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終戦70年・日本敗戦史(96)『大東亜戦争とメディアー『発表報道=客観報道という名の悪しき<現実追認主義>』

      2015/06/25

      終戦70年・日本敗戦史(96

『大東亜戦争とメディアー戦争での最初の犠牲者

メディア(検閲)である』④

   15年戦争<満州事変→2・26事件(日中戦争)→大東亜戦争開戦→敗戦>

で新聞はどう死んでいったのか①

『発表報道=客観報道という名の悪しき<現実追認主義>』

前坂 俊之(ジャーナリスト)


5・在郷軍人会の不買運動も

 
このような歴史の重要な節目で、新聞は流れにブレーキをかけるのでなく、アクセルを踏んで戦争への方向にプッシュしてしまった。
ここにいたるまでの間、昭和初めごろから新聞の報道スタイルがかわってきた点も見逃せない。明治、大正の政論新聞からニュース報道中心の新聞に変わっていく。
特に戦争報道の場合、戦況の拡大を陸軍省の逐一の発表を大々的に扱い「発表記事」=「客観的」報道していくことで、戦線拡大をエスカレートさせていく。既成事実を次々に追認する結果になり、ついには抜きさしならぬ状況に陥ってしまった。
関東軍、軍部の暴走に対し政府・陸軍中央部は「不拡大」の方針を毎回出すが、関東軍は無視し続ける。関東軍は既成事実を積み重ね、それを新聞が大々的に報道する。
いつのまにか報道が関東軍の行動を追認する結果となり、気づいた時には中国東北部を広く占領してしまっている。発表報道=客観報道という名の悪しき<現実追認主義>の陥穽にはまってしまった。

同時に、新聞間の激しい競争も背景の一つにあった。朝日、毎日の報道の路線の違いで、反軍の報道をしていた朝日に対して、例えば在郷軍人会などが不買運動を組織的にするなどして攻撃した。
また毎日はそこに付け込んで読者の拡張をはかり、部数が落ち込んだ。朝日の経営者は危機感を募らせて、それが朝日の転換の原因の一つともなった。

6・二・二六事件で息の根止まる


関東軍の謀略で起きた満州事変を新聞は当初、中国側から仕掛けられたもの

と報道した。確かに、戦後の東京裁判で初めて満州事変は関東軍によって引き起こされた真相が明らかにされた。新聞社(記者)は当時、事変の真相は知らなかったといわれるが、実際は、把握していたという証言がいくつかある。
たとえば、毎日の陸軍省担当・石橋恒喜記者の回想録「昭和の反乱」(高木書房、1975年)などでも1 週間後に陸軍幹部から関東軍が仕掛けたという情報を得ていたというし、現地に取材に行った毎日新聞門司支局員も真相を知って、バカバカしいので帰国した、とも書いている。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

池田一之著「記者たちの満州事変-日本ジャーナリズムの転回点」(人間の科学新社 2000年刊)によると、

『「大阪毎日」の門司支局野中成童記者が、九月二十二日満州に特派されて十月二日帰国し、友人にむかって、鉄道破壊は日本軍がみずから爆破して中国側の行為としたものらしく「其の真相を知るに及び馬鹿らしく、到底真面目に勤務すること能はざるを以て社命をまたず帰来」したと語った』(同書40P)

この出典は一九三一年十月九日の「憲兵情報」である。

憲高秘第612号

満州事変二特派セラレタル大阪毎日新聞記者ノ言動二関スル件 報告(通牒)

昭和6年10月9日憲兵司令官 参謀次長 二宮治重殿 外山豊造

主題ノ件左記報告(通牒) ス

門司市元清流瀧町一丁目

大阪毎日新聞門司支局

記者 野中成童

右者満州事変勃発ト共二大阪毎日新聞門司支局ヨリ特派セラレ九月二十二日門司発奉天、鉄嶺、鞍山、其他事件ノ中心地ニ勤務シ、十月二日帰門シタルカ満州事変二就キ友人等二対シ左ノ如キ言動ヲナシタル聞込ミアルヲ以テ注意中ナリ

  • 、満州事変二依り現地二派遣セラレ其ノ真相ヲ知ル二及ビ 馬鹿ラシク到底真面目二勤務スルコト能ハサリ以テ社命ヲマタス帰来セリ
  • 満州軍(関東軍=筆者注) ハ新聞班ノ外二 宣伝班ヲ組織シ極力日本新聞ヲ利用 有利ナル宣伝ヲ為スベク努メタリ
  • 鉄道破壊ノ如キハ日本軍力爆弾ヲ以テ 自ラ爆破シ支那側ノ行為ナリトシテ支那兵営ヲ占領シタルモノノ如シ
  • 要スルニ今回ノ満州事変ハ結局満州二於ケル支那人ノ邦人二対スル圧迫ハ事実ナルカ故二 之ヲ排撃スル意味二於テハ、日本軍ノ処置モ亦 己ムヲ得サル所ナリ云々 終

発逓先

陸軍大臣、陸軍次官、軍務局長、法務局長、軍事課長、新聞班長、参謀次長教育総監部本部長

筆者(池田氏)の調査では 野中成童記者は「野中盛隆」であった。(同書

45-46P)

―――――――――――――――――――――――――――――――――

このように、現場に行った記者の何人かは知っていた。もちろん政府首脳も知っていた。ただ、どちらが先に攻撃したかという問題以前に、国民の意識の中に排外熱が高まり、『反中国』「中国を撃て」というムードが強くなっていた。これ自体は新聞が作り上げてきたものだが、それによって国民全体が戦争へと流されていった。


7・「国際連盟脱退」を強力に後押しした毎日


翌年の昭和7 年に日本は国際連盟を脱退する。この脱退時にも大きなキャンペーンをはったのも毎日だった。「東京日日新聞70 年史」(昭和18 年刊)では「国論統一に東京日日新聞がいかに貢献したか」を得々と書いている。
「国際連盟脱退」と言っているが、「脱退」ではなく、真相は追放だ。「42 対1」、日本だけの反対で、それ外はすべて「満州事変は日本の侵略」との結論を下した。国際連盟が調査中に日本は満州国を独立さていく。毎日はそれを強力後押しする報道を繰り返した。
続いて2・26 事件が起きる。陸軍のクーデターだ。青年将校らが朝日新聞を襲撃して、新聞は暴力によって抑えこまれ、萎縮していった。
翌年の1937(昭和12)年7月7 日、日中戦争が勃発。虚構橋事件で日中両軍が衝突する。どんどん戦火は拡大、太平洋戦争へと拡大していく。
その中でジャーナリズムの状況はどうな変わったのか。
8・「新聞人の勇気の欠如」この反省忘れるな
満州事変時まではいくつかの新聞は抵抗してきたが、第2 段階に進むと企業としての新聞社への制約が加わっる。紙の統制である。
太平洋戦争が始まる時期には1500 ほどあった新聞社が「1 県1 紙運動」による、新聞の統廃合で55 社になってしまう。その結果、経営的には安定するのだが、ジャーナリズム性はなくなってしまった。
地方紙は全国紙との激しい競争から勝ち残りたいということで、どんどん統合に賛成していく。太平洋戦争に突入する時期になると、新聞用紙の制限などで規制された。がんじがらめの法規制で新聞が抵抗できなくなっていく過程には幾重にも言論法規が作られていく。
太平洋戦争開姶時には30 ぐらいの言論法規が出来上がり、書こうにも書けない法的規制が出来上がってしまった現実があった。その意味では、ある面では免責されるかもしれないが、「書こうと思えば書けたのに、実際は書かなかった」、メディア自身が自己規制、自己検閲した面も大きい。外圧による言論萎縮、自己規制が一体となってい
った。
「本当に書けなかったのか、実は書かなかったのか」 -

これは今日のメディアにも共通する大きな問題である。「書いたら取材先からやられるのではないか、クラブから追放されるのでは・・」と恐れて自己規制していく傾向は今も引き続き、天皇報道や報道のタブーを生んでいる。


9・記者の自己規制こそ問題


この点で時事新報の編集局長で海軍記者として有名な伊藤正徳は、社説が最も活躍すべき時に「出来なかった」と自らそのふがいなさを反省している。
時事新報は明治、大正にかけては「日本一の時事新報」といわれた。昭和11 年には毎日新聞に合併される。伊藤は昭和9 年に「新聞総覧」に、新聞が萎縮して書かなかった反省を3 点あげている。

  • 新聞人の勇気の欠如
  • 言論に対する抑圧
  • 新聞の大衆化-
  • 3 つである
  • 現在はいうまでもなく、言論の自由がある。言論の抑圧は法的には全くない。しかし、メディアは国民の知りたいことを本当に書いているのか。昭和天皇の病気報道を見ても、この言論萎縮はいまだ続いているのではないか。外圧を必要以上に恐れ、過大に自己規制してはいないか。記者の自己規制こそが問題である。

10・大本営発表は846回、記事扱いまで細かく指示


太平洋戦争に入ったら、言論の自由は全くない。新聞は政府のPR 紙となってしまった。戦果を報じる大本営発表は、太平洋戦争中は合計846 回あった。
海軍の場合、1 日1 回程度だったが、記事の扱いー「この記事は3 段に、あるいは4段に」という具合に大きさの指示があった。アメリカの被告については大きく、日本の場合は小さく、戦果は実際の3、4 倍水増しされて発表されていた。そのほかに、情報局の懇談、内面指導などさまざまな規制があった。
現在の記者クラブでの懇談の原型がこの時から出来上がっていた。社会部長、政治部長との懇談は週1回あり、記事の扱いについて具体的に指示していた。
クラブの記者に対しては、原稿の背き方、大きさまで指導。言論の統制は満州事変ごろまでで、太平洋戦争中、「書いてはいけない」という言論統制でなく「このように書きなさい」という言論統制に進んでしまった。


11・いまもソフトに内面指導


では、現在はどうだろうか。たしかに一人々々の記者に対して記事の扱いまでは「指示」していないが、クラブ制度は極度に進み、発表主義が完成している。ソフトに指導されており、ある面では大本営発表より進んでいるのではないか。
清沢洌は戦時下「暗黒日記」を書き続けたジャーナリストだが、その日記の申で、日本人の特性として「官僚主義、形式主義、あきらめ主義、権威主義、セクショナリズム、精神主義、道徳的勇気の欠如、感情中心主義、島国根性など、日本人の劣勢は戦後何十年かたって果たして克服されるのだろうか」と疑問を呈している。
最近、毎日新聞社から出版されたウォルフレンの「人間を幸福にしない日本というシステム」という本の中でも、日本人の無責任体制、特に政治、官僚、マスコミが一体化した総責任体制の欠陥をついていが、清沢が指摘したのと全く同じだ。戦後50 年たつが、日本のシステムは変わったのか。戦前、戦後もー貫してほとんど同じではないかと指摘している。

 
12・敗戦と新聞・自らの責任を問う姿勢の回避

 
では、敗戦によって日本の新聞はどうなったのか敗戦後のシンボルとなった「一億総ざんげ」という言葉。東久邇首相が8 月28 日の記者会見で初めて言った言葉で、9月5 日の臨時国会冒頭の施政方針演説の中でも同様にふれている。では、新聞はどう報道したのか。
8 月15 日の朝日社説は『一億相哭の時」、毎日は『過去を肝に銘じ前途をみよ』となっている。この段階ですでに、「一億総ざんげ」の原型がでており、新聞がまず露払いをした。

そうした中で、戦後民主化と新聞のスタートといわれている朝日の「自らを罰する弁」(8 月23 日)という歴史的な社説が掲載されるが、これは例外的な論説だったといえる。
GHQ が日本に駐留してくるまでの2 週間の日本の新聞は、なぜ日本は負けたのか、敗戦の責任追及と総ざんげ、原爆投下に対する怒りが渦まいている。
ところが、GHQ による9 月11 日の東条ら逮捕の戦犯追及が本格化すると、今度は総ざんげの方向から一転して戦争責任、戦犯追及になる。戦前は軍部の顔色をみて、戦後は一転してGHQ の意向に沿うことで、生き延びたわけで、一貫して自らの戦争責任を問うという姿勢が、戦前、戦後を通じて新聞には欠如していた。

13・参加者との討論・なぜドイツでは廃刊に

【参加者】 ドイツなどは第2 次大戦後すべての新聞は廃刊となった。日本はなぜそうならなかったのか、どこに違いがあったのか。
【前坂】 ドイツ、イタリアの戦前の新聞は全部廃刊となった。これは、連合軍が直接統治したことによる。ベルリンが陥落する前に英、仏、米など関係国が集まり協議したが、その中でナチス下にあった新聞はすべて廃止するということを決めている。
新聞の復刊にあたっても、ナチスに関係した者は一切その中には入れない方針とした。イタリアも同様だ。
日本の場合、米国は日本の間接統治、日本の権力の中枢部分の天皇、官僚制とともに新聞も、戦前のまま残しながら利用して統治するという方法をとった。もし、直接統治ということになれば、毎日はじめ戦前の新聞はすべて廃刊ということになったであろう。
関係した人間もすべて一掃されただろう。間接統治というあいまいさによって、日本の新聞は生き延びることになった。
【参加者】 満州事変の時、取材していた新聞記者は関東軍から仕掛けたことをほとんど知っていたとのことだが、本社の幹部はどうだったのか。新聞は軍の発表だけで書くという習慣になっていたのか。
【前坂】 これは歴史的事実だが、第1 報を聞いたとたんに、元老の西園寺公望らは「これは関東軍がやった」とピンときた、といっているし、外務省なども現地からの電報で真相をつかんでいた。
事変を起こす以前から関東軍が策動しているということも公然の事実だった。新聞社内にも情報は入っていたが、国内の情勢は「中国を撃て」という気分が高まっていた。
政府は関東軍が仕掛けて暴走していることを知っているため、不拡大の方針でブレーキをかけたが、関東軍はそれを無視して軍事行動を拡大していく一方だった。新聞は戦争なのでセンセーショナルに報道した。一気に戦果は拡大し、中国東北部を占領してしまうことになっていった。「戦争は関東軍が暴走した」という点は吹っ飛んでしまった。

14・事実知らされない国民


【参加者】当時、日本共産党の機関紙「赤旗」は日本がやったと書いていたのでは。

【前坂】 確かに「赤旗」は報道していた。ただし、発行部数は数百部ぐらいではないか。しかも公然と配布できない。影響力は小さく、事実関係を知っていた国民は少数であった。
【参加者】 GHQ のインボーデン新聞課長が「日本の新聞が一斉に放列を敷けば、軍部にかくもたやすく屈服しなかったのではないか」と質問したことがあったというが、それは誰に対してか。

 

「前坂」朝日の緒方竹虎主筆であり、緒方は「もし毎日と朝日が手を組んで満州事変前の段階で反対の論陣をはっていれば、軍部といってもサラリーマンなので、負けなかったと思う。残念なことだ、と述べている」
関東軍が作りだした謀略による既成事実を追認していくことで新聞が戦争に協力する体制に組み込まれていったが、あの時も現在も「客観報道」というのが落とし穴のような感じがするが。

15・戦前に戻れという論調も

【前坂】50 年前のことだが、これは今も同じだ。新聞間の過当競争、足の引っ張り合
いが、自らの首を絞め、大変な状況を作りだすことになるということを教訓にしけれ
ばならない。
現在の新聞の対立も深刻だ。今年の新年の産経は戦前の教育勅語に戻れという主張だ。新聞のナショナリズムが強まっているといえる。客観報道についてだが、何が客観か。発表があったものを報道することが客観報道とはいえない。発表されたことは事実なのかどうか、そのことを検証することが必要なのはいうまでもない。発表されたことを繰り返し報道し続けることで、既成事実を作り上げていってしまう危険性がある。

「白虹事件」について

【参加者】いまの新聞の姿勢はすでに大正の時期に作られたのではないか。「政論新聞」、権力に歯向かう姿勢があったのが明治、大正の新聞だった。それがいつのまにかニュース報道主義になった。その変化が今日まで続いている。

【前坂】ご指摘のとおり、日本の新聞ははじめから「中立」 「不偏不党」、「客観報道主義」を標模していたわけではない。自由民権運動の中で大きく高揚した民衆ジャーナリズムが、時の政府により弾圧を受け、敗退。
言論中心の「政論新聞」からニュースを売る報道中心の、現在の新聞の形に近くなった。商業的な新聞に変身していくに伴い、次第に〝現実主義″的な報道姿勢、方針をとるようになってきた。そのことを加速させたものに、いくつかの事件があった。
それが「白虹事件」である。(注釈・同事件=1918 年に起こった米騒動は全国的に広がった。政府は米騒動に関する一切の報道を禁止(新聞記事差止命令)。

 

新聞側はこれに反発、8 月25 日に関西記者大会が開催された。この大会の模様を大阪朝日新聞(当時、デモクラシー思想を編集方針にも取り入れ、言論界の指導的立場にあった)が報道した中で、中国の古典で兵乱の予兆を指す「白虹日を貫けり」という章句を使用。これが、当時の新聞紙法違反に問われ、発行禁止を迫られる)
米騒動自体を報道したのでなく、それに抗議する記者たちの集まりを報道したのであるが、政府は新聞紙法をタテに弾圧してきた。これを回避する方法として編集局長らの引責辞職と紙面で謝罪、あわせて以後の編集方針に「不偏不党」を取り入れる。他の新聞は大阪朝日を見殺しにした。言論界の屈服であった。
ヨーロッパのように市民革命を日本は経験していないことも大きい。日本のジャーナリズムが本当に鍛えられてきたのか疑問が残る。
【参加者】政府の各種審議会に新聞社の幹部が多数入っているが、このようなことは戦前あったのか。いつからこのような流れが出来たのか。第8 次選挙制度審議会長は読売新聞の会長が務めた。大新聞社の会長や編集幹部が審議会に入っていることがあまり問題になっていないようだが、不思議でならない。
16・危険な審議会入り
【前坂】戦前にはなかった。情報局には各社幹部が入っていたが、審議会制度はなかった。選挙制度審議会に各社のトップクラスが入っていたのでは小選挙区制の批判は出来ない。ここ数年くらいの動きだ。各社とも審議会に入っていないと情報が取れないというためだろうが、そのことによって批判できないことは大きな問題だ。
【参加者】欧米では?
【前坂】まったくない。それどころか、厳しく禁じている。
【参加者】話の中で昭和10 年ごろ朝日は「リベラル、自由主義、反軍的」、毎日は「右翼的、親軍部的」と言われた。では、個々の記者や新聞記者をめざす人はどうだったのか。現在も同じことが言えると思うが、例えば右翼的な考えだから何々新聞に入ろうという傾向になっているのか。
【前坂】戦前の各社の特徴というのは、記者個々の問題ではなく、新聞社の傾向路線を言ったのだ。当時の記者はせいぜい毎年10人ぐらいの採用だった。記者の傾向までそのようだったということは、現在も含めて違う。
【参加者】 「1 県1 紙」に統合されたということだが、1400 紙もの新聞が約3 分の1近くまで減らされた。当時の地方紙の役割は。
【前坂】優れた県紙や地方紙がたくさんあったが、一県一紙に統合されてしまった。経営的に安定しことによって現在の繁栄があるが、問題は大きい。アメリカは新聞だけで4000 紙ぐらいある。草の根民主主義を支える媒体とし活躍しているのが多い。日本は中央集権的で政府にコントロールされやすい。どこも同じような報道スタイルをとっており画一的なメディアの体質が作られている。

    <以下は毎日新聞労組機関紙「われら」に1995年2月15日に掲載>

                       (終了)

 

 - 戦争報道

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