<日中韓150年三国志ー軍事大国・清帝国に対して小貧国日本の海軍力増強と長崎清国水兵事件』②
2015/01/22
<日中韓150年三国志―尖閣問題のル―ツの研究>
『日清戦争勃発に至る<日中誤解>
(パーセプション・ギャップ)の研究―
(パーセプション・ギャップ)の研究―
強大な軍事大国・清帝国に対して小貧国日本の
海軍力増強と長崎清国水兵事件の勃発』②
◎<歴史は繰り返す、歴史を凝視し未来の道標にせよ>
前坂 俊之(ジャーナリスト)
◎『中国の軍事力増強を各国はどうみているか』http://www.foreignaffairsj.co.jp/essay/201005/China_military.htm
◎『焦点:東南アジアの軍備増強が加速、中国にらみ潜水艦など調達』
◎「中国刺激するな」 野田政権の尖閣での消極姿勢また判明」
◎『中国指導者の「派閥」など関係図公開 ロイター、中国国内は閲覧規制』
強大な軍事大国・清帝国に対して小貧国日本の
海軍力増強と長崎清国水兵事件の勃発』②
須山幸雄『天皇と軍隊 (明治編) 』(芙蓉書房、昭和60年)によると、次の
こうして明治十五年以来九ヵ年の間、血のにじむような苦心努力の結果、現有艦艇および建造中の軍艦富めて25隻、5万余トンの海軍力となった。明治二十三年七月には第1回の衆議院議員の総選挙が行われ、11月には第1回帝国議会が開かれる。政党対藩閥政府の激突が予想される。そのなかで莫大な費用を要する海軍力の増強はどうなるであろうか、当時の海軍の首脳部の悩みは深刻であった。
これより先、軍艦建造とは別に四方海で囲まれている島国のわが国では、沿岸防備のため強力な海岸砲台の設置急務であると痛感された。しかし、貧弱な当時の国費ではとうてい、その費用の捻出は不可能である。総理大臣となった伊藤博文は、いろいろと思案投首したが名案が浮かばない。
それを聞いた明治天皇は当時、皇室財政の制度はまだ整っていなかったが、貧弱な皇室財産の中から三十万円を割いて海岸砲台の建設費に献金した。伊藤首相は三月二十三日、地方長官を召集せしめ、勅旨を伝えて、地方の資力のある華族、富豪に海防費の献金を勧誘させた。各府県の資産家たちは奮って献金を申し出、総額204万円に達し、海岸砲台に架設する大砲建造費のすべてをまかなうことができた。
この伊藤博文の海岸砲台の建設の発議も、西郷従道の海軍力増強の建議も、強大な清国の海軍力に脅威を感じたからである。この清国の大艦隊が日本に来航したのは明治十九年八月であった。
清国北洋水師提督丁汝昌は旗艦定遠に坐乗し、鎮遠、済遠、威遠の三艦をひきい、長崎港に寄港したのは八月十日。七月中旬本国を発し、朝鮮の仁川に立ち寄り、ロシアのウラジオストックを訪問、その帰路立ち寄った。最初から長崎を目ざしたものでなく、航海の途中、定遠の艦底が破損したため、その修理のため寄港したのである。
八月十九日の改進新聞によると、丁汝昌の談話として日本では神戸港を経て横浜に至る予定だと言っていたが、水兵の暴行事件のため予定を変更して、長崎から本国へ引き返している。
定遠の艦長は英国士官のロング大佐で、英国やドイツの海軍士官多数が乗り組んで清国の士官や水兵の指導に当たっており、いわば航海訓練とデモストレ―ションが目的の巡航だった。定遠、鎮遠共に7200トン余の巨艦で、ドイツから購入したばかりの新鋭艦で、当時このような巨艦は東洋にはなかった。
日本の戦艦扶桑が一番大きくて3700トンというから、日本人の肝を冷やすばかりの堂々たる威容を誇っていた。
航海中は英国やドイツ士官の訓練が厳しく、水兵たちも規律正しく行動せざるを得なかったが、上陸すれは解放気分になる。8月13日、定遠の水兵5名が上陸して酒を呑み、かなり酩酊した様子で、丸山町の花町で娼婦を買おうとしたが、楼主に断られたため立腹した水兵が持っていた刀で、戸障子をメチャメチャに破損したのが騒動の発端である。
急報によってかつけた巡査が取り鎮めようとしたが言葉が通じない。やむなく乱暴した二人を派出所に拘引しょうとしたが、逃走した。間もなく水兵が十五人ばかり、士官らしい者が指揮して何かやろうとする気配が見える。そのなかに先刻の二人がいたので、巡査が拘引しようとしたが抵抗し、刀で斬りつけてきた。巡査は重傷に屈せず応援の巡査二名と協力して取り押え、長崎警察署に引き渡した。
八月十五日、清国水兵三百名あまり、日本刀やこん棒をもって続々上陸してきた。中には士官も多数混ざっていた。四、五名から七、八名ずつ各所をはい回し、夜に入っても帰船しない。何か暴動を企んでいる様子である。梅ケ崎警察署も長崎警察署も非常警戒体制をとり、3人1組となって市内を巡察していた。
夜に入って間もなく各所で巡査が水兵に包囲されて、殴打されたり、斬りつけられるという暴動となった。はじめは傍観していた市民も、その乱暴にたまりかね、刀剣や棍棒をもって各所で巡査たちを助けようと清国水兵と格闘した。11時頃になって水兵たちほ引き上げ、自然に鎮静化した。
以上は「秘書類纂、兵制関係資料」中の長崎港清艦水兵喧闘事件中にある公文書の概要である。滑国の士官二名、水兵四名死亡、重傷六名、軽傷九名、日本側は巡査の死亡四名、重傷一名、軽傷十八名、居留民の支那人も死亡五、六名、長崎市民も重軽傷者多数を出した。このため丁汝昌は日本巡航を取り止め、早々に本国に帰航してしまった。
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この報が新聞で伝えられると世論は清国水兵の暴行に憤慨して、清国に厳重に談判すべしとの声が上かった。
外務大臣井上馨と清国全権公使徐承祖と談判したが、清国側は己が非を認めようとはしない。結局、ドイツ公使が仲にたって斡旋の労をとり、翌二十年2月8日、ようやく協定が成立した。それは事件の犯罪者はそれぞれの自国の法律によって処分し、犠牲者には自国の政府が見舞金や弔慰金を払うというものであった。
事件はもともと清国水兵の暴行から起こったもので、取り鎮めようとした巡査や、水兵によって巡査が殺傷されている。清国の水平や居留民の死亡や、重軽症は乱闘の際におけるもので、恐らく義憤を感じて応援にかけつけた多数の市民の手によるものであろう。それに対して清国は謝罪しようとしないのみならず、日本側の対応非難している。
明らかに大清国の威力を示した言辞である。日本側も清国水兵の非を追及したが、結局、押し切られた形になって決着した。東洋一の老大国に対して弱小の後進国・日本は互角に談判できなかったのである。この報道は日本国民を激昂させた。これが七年後の日清戦争で激烈な敵慌心となって現れたのである。
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