済は一転してデフレ状態に陥っていく。合理化に迫られた企業は、設備の合理化をはかる資金的余裕はなく、勢い人員整理によって失業者があふれた。一九四九年二月から翌年六月までの民間企業での人員整理は四0万人にも及んだ。とくに緊縮財政を義務づけられた政府関係企業の場合、人員整理はより厳しく、これに対する強い反発が起きた。
このように、昭和24年の経済は『竹馬経済時代』から『ドッジライン不況』へ急転した年と捉えることができる。ドッジラインショックで、年後半にはインフレはおさまりだしたが、こんどは一転してデフレの谷間に落込み、どこもかしこも金づまりの世の中になった。
街を歩くと値下げや投売りの看板がやたらと目につく。値下げのトッブは衣料品で昭和二四年春には一万二〇〇〇円もした背広が、ドッジライン実施後の二五年春には四六〇〇円にと3分の1に急落。金づまりで中小企業は、事業を続けていくためには、原価割れでも注文にも応じて、生産を切らさないため『自転車操業』に追いまくられた。この自転車操業という流行語が生まれたのもこの年だった。「亭主の小遣いを減らす、これすなわち我が家のドッジライン」と皮肉られた。
長く失業対策の代名詞ともなった『ニコヨン』という言葉ができたのもこの年で 、昭和二四年六月、東京都は失業対策事費の日当を二四五円と決定し100円札二枚10円札四枚というところからニコヨンが日雇い労務者の代名詞となった。その後日当は上がったが、エコヨンの名は固定化した。
11月に中小企業の金詰りに乗じてできた東大生のヤミ金融として話題となった『光クラブ』山崎晃嗣社長(二七歳)=東大法学部学生=が服毒自殺したのがこの時代を象徴したアプレ犯罪のはしりだった。
また、11月には現在の交通ルールと同じ、対面交通方式に切り替えられ「人は右、車は左」の交通標語が実施された。
⑤日本人を勇気づけた明るい話題
・古橋広之進の快挙
暗いニュースが続く中で、海の向こうから日本人を勇気づけるビッグニュースが飛び込んできた。八月五日、アメリカ・ロサンゼルスで開かれた全米水上選手権で、古橋広之進は四〇〇、八〇〇、一五〇〇メートル自由形に出場、すべてに世界新記録をマークして優勝するという快挙を達成した。
前年のロンドンオリンピックは、日本は敗戦国のため参加できなかった。しかし、国内大会では古橋と橋爪四郎は競い合って世界新を連発していた。ところが、「日本のプールは短いのだろう」「日本の時計は遅くはないか」と海外の見る目は冷たかった。このため、戦後はじめて参加を許された国際競技で古橋らはその実力をいかんなく発揮、米マスコミから「フジヤマのトビウオ」のニックネームをつけられたが、敗戦のショックからまだ立ち直っていない多くの日本人に勇気と感動を与えた。
・ノーベル賞に輝いた湯川秀樹
古橋らの快挙の余韻も覚めぬ十一月、さらに大きなニュースが飛び込んできた。日本人初となる湯川秀樹のノーベル賞受賞(物理学賞)である。
湯川は地理学者の小川琢治の三男。京都帝国大学地理学教授の父のもと京都で育ち、京都帝国大学に進み、生涯の友・朝永振一郎(後にノーベル物理学賞受賞)と出会う。京都帝国大学理学部物理学科を卒業して母校の副手となり1932年に湯川スミと結婚、湯川姓となった。
34年、重力、電磁力とは異なる新しい「核力」を媒介するものとして、中間子の存在を発見、翌年「素粒子の相互作用について」と題する論文にまとめた。37年、アメリカの物理学者アンダーソンが宇宙線中に未知の粒子を発見し、湯川理論は世界の注目を集めたが、その検証と理論の発展は戦争で中断された。
湯川理論が証明されたのは戦後で、1947年にイギリスで二種類の中間子の存在が確認され、その一つが湯川粒子と判明した。湯川理論は未知の素粒子の存在を理論的に予言し、新しい素粒子論を物理学の分野に切り拓くのに大きな功績を残した点が高く評価され評価され、ノーベル賞受賞に結びついた。
・野球熱の高まり
生活が徐々に安定し、スポーツを楽しむ余裕も生れた。日本のプロ野球が再開したのは四十六年四月。赤バットの川上哲治(ジャイアンツ)、青バット大下弘(セネターズ)らの人気に牽引され、国内プロ野球球団もしだいに整備されつつあった。そうした中、フランク・オドール監督率いるサンフランシスコ・シールズ(三A)が十月に来日、全日本などと計六試合を戦い、大変な人気を博した。
このシールズとの試合中、日本人の関心を集めた飲み物が「コカ・コーラ」である。コカ・コーラは大正時代から販売され、戦後も米軍基地での一部の日本人はすでに知っていたが、一般に向けに販売されたのはこれが初めて。豊かな国アメリカの代名詞としてその後、コカ・コーラは爆発的ヒット商品となって日本に浸透していく。
この年の十一月、プロ野球が二リーグ制として発足した。毎日新聞社をはじめ、近鉄、西日本新聞社、大洋漁業、広島、西鉄などが新球団結成に名乗りをあげ、この新球団の加盟をめぐり、「これ以上球団を増やせば経営が困難になる」と巨人、中日、大洋が反対に回ったに対し「広く門戸を開くべきだ」と、阪神、南海、大映、東急、阪急が賛成、結局、セントラル野球連盟(巨人、阪神、中日、大洋、広島、国鉄)、太平洋(パシフィック)野球連盟(毎日、南海、東映、西鉄、阪急、近鉄)に分裂、翌五十年春から二リーグ制としてスタートする。
・映画、レコードで大ヒット「青い山脈」 ひばりデビュー
この年にヒットした歌謡曲は「三味線ブギウギ」(市丸)、「月よりの使者」(竹山逸郎・藤原亮子)、「銀座カンカン娘」(高峰秀子)、「長崎の鐘」(藤山一郎)、「かりそめの恋」(三条町子)、「トンコ節」(加藤雅夫・久保幸江)、「玄海ブルース」(田端義夫)など。
映画では「晩春」(小津安二郎監督、原節子主演、松竹)、「野良犬」(黒澤明監督、三船敏郎主演、新東宝・映画芸術協会)、「お嬢さん乾杯」(木下恵介監督、佐野周二、原節子主演、松竹)、「女の一生』(亀井文夫監督、岸旗江主演、東宝)、『静かなる決闘」(黒澤明監督、三船敏郎主演、大映)などがヒットし観客を集めた。
こうしたなか、映画、レコード共に最大のヒットを飛ばしたのが「青い山脈」である。朝日新聞に連載された石坂洋次郎の小説を、東宝が映画化。監督の今井正と脚本は初めての井出俊郎が共同で書き上げた。封切り前の東宝社内での評価は散々で、「素人の書いた掛け合い漫才の台本で、つまらない映画を作ったものだなと酷評された。試写室はまるでお通夜のような雰囲気で、私は腹を切って死にたいと思った」と井出は語る。
ところが、いざ映画館にかかると空前の大ヒット。服部良一の作曲による軽快な主題歌(唄・藤山一郎・奈良光枝)も爆発的ヒットとなった。大衆は敗戦、焼け跡の貧しい現実を吹き飛ばす底抜けに明るい元気な青春映画を求めていたのである。(「証言の昭和史7 講和への道より 学研」)。
戦後歌謡界の女王・美空ひばりが彗星のごとくデビューしたのもこの年である。松竹映画「踊る竜宮城」の主題歌「河童ブギウギ」がデビュー曲となった。同年の秋の主演映画「悲しい口笛」の主題歌が大ヒットし、十二歳の可愛いアイドルは一躍、スターに。この不世出の天才少女の出現は「百万円の宝くじをひきあてたみたいだ」と関係者を大喜びさせた。
文壇では芥川賞が復活した。戦没学生の手記「きけわだつみの声」や放射線障害で死の床にあった長崎大学教授、永井隆博士の「この子を残して」「長崎の鐘」などが若者の共感を呼び、ベストセラーとなって映画や歌にもなった。
また、世間をあっと驚かせたのが雑誌「夫婦生活」の発売だった。創刊号は七万。即日売り切れで直ちに二万部を増刷する人気ぶり、特集記事は「不感症と不能症の治し方」「性の若返り」などで、戦後の性のタブーからの開放や男女平等の社会を反映したものだが、その後も「新夫婦」「夫婦読本」などの類似本も出版されるが、長くは続かなかった。
(つづく)
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