『中国紙『申報』からみた『日中韓150年戦争史』㊵『黄夢●(田へん宛)君の『扶桑攪勝集』の後に書す』1891(明治24)年8月
2015/01/01
『中国紙『申報』からみた『日中韓150年戦争史』
日中韓のパーセプションギャップの研究』㊵
1891(明治24)年8月21日光緒18年壬辰6月29日「申報」
『黄夢●(田へん宛)君の『扶桑攪勝集』の後に書す』
光緒16年(1890】日本で博覧会が挙行され,遠近から数多くの観客を集めた。私の友人である上海の黄夢●(田へん宛)君【黄協埴】も.日本の民間人岸田吟香の招きを受け.日本を訪れた。出発の前日,彼が私のもとに来て出発を告げたため,私は彼のために,使日欽差大臣や,日本の名士たちに一筆したためた。
黄夢●(田へん宛)は日本滞在2か月にして帰国し,親しく見聞したところを吉己した一書をものし.『扶桑攪勝集』と題して私に示した。私は本書を一読するや,巻半ばにして思わず机を拍ち,「すばらしい。彼の日本訪問は,まさに班固の言う 「此の行.登仙に異なるなし』との言葉に適うものだ」と感嘆することを禁じ得なかった。
私も日本を訪れたことがあり.黄夢●(田へん宛)君の旅行した地方は,いずれも私の曾遊の地でもある。故に私は本書を読み進むにつれ.あたかも自分が現在日本にあって.日本の名士たちと一堂にあって酒を酌み交わしながら夜の更けるままに.往事を語り,文章を論じているような気がしたものだ。まことに夢腕に感謝しなければなるまい。
ただし黄夢●(田へん宛)が訪れたのは東京だけだったのに対し.私は長崎,神戸,大阪,京都等の地方にも滞在した。当時は鉄道開通以前だったため琵琶湖を訪れたり,富士山に登ったりすることはできなかったが,4か月にわたる東京滞在中には.日本の名士たちと日光を訪れたことがある。多くの滝をことごとく見,帰途には伊香保温泉に浴するなど,実に愉快な旅だった。
(以下中略)
日本の特産,物品について記した点では「桂林風土記」の流れをくむものであり,その内容はきわめて充実している。しかし.私が深く感慨を禁じ得ないのは.別の点にある。
日本はアジア諸国中最も中国に近接し,海洋中に4島が預るがごとくえんえんと連なり,きわめてすぐれた形勢にある。実に朝鮮.遼東,台湾.寧波等の地方と相連絡し,わが中国の門戸となり.藩屏となるに足ろう。
両国は輔車唇歯のごとく,共通の利害を持つ密接な関係にあると称しても過言ではない。しかし日本人の考えは著しく異なるようだ。
日本は維新以来急速に富国強兵を図り,鋭意改革に努め.万事西洋文明を模範
とし,漢学を捨てて洋学を導入している。詩書を蔑み,儒教を斥け.古今の典章.制度を捨てて顧みることなく,ただ西洋文明のみに追随し.その上っ面だけを学んでは自ら得々とし,近隣諸国に誇っているのだ。
その学ぶところは西洋の言語,文字にとどまらず武器.船舶,車両,家屋,砲台から,衣服,車馬.飲食のような些細な事柄にまで及んでおり.ただただ西洋に後れをとるまいと必死である。西洋人の中にもその将来を危ぶむ者がいるほどだが,日本人はいっこうに頓着せず.ひたすら西洋人に媚びてはわが中国をないがしろにし.さらには中国は相手とするに足りないとする者までいる。ああ,なんという考えだろうか。
私が以前日本を訪れた際.鷲津宣光.藤野正啓,加藤桜老のような漢学の老大家を訪問した。当時はなお彼らが東京,京都において文壇,詩壇の重鎮として重きをなしており.漢学の人材はなお乏しくなかった。
ところが今回黄夢●(田へん宛)が互いに詩文を応酬した相手は.皆私の旧知ばかりだった。漢学の人材としては彼らを残すばかりで,数十年も経ずして漢学は衰微の一途をたどり,おそらくは継承者もなくなってしまうのではないかと思われる。
洋学が盛行する一方漢学は衰退し,ほとんど回を挙げて横文字を使用せんばかりだ。かくも著しく学問を一変するとは,なんと学問の本源をわきまえないことだろうか。黄夢●(田へん宛)はこの書において.
「日本は中国と同文の国である。必ずや中国と心を合わせ,外国の圧迫に対抗し,興亜の大義に沿うことだろう。将来も決して西方に非望を抱き.軽々しく同盟を断つことはあるまい」と再三述べている。
私もまたこのことを願ってやまない。西洋文明を学ぶことはもとより必要であり.特にその長所を学んで短所を除くことが重要だ。現在日本は装甲艦,汽車.鉄道,工業,郵政,商務,農業,紡績業等の振興に努め、また内国博覧会をあたかも太陽がしだいに昇っていくような勢いを示している。
将来は物産は日々増加し,貿易も日々隆盛へと向かい,遠くはヨーロッパ,アメリカ両大陸に,近くはわが中国へとその販路を広げ,利益を収めることだ
ろう。ただわが中国の利益を手中にするばかりではなく,理財に長けたヨーロッパ諸国さえ,その下風に立っことになるかもしれない。
目下日本は次第にヨーロッパ諸国と拮抗せんばかりの状況にあり.西洋文明導入の効果は大いにあがりつつあるといえよう。しかし.万事につけ驕りは禁物だ。
得るところがあれば失うところもあり,長所もあれば短所もあるものだ。盛衰,消長の契機ま,気づかないうちに常に内部に潜在しているのだ。もし日本がいったん軽挙妄動するようなことがあれば.従来の成果をむだにしてしまわないとも限らない。
慎重確実な政策こそが重要なのだ。黄夢●(田へん宛)の書を読んでこのように論じ.その後に書して彼への返書とした。甘言を並べるようなことは.私があえてするところではない。
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