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「Z世代のための日中外交敗戦10年史の研究(下)」★『明治リーダーの必勝法は決断し、命令し、誓約させ、断固実行させる」★「川上の戦訓「上司の機嫌にとらわれず、勝者にその範をとれ」★『 リーダーは長期に担当させよ、川上参謀総長は軍令を十四年間、桂太郎首相は軍政を通算十五年間も担った』

   

『リーダーなき日本の迷走と没落、いまこそ明治のリーダシップに学べ』

② 明治リーダーの必勝法は決断し、命令し、誓約させ、断固実行させる

「これは有栖川宮殿下と山県、西郷両中将閣下の立ち会いのもとに決定されたことであるが‥‥‥」と前提して、前記の経緯を両大佐に詳細説明した上で、次のように言い渡した。

「わが陸軍最高主脳の意向として、この重大な新陸軍の近代化事業を両大佐に担当させることになったので、両名は軍令、軍政「体の実をあげ、これより長期にわたって徹底した実務の企画と統制に任じ得るよう、今回の欧米視察による調査研究を手始めとして協力の実行をあげてもらいたい」

そして両大佐より先任の多くの将軍たちを全部乗り越えて断行された、この決断がいかに新陸軍躍動の原動力となったか注目の要がある。さらに大山中将は、

「藩閥抗争の弊害を一掃し、かりそめにも両名が対立、ケンカをすることは、まかりならぬ」と厳重な注意を与えた。これに対して「誓って盟約に違反することござりませぬ」と宣誓させられ、さらに即座に実行として、「本旅行の全期間、両名は同室に起居して東にその協力一体の模範を示せ」と要求され、直ちに船室を変更して即日同居させられたというから、実に徹底したものであった。

当時の川上操六大佐は仙台の鎮台参謀長を終って近衛歩兵第一聯隊長の要職にあった人であったが、桂大佐と共に初心に帰った覚悟で、これより約1年間にわたる欧米視察と軍事研究の全期間を終始起居を共にして、心から盟約実行の模範を示したのであった。

この軍事視察旅行の経路と日程は香港、ナポリ、ローマ、バリ、ロンド、ベルリン、ぺテルブルグ、ベルリン、ゥィーン、アメリカ、横浜帰着

最も長期滞在したのがパリであって、このフランスの軍事視察は大山中将が以前に仏国留学をして仏国陸軍に知己が多く、仏国陸軍また日本陸軍の育成指導に熱心であって、軍事研究に多大の便宜を与えたからであった。

この大山中将以下の欧米軍事視察の結果は予定の計画によって川上、桂両大佐が軍令、軍政事項毎に分担して取りまとめ、その成果に基づいて今後日本陸軍がいかにして採用していくべきかの意見をも添えて報告書の完成をみたのが帰国後三ヵ月を経た明治十八年五月であった。

そして明治十八年五月の同日附をもって少将に進級した両名は左の補職を命ぜられ、川上少将は参謀本部次長として軍令事項、桂少将は陸軍省総務局長として軍政事項に専念することになり、直ちに陸軍の近代化に着手した。

③ リーダーは長期に担当せよ、川上は十四年間、桂大佐は十五年間も担った

しかも川上次長は明治三十二年(死亡)まで十四年間、桂大佐は明治三十三年まで十五年間も陸軍省次官、大臣を務めて日露開戦時は首相として軍政と国政の完全な掌握による国力発揮に専念できたが、その発端は、実に明治十七年二月ヨーロッパ航行中の船中において、大山中将から言い渡されたこの断固たる訓示であった。

これより二十年後の日露戦争を大局的に観察してみて、当時西欧最大の陸軍国と言われていたロシヤ軍を相手にして、明治維新後建設早々の日本陸軍が、近代軍備を曲がりなりにも備えて堂々と立ち向うことができた、その遠因は明治十七年(日露開戦の二十年前)の大山、川上、桂の三名が船中で誓い合った航行中の、この訓(おしえ)であるといえよう。

この陸軍最高主脳部のすばらしき明知と決断、忠実な実行は、この船中の盟約を基として、当時の最高主脳者たちだけが心の底に堅持していたものであり、後に児玉源太郎を加えて、山県、大山、川上、桂、児玉(計五名)が近代陸軍創設の五天王といわれるようになったのも以上の経緯によるものである。

 

大山陸軍卿はこの欧米軍事視察団長として明治18年1月帰国してきたが、この年の十二月に内閣制度が発足して初代内閣総理大臣として伊藤博文が第二代内閣を組織し、陸軍大臣には大山陸軍卿がそのまま初代の大臣となった。

大山中将が欧米視察中にフランスに約五十日間も滞在して、この旅行中に最も長く研究調査をしたのがフランス陸軍であり、これは大山巌中佐時代の明治の初期以来、フランス留学をした因縁であったことは先に述べたところである。

大山陸軍卿は「パリーに来ると自分の郷里にでも帰ったように、はしゃぎ廻って喜んでいた」と部下視察団員たちは視ており、事実フランス陸軍には大山中将との知友も多く親切にもてなしたことは明らかであった。

「フランス陸軍の良いところはこの点であって君もフランス陸軍に留学し給え」といって薩摩の勇将、野津道貫中将の女婿の上原勇作大尉を長期にわたってフランス陸軍に配属して勉強せたのも、大山中将であったことは当時一般にに知られていた。

 ところがこの欧米視察団の軍事研究の結論は、日本陸軍が従来フランス方式であったものを、今後はドイツ方式に改め軍政はドイツ陸軍を模範として一大改革を断行するというものであり、この結論をまとめあげたのが、この視察団の先任随行員であったところの川上、桂の両少将であり、この若き(当時三十六歳)陸軍主脳の後継者たちは、その先輩がフランスひいであろうが、そんなものには捉われず、フランス方式を否決してドイツ式に改める意見を上申したことは、まことに勇気のいるところであろう。

「フランスを否決してドイツ式採用に改めなければならない最大の理由は何か」と視察団員の若い参謀たちは議論をしていたが、多くのものは大山陸軍卿の顔を半分眺めながら、あるものは従来同様フランス式を継続する案を固持して譲らないものもいたという。

   川上の戦訓「上司の機嫌にとらわれず、勝者にその範をとれ」とそれを一言で受け入れた大山の大度量

 

この議論の最後に川上操六少将が立って「軍の本領は有事に際して敵に勝つことであり、普仏戦争でフランス軍を散って勝利を獲得したドイツ軍に見習うことは、独仏両軍を比較検討する場合、他の理由のいかなるものがあろうとも、すべてに優先して勝者にその範をとることは議論の余地がないではないか」と断固として主張した。

このとき一同の視線は団長の大山陸軍卿に集中されたが、このときの大山陸軍卿の心中は、

「軍の本質をこのように簡明にして、使命達成のためには上官の機嫌や思惑などに捉われず堂々と信念を堅持する男こそ、まことに陸軍を担い得る者」と感激していたとのことであり、このとき統裁して発言した大山中将の言葉は、「それでよろしい」の静かな一言であった。

「ドイツ方式を採ったことはドイツ陸軍のすべてが長所であるからではない。また将来もドイツがよいとは思っていない。ドイツ方式を採った最大の目的は軍の勝利獲得の使命達成のただ一点につきる」という考え方が川上操六少将の主張であった。この川上の聡明な見識が日本の勝利につながったのである。小沢一郎とそれを取り巻くご機嫌取りの派閥の子分どもも、この明治のリーダーたちの見識と行動を見習うべきじゃな。
自民党も他の政治家たちにも「議論より実を行え、なまけ政治家 国の大事をよそにみるバカ」といいたいね。


明治十八年七月、明治天皇は参謀本部と陸軍大学校に行幸あらせられ親しく当局者一同を御激励になられている点からみても、いかに時局の重大であったかが推察できる。

当時のわが陸軍によるシベリヤ、満洲方面に対する対露警戒と情報収集については特に努力を払った。川上、桂両少将の共同による陸軍建設の計画は急ピッチで進み、早くも翌明治十九年三月下記のとおり軍事諸制度の大改革が着手された。

① 陸軍省官制の簡素化。

② 陸軍は従来のフランス式制度からドイツ式制度に改正される。

③ 監軍部を復活し教育軍政を改善。

④ 作戦方針を抜本的に改正し、従来の鎮台を師団編制に改める。
⑤ 陸海軍両部の制を廃止して軍令機関は一本に統一した。

以上のとおりであったので福島安正大尉が明治十九年九月末に帰国した頃は、新陸軍の建設が急速に進展し、この進歩に伴って新しい作戦計画の樹立が要請され、さらにその前提となるべき情報収集の重要性が一段と要望されるといった好ましい情況に変っていた。 

しかし当時の後進国日本が、徒に形式に捉われることなく、この川上精神を果して、その後も堅持できたかという点が、大いに注目の要するところである。

川上少将のこの徹底した信念に指導された新日本陸軍は、これより十四年間の長期にわたる一貫した思想と固い信念で、作戦準備や教育訓練に長足の進歩を遂げることができた。

しかし日露戦争の五年前の明治三十二年に川上操六(当時、大将、参謀総長)の死によって、その後は大きな変革の不幸を招くことになってしまった。

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