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地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

<『英タイムズ』がみた『坂の上の雲』への道>―今こそ、第3の鎖国を解き、アジア太平洋海洋国家へ飛躍せよー

      2015/01/01

<『英タイムズ』がみた『坂の上の雲』への道―>
―今こそ、第3の鎖国を解き、アジア太平洋海洋国家へ飛躍せよー
 
『英 タイムズ』(1906(明治39)年1228日付記事
 
 
<タイムズが報道した海洋国家日本の歴史の概要とは・・>
   日本は海洋民族による海洋国家である。
   大型船を作れず、モンゴル軍に敗れた。
   秀吉時代は大型船を建造し、東南アジアに広く進出、鎖国の兆しはない。
   日本初の公式使節団がポルトガル船に便乗してローマを訪れた。
   キリスト教の布教に政治的な下心と宣教師の不謹慎な言動があり、キリスト教は日本人
の疑惑と反感を買った。
   日本人は安寧のために,この外来のキリスト教の信仰を禁止した。
   以後2世紀半にわたり日本に排外感情が行き渡り、外国との交通を一切禁止,150トンを超
える船を禁じ、海外雄飛は完全に終息した。
   18531(嘉永6年)9月に外航船建造の禁制が解かれ,243年後に,徳川政府自らが西洋型
帆船「鳳凰丸」を建造した。
   岩崎弥太郎の三菱の海運業を大久保利通がヨーロッパ視察の後、商船隊の育成、海運
奨励なくして国家の発展はないと全面的に支援した。
   強力な軍隊を海を越えて-とりわけ朝鮮に向けて一活用する手段を備えていなければ、
国を脅かす不測の事態に対処できないとの危機感があった。
   日清戦争では日本は海を越えて20万の軍隊を送り込むため,その補給を確保で国内の
商船隊を総動員した。
 
 
『日本の商船隊はについてイギリスの脅威となるのか』 
『英 タイムズ』(1906(明治39)年12月28日付
 
(タイムズ本紙東京通信員記事)
 
近ごろ,極東の海運業の王座を奪おうと,日本側が新たな意図を抱いていることがしきりに話題になっているので,はたしてそのような計画が実際にあるのかどうか,もろもろの記録に照らして検証してみるのは,決して無駄なことではない。
 
 日本人は,昔から一貫して航海に長じた国民だった。海洋に乗り出そうとする日本人の進取の気象を阻んだのは政府の鎖国政策だ。それは,外国が宗教の布教という衣をまとって領土的な野心を遂げようとしているのではないかという,政府の疑惑から生まれた政策だった。
 
したがって,日本の商船隊が現在のような状態を示しているのは,一般には日本の近代の進展に伴うできごとと見なされているが.実のところは.日本人古来の進取の精神の復活を意味するものなのだ。
自らの国民性のそうした側面を論じる場合に,日本人自身ははるかに遠い昔にさかのぼる。そして.天皇の王朝の創始者は海賊の一族で,海伝いに日本にやって来て王国を建設したという伝説を受け入れ,そのことを記している6世紀末以前に編まれた年代記を信じている。朝鮮は,これまでたびたび日本の海外事業の舞台となってきた。
 
中国との間に海上交通が存在したことも間違いない。それは.相互の使節派遣から始まったもののようだ。そういう外交使節団の中にはかなり大型のものもあり、使節の一行に多数の僧侶,留学生,軍人らが加わって総勢1000人にも達した例もある。

それに応じて輸送のために大型船の建造も必要になった。こうして海上の大交通路ができあがり,それを経由して中国の美術,産業,文明の成果が日本に伝わっていった。しかも中回だけにとどまらず,さらに西方の国々の文物もこのルートをたどった。

 
記録によれば,9世紀には日本の皇室の親王が20年を費やして,中国帝国とインド.ビルマを旅している。それでもなお,歴史の示すところでは,日本人は船の建造にかけては大陸の隣国人たちには及びもっかなかった。
13世紀にモンゴルのタタール族が日本に侵入を試みたときに,日本人は敵の大型軍船に対抗できるだけの船を全く持ち合わせていなかっな。勇猛心を奮い起こして見事な武人ぶりを発揮し,折からの暴風雨にも助けられてモンゴルの艦隊を撃破しはしたが,船に関しては大いに見劣りしていた。
 
この事件から,日本人が海洋国民として飛躍する目覚ましい一歩が芽生えた。何といってもモンゴルに大勝を収めたことで海外雄飛の欲望をかき立てられ,軍神の名にちなんで「八幡船」と呼ぶ軍船の建造に取りかかったのだ。この船は半ばは略奪,半ばは交易という多面的な航海目的にかなう偽装を備えた日本人を「恐るべき船乗り」に仕立て上げて.朝鮮,
中国,ルソンはおろか,シャムの人々まで震え上がらせた。
 
それでも,たとえ日本人が気力と勇猛さで他にぬきんでていたにもせよ.軍船の建造者としてはなお後れを取っていた。その証拠に.16世紀に秀吉が朝鮮に侵攻したとき,陸戦で勝ちを収めながら究極の勝利を固められなかったのは制海権を失ったことに原因があった。
 
その秀吉は,古今東西を通じて屈指の政治家で,外国との交易の推進に全力を傾倒した。海外貿易に従事する船には自ら署名した免許状を下付する制度を設けたが,その免許状には色鮮やかな朱印が捺してあったので,それらの貿易船は「御朱印船」と呼ばれていた。
 
記録に残されたところでは,ある時期.この朱印状の下付を受けた貿易船は126隻にも上った。その内駅は,シャム貿易に従事する船が35隻,ルソン向けが30隻,コ一チシナが26隻,カンボディアが22隻,アンナンが13隻となっていた。海外進出熱の盛んだったその当時,数千人の日本人が朝鮮に移住した。

ルソンには300人が植民地を建設し,シャムでも大きな成功を収める一方,中国では上海・蘇州、杭州に大きな足場を築いていた。

 
その当時の時代精神を如実に物語るもの上して,秀吉の後を継いで将軍たちの徳川王朝を創設した家康がルソンの総督に書簡を送り,スペイン船の日本来港を要請したという事実がある。
その時代の日本人には,鎖国の気運の兆しとなるようなものはなにひとつ認められなかった。
 
16世紀の後半には,後に19世紀にまた繰り返されて重要な結果をもたらした1つの企て-つまり,青年たちをヨーロッパに留学させるという試みが始まり,その数年後、日本の初の公式使節団がポルトガル船に便乗してローマを訪れた。
しかしながら,日本人が大洋を航海できる船を初めて建造できたのは,さらに後年の1610年のことで,その建造技術の開発に手を貸したのがイギリス人のウィル・アダムズだった。
 
アダムズは乗船が難破して日本の海岸に漂着し、そこに永住の地を見出すとともに,家康という寛大なパトロンに恵まれた。ともあれこのイギリス人の設計図に基づいて2隻の
船が建造されたのだ。船は多数の京都の商人を乗せてアカプルコまで運んだが,一行はニュースペインの総督あての書簡を携えていた。こうして,アカプルコは日本人の太平洋横断航海の目標地点となった。
 
その4年後,仙台の封建領主が徳川政府の裁可を得て大型船に何人かの家臣を乗せ、ローマに向けて送り出した。この船もまたアカプルコに向けて航海し,使節一行はそこから陸路を旅して大西洋岸に出ると.スペインの船に乗った。
これを先例として見習い会津の封建領主も4度にわたって海外に使節団を派遣したと言われるが.記録は単にその事実を記しているのみで.詳しいことは何も記載していない。
 
 こうした外部世界との接触と交流の試みがもしそのまま継続していたなら、歴史は全く違うコースをたどっていただろう。しかし,キリスト教の布教活動がきっかけとなって,海外との交流に決定的な中断が生じた。キリスト教の布教に政治的な下心がつきまとい,宣教師たちに不謹慎な言動があったことも災いして,キリスト教は日本人の疑惑と反感を買った。
 
日本人は,自国の独立の確保とは言わぬまでもその安寧のために,やむなくこの外来の信仰を禁止せねばなるまいと考えたのだ。ここでキリスト教禁制の一部始終を蒸し返す必要はないが、何もキリスト教だけに責任があったわけではないことを付言しておくのが妥当というものだ。
 
日本の市場に足しげく訪れた外国商人の間の対抗は,互いに術策をめぐらして激しく相争う結果となった。その見境のないやり口は,オランダの独占を確立するのがさしあたりの狙いだったとはいえ,以後2世紀半にわたり日本に排外感情が行き渡ったことに対し.一半の責任は免れないはずだ。
 
先に見た通り,外航船の建造を奨励して外国貿易の拡大を推進した家康だったが,今や外国との一切の交通を禁制とし,150トンを超える船の建造を禁じていた。
それ以後,海を渡って雄飛を図る活動は,いくつかの気まぐれな内密の事業を別にすれば,完全に終息してしまった。
 
そして,それから200年以上もたって外国との交通が公式に再開されてから,日本人の海洋志向はようやく息を吹き返すことができたのだ。1853年の9月に外航船建造の禁制が解かれ,あのウィル・アダムズの2隻のバーク型帆船が進水してからちょうど243年後に,徳川政府自一らが西洋型帆船を建造し,いみじくも不死鳥にちなんで「鳳凰丸」と命名して,新たな門出を際立たせた。
 
それから数年して,長崎に製鉄所の完成を見たのをはじめ,神戸に海軍操練所と造船所.製鉄所が.また横須賀にも造船所が開設されたが,その横須賀は日本のポーツマスとなる運命を負っていた。
 
注目に値するのは.横須賀のとの大造船所の建設が.当時すでに崩壊に向けよろめいていた徳川政府の一官僚の手で,断固として遂行されたということだ。
 明治の王政復古が1867年に既成事実となったとき,帝国政府の手にはそれまで徳川ないし封建領主たちが所有していた汽船10隻があった。それらの船は,いくつかの小さな沿岸海運会社を統合した組織に引き渡され,ここに日本最初の汽船会社である内国郵便蒸気船会社が誕生した。
 
その設立の当初から,政府はこの会社に補助金を交付して助成するという原則を採用した。
しかし,国家の援助という気前のよい措置をもってしても,新参の船主たちの経験不足を補うことはできなかった。数年を出ずして,会社は倒産の憂き目を見た。それとは全く違っていたのが,三菱会社の歩んだ道だ。
 
この会社は,少し遅れて土佐出身の岩崎弥太郎氏が設立していた。大蔵省からなにひとつ助成を受けることはなかったが,会社は年を追って成長を続け,1874年に日本が台湾に征討軍を派遣した際には,三菱の船舶が軍用輸送船として絶大な貢献をした。
 
しかし,それだけでは足りなかった。政府はさらに汽船13隻の購入を迫られ,後にそれを使って日本と上海の間に定期便航路を開設した。だが、この事業は収支を償うに至らず,海運事業というのは振るわないもののように思えた折も折,有名な大久保がヨーロッパでの観察に感銘を受けて皇帝にあて建白書を呈し,海運の奨励が必要不可欠であることを力説した。
 
そこで,政府は10万ポンド相当の助成金を三菱に交付し,国有の汽船30隻を払い下げた上.大蔵省が総額10万ポンド近い貸付金を融資して,横浜一上海航路を運航しているパシフィック・メール会社の所有船舶と営業権を買い取らせた。
 
こうした金額は,当時の日本の財政状態を考えればきわめて莫大な金額で,商船隊の育成を推進しようという日本の強い意図のほどを示している。その後,戦争が再び弾みをもたらした。
1877年に薩摩の反乱の鎮圧に当たる部隊を派遣する際,利用できる限りの物資の総動員を必要とした政府は,さらに10隻の汽船の購入を迫られ,それらの船舶もやはり戦後に三菱に払い下げられた。三菱の所有する船舶は,この事変でもまた目覚ましい貢献をしていた。
 
こうして,三菱は1880年には汽船32隻,総トン数2万5600トンを保有するに至ったが.これに対し日本の他の海運会社が保有する船舶は,総数わずか27隻.排水トン数は合計6500トンに過ぎなかった。
 
 われわれは今,日本の海運発達史のあまりよくは理解されていないが,しかし重要な意味を持つ1章に触れている。1880年という年は,三菱が政府の助成金の大盤振舞にあずかり事業の独占を謳歌していた年だが,そのことはまた一部から批判を招いてもいた。
 
そして1882年には,三菱の強力なライヴァル会社の誕生を見たが,その会社もやはり大蔵省を後ろ盾としていたばかりか.そもそもの発端から政府当局の強い後押しを受けていた。政府はなぜ次男に開業させて長男と張り合わせるのか,またどうして長男と次男を共に支援するのか。
 
内閣が独占を奨励していると非難してきた者たちが.今度は政府が無駄な競争を奨励していると糾弾していた。
 
この疑問に対する答は.舞台裏の事情に通じた者に限って容易に見てとれた。そういう人々には分かっていたことだが,政府には極東における日本の活動範囲が広がっているという、いやおうのない認識がある一方で,強力な軍隊を海を越えて-とりわけ朝鮮に向けて一活用する手段を備えていなければ、国を脅かす不測の事態に対処できないという無力感が重くのしかかっていた。
 
どちらかといえば、遅々とした歩みの三菱商船隊の増強ぶりでは,事態に満足な対応をすることができず,したがってもう1つの新しい海運会社,共同運輸会社を約100万ポンドの資本金で設立することになったのだ。
 こうした経験からも明らかなように,それまでの日本の海運発展史を顧みると,どの1章をとっても政治的なできごとが絡んでいるように見える。つまり,モンゴルの侵入下の一連の衝動,鎖国政策の採用,再度の開国,台湾遠征,薩摩の反乱,そして朝鮮情勢といったものだ。
 
 1885年には朝鮮問題が一時的に解決を見て,おかげで外交問題の重圧が緩んでみると,2つの汽船会社の無駄な鏡争がますます目につくようになった。そこで,政府の肝いりで両社は合併して資本金110万ポンドの日本郵船会社となったが.大蔵省は新会社に対し年8%の利益を保証した。
 
こうして,この新会社は今日に至るまで日本を代表する第1位の海運会社となっている。重要さという点で第2位を占めるのは大阪商船会社で,これは1884年に汽船100隻.排水トン数1万トンで開業していた。これらの小型船舶は,主として瀬戸内海沿岸を往復し,郵便輸送で助成金7000ポンドを支給されていた。
 
 統計が示すところでは,日本の保有船舶は1870年に汽船35隻,排水トン数1万5498トンと西洋型帆船11隻,2454トンに過ぎなかったのに比べ.1892年には汽船642隻,12万2300トンと帆船780隻,4万6065トンに達していた。とはいうものの.この発展ぶりは満足すべきものに思えたのにもかかわらず.そこに見る1つの際立った特徴が多くの論議を招いた。
つまり,1889年に日本の外国貿易の物資輸送に携わっていた日本船は排水トン数で207万5696トンだったものが.1892年には240万9745トンに増えはしたが,いずれの年を見ても,日本船が運んだ物資の輸出人品全体に占める割合は,13%を超えて′いないという事実だ。このことに気づいた国民は,日本の海運を外国の海域にまで拡大するよう求め始め,内閣もそれに応えて議会に海運奨励法を提案し.その可決を要請した。
 
しかしその当時は,政府の提案はことごとく政党政治家たちの激しい反対に遭うのが普通だった。議会は海運奨励法を否決した。その結果,日本郵船会社が当時急速に発展しつつあった綿糸紡績業と提携して1893年にボンペイ航路を開設したものの.その運航に政府の助成金を支給すべきだという東京商業会議所の提案に対し,内閣は応じることができなかった。
 
なんらかの新しい弾みが必要だったが.例によって,それは外交駆引きの分野で発生した。1894~5年の中国との戦争だ。この戦争を遂行するために,日本は海を越えて20万の軍隊を送り込み,その補給を確保しなければならなかったが,国中の商船隊を総動員してもこの事態に対応できなかったので,政府は多数の船を購入したりチャーターしたりした。
 
こうして戦争が終わったとき.日本の商船隊は汽船899隻.排水トン数37万3588トンと帆船544隻,4万4000トンに膨らんでいた。政府は今や(1896年)国民世論を味方につけ,思い切った政策を採用した。包括的な造船奨励法と航海奨励法を議会に提案し.その賛成を取りつけたのだ。こうして,日本の旗を掲げる船舶の急激かつ大幅な増加を前に,実業家たちが傭船先の確保に腐心する一方で,政府と議会は国策を念頭に,さらなる船腹の増大策を講じていた。
 
その後のできごとに照らしてみれば,この国の政治家たちは情勢を正確に見通していた。増強した船舶は仕事先に事欠かなかったばかりか,日本の国旗を翻した船が外国海域のいたるところに姿を見せるようになった。

日本郵船会社が資本金を倍額に増資し,ヨーロッパ,アメリカ,オーストラリアとの間に航路を開設する一方では,資本金100万ポンドで新しい汽船会社(東洋汽船会社)が誕生し,サンフランシスコ航路を開いた。1896年の奨励法2法のおかげで,日本の商船隊は急速に増した。

 
1897年の増加船腹は133隻(6万5000トン),1899年にはさらに100隻(3万トン)を加え,1902年当時には奨励法が公布されてから6年間の増加船腹は合計835隻.排水トン数で45万5000トンに達していた。日本政府の見積りでは,この奨励法は毎年5万8000ポンドを国庫から支出することになっていたが,その条項に基づいた支出額は,実際には6年間で56万ポンドに達していた。
 
そればかりか,この奨励法は航路の定期運航の開設には役立っていないことも分かったので,その目的に沿った改正法案が議会に提出され.その結果,中国北部,揚子江,ウラジオストクとの定期航路の開設を見た。造船もまた,急速な発展を遂げた。

1870年に日本で進水したのは汽船2隻.総トン数57トンに過ぎなかったのに.30年後の1900年には汽船53隻と帆船193隻,合計トン数は端数切捨てで2万4000トン,さらに1902年には4万7000トンに達し.今では7000トンないし1万トン級の汽船の建造も可能だ。現在,全国に185もの民間造船所と19のドックがある。

 
 ロシアとの戦争がもたらした効果も,過去の戦争が生み出した効果と符合するが,その程度は以前の戦争をはるかに上回ったはずだと考えるのは,もっともなことだろう。大ざっぱに言えば,足掛け2年にわたった戦争の間.約100万の軍隊を満州と朝鮮とサハリンに送り込み,糧食と武器弾薬の補給を続けなければならなかったのだ。
 
国中の船腹を総動員しても,賄い切れるものではなかった。足りない船舶を購入したりすチャーターしたりしなければならず,戦争が終わって平和が回復してみると,日本の保有商船の総トン数は,戦利品として捕獲したものも合わせて優に100万トンを超えていた。ここに掲げる表は,日本の商船隊の10年単位の増加ぶりを示す。
 
    日本の商船隊の総トン数
                    トン
1870年……………………   17,952
1880年……………………   63,468
1890年……………………  157.365
1900年……………………  840.632
1906年(6月未現在)…… 1.309,579
 
 そうするうちに,これらの船舶が日本の外国貿易の物資輸送に携わる割合も,しだいに増加してきた。貿易量そのものも,目立って増えてきた。したがって,1895年には950万トンの船舶があれば総貿易量を輸送するのに十分だったものが,1903年には2700万トンの船舶を必要としていた。
 
この1903年という年を選んだのは,比較をする便宜上からのことで,ロシアとの戦争に伴う異常な状況がまだ現れない年だからだ。しかし,貿易量の増加が急速だったとはいっても,その増加は決して日本の船舶が輸送する貨物の増加率と歩調を合わせて増えたわけではない。
 
1901年には,日本の船舶は価額を基準にして輸入品の2%,輸出品の12%を運んだが,1903
年には日本船は輸出品の40%,輸入品の34%を輸送していた。
 このような事態の変化は,そのまま直ちに外国の船主にはっきりと認識されていたわけではない。増加の一途をたどり続ける貿易量が,隠れみのの役割を果たしていたからだ。つまり,外国船が輸送する貨物量が全貿易量に占める割合は,以前に比べるとはるかに小さくなっていたとはいえ.貿易品の輸送に携わる外国船の隻数とトン数自体はかつてなく増えていたことが,事態の変化を気づきにくいものにしていた。
 
しかしながら,最近になってこの明白な事実について何がしかの認識が行き渡るようになり,従来の事態の進展に不案内な傍観者の中には事態の把握を誤り.海運業界の裏面で政府の内密の助成金が動いているとか,日本がイギリスの海運業を駆遷しようと策動しているとまで,非難の声をあげる者がいる。内密の助成金などと口にするのは,ばかげている。
 
立憲政体の国においては,問題外のことだ。また日本がイギリスの海運業の駆逐をもくろんでいるという点については,世界の海運業界の競争はすべて,イギリスに狙いをっけているかに見えるはずだという限りにおいてのみ,的を射た見方だと言える。
 
なにしろ.イギリスの海運業は世界のありとあらゆる海域でけた外れの優位を占めているのだから。しかし,実のところは,皮相な観察者たちが今初めて気づいたようなことは,現実にはとうの昔に進行中のことで.そして.おそらくはこの先も長年にわたって続き.常時ますます目につくようになるだろう。

そして,日本の海運業が近い将来に主要な活躍の場を見出すのは,対中国貿易においてかもしれない。というのも,対中国貿易の海運業の中で日本の商船が占める割合は,1896年の2%から1903年の13%余りへと,大きく成長しているからだ。この分野での日本のさしあたっての競争相手はドイツで,両国の海運業の活況を示す数字は,ほぼきっ抗している。

 
 
 

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