日本風狂人伝⑪ 直木三十五-「芸術は短く、貧乏は長し」
日本風狂人伝⑪
2009,6、30
直木三十五-「芸術は短く、貧乏は長し」
前坂 俊之
(なおき・さんじゅうご)/ 一八九一~一九三四年)作家。大正十二年創刊の「文藝春秋」に文壇ゴシップを連載。昭和五年に『国太平記』で一躍ベストセラー作家に。同七年にファシズム宣言をして話題になる。間もなく急死。親友の菊池寛が 同一〇年に直木賞を作った。
文学賞で最も有名なのは「芥川賞」と「直木賞」である。「芥川賞」は芥川龍之介から、「直木賞」は昭和初期に大衆小説で鳴らした直木三十五からである。その直木三十五は本名・植村宗一。「時事新報」(日刊紙)に短評を書き出したのが三一歳だったので、これをペンネームにとり、「植」の字を二つに分解して「直木三十一」とした。以後一年ごとに、名を年齢どおりに変えていき、三五歳になった時にやめた。このため、直木三十五となった。
直木は一九〇五(明治三八)年、大阪の市岡中学校に入学した。本好きの直木は、手当たり次第に本を乱読、できたばかりの府立中之島図書館へ通いつめた。本を読みすぎて成績は下がる一方だった。
ある時、試験で答案の文字が小さいと注意された。直木は次の試験の際、ワラ半紙をたくさん持ち込んで、一枚に一字ずつ大きく書いて出した。弁論大会でも「試験亡国論」をぶって、問題となり、退学寸前になった。
一九一一(明治四四)年、直木は早大英文科予科に入学した。一学期が終わると、高等師範部にかわったが、間もなく学費滞納のため除籍された。
大正五年、早大で同窓生の卒業式が行われたが、その日、直木は級友の青野季書(評論家)に頼んだ。
「大阪でオレの卒業の日を楽しみに待っているオヤジを、なんとか安心させてやりたい」
そう言って、卒業記念撮影が行われる寸前、直木はその中にもぐり込んで、首尾よく卒業生と一緒の姿を撮影、父親に送って親孝行した。
売れっ子作家になるまでの直木には、借金の山があった。このため、借金取りには慣れっこで、独特の〝金貸せ、借金取り撃退法″をマスターしていた。
その方法の一つはダンマリ作戦。
借金取りが次々に訪れると、どんなに文句を言われたり、責められても〝沈黙は金″のダンマリを何時間も、半日でも、一日でも続ける。
借金取りはしゃべりつかれて、一人、二人と退散。そのうち、ダンマリを続けていた直木が初めてポッリと話す。
「腹がへった。金を貸してくれないか。何か食おう」
これには、さしもの借金取りも二の句が告げず、「あんまりバカにするな」と言って、帰ってしまった。
おおみそかでも、借金取りが自宅前の路上で夜通したき火をしながら、直木が帰るのを待っていた、という。
そうした金欠病におちいりながら、直木の浪費グセはまったくケタ外れだった。流行作家として稼ぎまくり、湯水のごとくつかい、亡くなった時、遺産は全然なかった。当時、日本にはたった一台しかないといわれた派手なオープンカーに、それも真冬に外套はもちろん、エリマキ、帽子もかぶらずブルブル震えながら、諷爽(さっそう)と(?)乗り回しては、一人悦に入っていた。
ある時、それほど親しくない芸者と一緒に銀ブラをした。ショーウインドーをみて芸者が「アラ、ステキなダイヤの指輪ね」とタメ息をついた。
直木はさっそくその店に入り、その指輪をサッと買って、芸者に渡した。芸者はポカンとして、直木の顔をみつめていたのを、通りがかった友人が目撃した、という。
そうした直木を見習ってか、長女、木の実も昭和初期(二~五年)、日曜日には直木が必ず泊っていた菊富士ホテルにハイヤーを呼び、丸一日、乗って遊び回っていた。木の実が十歳の頃である。
「お父さんにしかられないの」と聞くと、
「平気よ!」と上野公園やら、浅草やら一日中乗り回して、月末には相当のハイヤー代となったが、直木は小言一つ言わなかった。
直木は性格的に過激なところがあった。それが突出し、露悪趣味の冗談の裏返しから出たのが「ファシズム宣言」であった。昭和七年一月の読売新聞に、直木は「ファシズム宣言」を発表し、一躍評判になった。
「ぼくが一九三二年より一九三三年までファシストであることを、万国に対し宣言する。……ぼくの『戦争と花』とをファシズムだとか-君らがそういうつもりなら、ファシストくらいにはいつでもなってやる。それで、一、二、三、ぼくは、一九三二年中の有効期間を以て、左翼に対し、ここに闘争を開始する。さあ出て来い、寄らば斬るぞ。どうだ、怖いだろう、と万国へ宣言する」
ある随筆で、直木は「おれの生まれる時、母のヘソの穴からのぞいてみると、薄っぱげなオヤジがいて、オヤオヤたいへんなボロ家だナ、とあきれたもんだ」と書いているが、終生、貧乏から抜け出せなかった。
「芸術は短く、貧乏は長し」-直木が詠んだ文学碑が鎌倉に建っている。
直木の金づかいは一風かわっており、必要なものには金を出さず、ムダなところには惜し気もなく、金を使う主義であった。
神奈川県富岡に、二万円もする豪邸を建てたが、窓ワクだけに何と千数百円も投じた。友人から金を無心されると、イヤとは言わず心よく応じた。
一九三四(昭和九)年二月一四日、直木は四四歳で亡くなった。
『東京朝日』は三月九日付の朝刊で直木の遺産についての記事を載せ、「文壇一の借金王」と名づけた。
その記事によると-。
「直木氏は湘南富岡に二万円もかけて新居を建てた。四〇〇〇円もする志津三郎兼氏の名刀を手に入れた。好きでも何でもない芸者に、数百円もするものを惜しげもなく買い与えて喜んだり、女でもどうかと思う二、三百円もする三面鏡を三つも座敷に置いて、一人で悦に入っていた。汽車に乗ればボーイに与えるチップに日本一ぶりを発揮……」といった具合。
友人代表の菊池寛が借金を調べ上げたところ
(1)富岡の家の借金 四〇〇〇円
(2)三越、松屋、高島屋へ 二〇〇〇円
(3)料理屋 一〇〇〇円
(4)日本刀 八〇〇〇円
など借金の山。直木の死ぬ直前の原稿料や、香典合計四〇〇〇円を差し引いても、とても払いきれない。このため、菊池は「直木三十五追悼号」や全集を計画、残された家族のために何とかする方策を考えた。
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