『オンライン/危機突破学講座/今から約100年前の関東大震災(1923年)で見せた山本権兵衛首相、渋沢栄一の決断と行動力 <大震災、福島原発危機を乗り越える先人のリーダーシップに学ぶ>★『大震災直撃の日本には「総理大臣はいなかった」』★『 2011/04/06 / 日本リーダーパワー史(137)の記事再録』
2021/03/16
2011/04/06 / 日本リーダーパワー史(137)の記事再録
前坂 俊之(ジャーナリスト)
1・大震災直撃の日本には「総理大臣はいなかった」
1923年(大正12)9月1日。関東大震災の発生時、日本には総理大臣はいなかった。日本の政治史をひもとくとで、総理大臣が存在していても、そのリーダーシップがしっかり発揮できる政治、統治、行政システムが作られていないので、危機には弱いし、総理大臣の指導力がスピディーに発揮された例は少ない。いわば、日本の政治史は『指導力不在の機能しない政治史、無責任指導体制』のなのであり、これの繰り返しである。今回も、同じ失敗をしてはならないが、またまた同じ轍を踏んでいる。
なぜ、総理大臣がいなかったのか。震災の八日前の八月二十四日に加藤友三郎首相は大腸がんで死去し、後任に元老西園寺公望から推薦され二十八日に大命降下したばかりの山本権兵衛は、まだ組閣を終えていなかった。
未曾有の国家リスクの起きた九月一日、内閣総理大臣の椅子は空席だったのである。臨時内閣総理大臣は加藤内閣の外相内田康哉であった。
山本は組閣本部とした築地の水交社の二階で、平沼麒一郎に入閣交渉で対談中に、地震が発生した。このとき山本は負傷したと伝えられた。
「築地の水交社では新首相山本権兵衛伯が後藤(新平)その他を招致して協議に耽ってたが大地震と共に二階墜落流石沈勇の山本伯も顔色蒼白となり前庭に飛び降り其他の面々もこれに続いたが山本伯は壊れ落ちた壁土に肩を打たれ負傷し自動車を駆り帰宅した」(9月3日の大阪朝日の名古屋発の記事)
(以上は永沢道雄『大都市が震えた日』朝日ソノラマ、2000年)
水交社はその後、類焼するが、倒壊はしなかった。初震がやむと平沼騏一郎(司法大臣)と二人で庭に脱出し、藤棚の下の藤椅子で平沼と会談を再開した。
海軍大将・加藤友三郎に次いで非政党内閣を組織する山本は、出来るだけ挙国一致の体裁を整えようとしていた。非常事態の下に山本権兵衛は難航していた組閣を急ぎ、二日夜七時四十分、赤坂離宮庭園の萩の茶屋で親任式が行われた。
内務大臣後藤新平、陸軍大臣田中義一、逓信大臣犬養毅。十の閣僚ポストのうち四大臣がとりあえず兼任。初閣議は首相官邸の芝生にテーブルを置き、四囲の空が赤く染まる中で行われた。スピード重視、形式、法令は非常時には無視すればよい。
三日の山本内閣成立前、内田康哉臨時首相の主宰する臨時閣議で「臨時震災救護事務局」の設置を決めた。総裁は内閣総理大臣、副総裁が内務大臣、それに各省次官と警視総監、東京府知事の参与を決めて、二日午後三時、局員は内相官邸に集まって事務分担を決めた。
この時、山本はすでに引退していた71歳の老体だが、最後の大物でその指導力は際立っていた。
この人事で帝都復興院総裁に『大風呂敷』後藤新平を任命したのも山本の見識だった。これから山本がリーダーシップを発揮しようという矢先の4ヵ月後の12月27日に摂政宮(昭和天皇)が狙撃される虎ノ門事件が起きる。これによって内閣総辞職した。
国難克服に最も強いリーダーが必要な時に、強い慰留を受けながら責任をとって総辞職したのである。
(対比―大連立構想で中曽根元首相(93歳)、森喜朗元首相(74歳), 古賀誠元自民党幹事長(71歳)らがまたぞろ動き出しているが、有害なのは若手の失敗ではなく、老人の跋扈である。老害は去るのみである。若手で体力のある科学的な知識とグローバルなリーダーシップを兼ね備えたリーダ―に任せないとこの国難は乗り切れない)
2・・日本資本主義の父・渋沢栄一の決断と行動力はスゴイ!、見習え
『財界の大御所』「民間外交の父」・渋沢栄一はこの時は83歳である。兜町や飛鳥山の邸宅、事務所は全焼した。幕末史の膨大な資料や、六百以上の論語のコレクション、栄一自らの記録や手紙類が置いてあり、その夜の火事ですべて焼失した。
家族は老齢と健康を心配して埼玉の郷里に避難することをすすめた。すると、渋沢は激怒した。この国難にこそ最後の御奉公に立ち上がるとの気概に燃えていたのである。
「バカなことをいうな!。わしのような老人は、こういう時にいささかなりとも働いてこそ生きている申しわけが立つようなものだ。それを田舎に行けなど卑怯千万な!これしきの事を恐れて八十年の長い間生きてこられたと思うのか。あまりといえば意気地のない。そんなことでは、こういうさい、ものの役に立ちはせんぞ」(木村昌人『渋沢栄一』(中公新書、1990年)
九月四日、新任の内務大臣後藤新平が騎兵の一団をよこした。栄一は早速、まだあちこち火の手があがる町に出て、後藤に財界トップとして全面協力し、陣頭指揮に立ちあがった。
(参考・この渋沢栄一の見識、気概と決断力と、東電のトップと経団連のトップ(東電会長が経団連のトップ指定席)の思考停止、右往左往ぶりの今回示の態度をとくらべてほしい。常在戦場の意識と立ち上がりが皆無である)
九月九日には商業会議所と国会とが共同で 「大震災善後会」が発足し、救済寄付金の募集や救護活動、被害状況の視察や罷災者の慰問など目の回るように忙しい毎日が続いた。(木村同著)
『日本を救え!』-アメリカの友人たち、経済界、赤十字、「最もよく知られた日本人」としての渋沢のもとに寄付、救援品、厖大な義援金が集まった。
ワシントン会議(1921年―大正10年)以来、日米間にわだかまっていた不信感と対立感情がこれによって一挙に氷解し、親密ムードにかわった。
対立していた中国からも『日本を救え』という同情が多く寄せられ中国からの義損金の総額はアメリカおよび英国についで二百六十万円もの多額にのぼった。
革命政府トップの孫文からも渋沢に丁重な見舞いの手紙が届いた。「自分は何回となく貴国に亡命したが、そのときに滞在したことのある地域がことごとく焼失したと聞いて、当時を想い感無量である。今後の復興は大事業であろう。ご近況をお伺いかたがたご平安を祝す」とあった。
ところが、木村昌人『渋沢栄一』(中公新書、1990年)によると、日米、日中の親善ムードも一挙に吹き飛ばしてしまうようなニュースが伝えられた。震災の最中、東京の亀戸地区で数百名の中国人労働者が虐殺されたというのである。中国の新聞は一斉にこれを報道し、日中関係は元の緊張状態に戻った。日本ではこの事件は一切公表されず、中国の新聞に出てからも政府はこれを誇大な宣伝であるといってろくに調査もせず、事件は闇から闇に葬られようという形勢であった」
また、朝鮮人虐殺、亀戸事件もアメリカのメディアで報道されて、その親善、友好ムードも一転してしまう。
大正十二年十二月五日、日米関係は、突然最悪の事態を迎えた。米連邦議会に日本人移民を排斥するの「排日移民法」が提出されたのである。当時、米国全土には約12万人、カリフォルニア州で7万人(州総人口の2%)の日系人が生活していた。同法案は24年に通過して施行されたが、これが日米戦争への遠因となったのである。
今回の震災、福島原発事故に対する海外の態度は同情、救援、親善ムードが続いているが、原発事故の収束の長期化が危惧され、放射性物質の放出、各国への影響が今後どうなっていくのかによって、海外のメディア、各国政府の態度がよりきびいしいものになって来ることは間違いない。
歴代政府の欠陥のスローモー(遅い)、リトル(小出し、先送り)、情報公開しない、外国メディアの無視ーが続いている。今は非常時である。非常時内閣、いや戦時内閣、鈴木貫太郎の終戦内閣で示された決断と勇気にこそ見習らわなければならない。あの時の陸軍の大撤退、大混乱の収束と結果を時系列的にシュミレーションしながら、今回の事態はさらに予測不可能、人類が初めて経験する難問題との長期戦であるとの
覚悟をもって、世界の叡智と実戦的プロ集団の力こそ借りるべきである。学者、役人、研究者など何十人集めてもより決断が遅れるのみの小田原評定であり、残念ながら、国内にこの超難問解決人間はいないのではないかと思う。そこが、この『ジャパンクライシス」の本質である。今からでも遅くない、ザ・デイ・アフターの地球温暖化阻止、原発放射能阻止の30年戦争の日本版「統合参謀本部」を設置すべきであろう。
原発事故は単に一国の問題ではなく、世界的な問題であり、放射能、放射性物質の飛散、海洋投棄は国際的な問題に発展することは間違いない。IEAEで管理せよとの声もフランスジャック・アタリらは主張しており、今の内向き一辺倒の政府の『ノ―コントロール』ぶりからいうと、原子力行政の失敗と同時に関東大震災と同じ「外交的な失敗」の再び繰り返すのではないかーと気になる。
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