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『リーダーシップの日本近現代史』(252)/★『敗戦直後の1946年に「敗因を衝くー軍閥専横の実相』で陸軍の内幕を暴露し東京裁判で検事側の 証人に立った陸軍反逆児・田中隆吉の証言➂『「米軍の本土空襲はあり得ない、疎開は卑法者の行為」と主張した東條首相』★『AI(人口頭脳),IoT,ロボット,5G、デジタル社会にシフトできなければ<ガラパゴスジャパン>は沈没あるのみ』

   

 

  

終戦70年・日本敗戦史(83)記事再録

「貧弱なる防空施設ー本土空襲はあり得ない」「疎開は卑法者の行為である。工場の分散は戦力を低下する」と東條首相。この結果、田中兵務局長は辞表を提出した。 

石原莞爾中将

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE

はその国防政治論において「戦争の様相は航空機の発達に依って一変した。戦争は軍隊と軍隊とが衝突する以前に、或はこれと並行して相手国の政治経済生産の中心地帯に対し猛烈な爆撃が行われる。その結果は或る場合には戦争の勝敗を決する」との意味のことを述べておる。正に然り。近代戦の特質は航空機の質と量とが、その遂行に重大なる役割を演ずる所にある。

大東亜戦争もまたこの例に洩れることは許されない。従って我日本本土の防空施設の如何は、戦争の勝敗を左右する大問題である。然しいかんながらこれに対する陸海軍首脳部の関心は殆んど絶無に近かった。彼等はロを開けば常に言った。

「末だ寡聞にして爆撃に依って敗れたる国家あるを聞かぬ」と。又いわく「成層圏飛行機の出現を見ざる限り、日本本土の爆撃は絶対に不可能である」と。東条首相は満々たる自信を以て「日本の本土は、かりに敵の爆撃を受けても絶対に大丈夫である。それはドイツと異り敵の基地が遠隔の地にあるのみならず、日本の建築物は欧洲の夫れと異なり、平面的にして木造なるが故に、被害はドイツの如く甚しくない」と云った。海軍の平出大佐は「無敵海軍の存在する限り、我本土には、一機といえども敵の侵入は許さない。防空演習の実施は帝国海軍を侮辱するものである。」 と豪語するを常とした。

前の二者は、航空機の如き重要なる兵器は、戦争の間には、一年能く平時の十年の進歩を遂げることを忘れた議論である。後の二者は、緒戦のかくかくたる勝利に心香り、近代戦の特質を無視した暴論である。

私の知る限りにおいて、開戦当時、我日本本土全域にわたり比較的完全と認めらるる防空壕のあったのは、宮城と市ヶ谷台の陸軍省との二ヶ所に過ぎなかった。この二ヶ所を除いて全国何れの地点にも千キロ爆弾に対し安全なる防空壕は絶無であった。

兵務局は国内防衛に関する軍政的事項を掌る。私は部下を督励し、又自らも筆を採って、防空施設計画を立案した。一月中旬その第一案を大臣に提出した。その要点は、先づ防空施設の完備せる皇居の新築を始め、大都市の疎開・重要軍需工場の分散防護に重点を置き、一方電力源、交通通信機閑の保護をもあわせ行わんとしたものであった。

この計画は東条首相に依り一蹴せられた。いわく。「疎開は卑法者の行為である。工場の分散は戦力を低下する」と。この頃東京の有産階級は、その貴重なる家財を別荘等に疎開し始めた。局長会報の席上、機甲本部長本田中将は「金持の疎開は怪しからぬ。これでは貧乏人が可哀相だ」と言った。私は「金持ちだろうが貧乏人だろうが、疎開はドシドシやらせるがよい。戦争に公平があるものか」と応酬した。

二月始め「都市に於ける防空施設の強化が不可なりと言うならば、せめて、都市に働く壮健なる男子の手足纏とならぬように、老幼婦女子及学童の疎開を、可能の範囲において実行せられたし」と進言したが、又々。東条首相に依って一蹴せられた。

いわく「我日本は家族制度の国である、老幼婦女子及学童の疎開は、日本の家族制度の美風を破壊する」と。

四月十八日帝都に最初の空襲があった。その損害は、私の計算では、爆弾一トンに対し、死者十名、負傷者は重軽傷を合して二十名であった。私は愕然とした。即ち英国において発表せられた損害の十倍だからである。

私は直ちに兵務局に於て作成した計画を更に研究加除して、防空施設計画の第二案を立案し大臣に提出してその実施を懇願した。流石に此時はその必要なしとして一蹴はしなかったが「これが実施には莫大な経費と膨大なる資材が要る。これを防空施設に費すよりは、第一線の戦力増強に使用すべきである。故に大なる経費と資材を要しない施設ならば実施を許可する」とのことであった。

この時内務省が苦心惨憺の上、考案したのが、本年三月九日東京の本所深川の空襲の際、人間の蒸し焼き場と云あれた室内待避所である。

私は東条首相の態度、かくの如く頑迷なるにおいては、部内の与論を喚起して、省内一致の意見として、東条首相に実行を迫る外なしと考えた。私はある日の局長会報終了後、軍需工場の最も密集せる川崎、大森地区の詳細なる地図を示して「英国は1936年から四十年に亘る間に十億ドルの巨費を投じて、全国にわたる防空施設を完了し、然る後、対ドイツ戦に突入した。故に開戦劈頭における猛烈なドイツ空軍の爆撃に堪え得たのである。我国の軍需工場の状態はこの地図の通りであって、誠に寒心に堪えない。今にしてこれに備えなければ、悔を千年の後に残すことと成る」と主張した。

流石に吉積正雄整備局長http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%A9%8D%E6%AD%A3%E9%9B%84

は軍需生産に関係があるので「これでは空の要塞二百機が来て京浜間を爆撃したら戦力は半減する。それで戦争は御仕舞だ」と呟やいた。しかし、東条首相は「英米空軍がドイツに対して行ったような爆撃を日本に行うことは不可能である。それは貴官の取り越し苦労である」とて又々、これを一蹴した。兵務局の考えたことは無駄となった。

私はこの地図を参謀本部の第一部長田中新一中将http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%96%B0%E4%B8%80

に示し、兵務局の企画する防空施設計画の内容を詳細に説明してそ

の援助方を懇請した。田中氏はこれは「是が非でも実現してもらわねばならぬ、もし、これが実現しなかったら戦争の前途は楽観を許さぬ」と私を激励した。防空施設は莫大なる経費を要する。軍事予算は軍務局の掌握する所である。私は武藤中将の後を継いだ佐藤賢了少将の許に至り経費の捻出方を要求した。彼は東条首相と同じく「軍事予算を内地の施設に費すことは不同意である」として頭として応じない。

私は「然らば参謀本部は作戦遂行上是非必要であると言っておるから、参謀本部より陸軍省に要求させる」と息きまいた。その足で参謀本部に赴き「参謀本部より作戦上絶対に必要なりとて陸軍大臣に要求してもらいたい、この計画実行のためにはかくすることが残された最後の手段である」と、その実行を強く要望した。然し、田中氏は「尤であるが、参謀本部から陸軍大臣に要求し、陸軍大臣がこれを拒絶すれば、省都の正面衝突を惹起する。結果は重大である」と体よく断った。万事はここにおいて全く休したのである。

ある日私は「何んと言っても戦争は人間がするのであるから、人間の生命を爆撃から救うために、山岳国たる日本の特徴を利用して、横穴式防空壕を堀らしたら何うか。それならば資材と経費を節約することが出来る。東京にも上野山、愛宕山、外濠の堤防等之に適する所は沢山ある」と主張した。兵務局の計画が実現せられずとしても、せめて人の生命だけは成し得る限り保護したいと思ったからである。

条首相は「山や丘のない所には横穴は掘れない。それは随意に掘らせればよい。政府が奨励し指導することに成ると不公平である」と反対した。寛に度し難き頑迷さである。

九月二十二日、私は東条首相の許に至り辞表を提出した。その原因は後にくわしく述べるけれども、この前日、外相を辞表した東郷茂徳氏http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E8%8C%82%E5%BE%B3

との約束に基くものである。

私は言った。

「もれ承わる所に依れば、大東亜戦争は、日本はこのままでは、戦うも戦わざるも亡びるから、死中に活路を求めるためやむを得ず断行せられた由である。死中に活路を求めんがためには、米英が、戦意を喪失するまで戦わねばならぬ。

換言すれば果てしのない長期戦である。この長期戦を完遂するためには、将来必ず行われる敵の空襲に対する防御施設を出来るだけ完全ならしめなければならぬ。これがなければこの戦争は必敗である。然るに閣下は、その必要なしとの楽観論者である。私は悲観論者である。この悲観論者が閣下の如き楽観論者の下にあることは閣下の戦争指導を妨害することに成ると思うから、ここに職を辞する、殊に近時、健康勝れず職務の実行が不可能と思うから是非聴許せられ度し」と。

その日午後1時、私は陸軍省を去った。不幸にして私の予想は適中した。日本は終に防空施設の不徹底により、惨敗を喫した。

つづく

 - 人物研究, 戦争報道, 現代史研究

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