『リーダーシップの日本近現代史』(34)記事再録/当時の清国(中国)が侵略と言い張る『琉球処分にみる<日中対立>、台湾出兵をめぐる対中外交を絶賛した「ニューヨーク・タイムズ」(1874年(明治7)12月6日)
日中韓150年戦争史を踏まえて外交力を再構築せよ⑤
当時の清国(中国)が侵略と言い張る『琉球処分にみる<日中対立>、台湾出兵をめぐる対中外交を絶賛した「ニューヨーク・タイムズ」(1874年(明治7)12月6日)
前坂 俊之(ジャーナリスト)
中国の恫喝外交、国際法無視の外交は140年前から変わったのか。日本の外交は中国とは全く違い、尊敬に値する寛容な国家であると絶賛している。政府、外務当局は明治外交を研究せよ。
たいわんしゅっぺい【台湾出兵】 とは以下の説明である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%87%BA%E5%85%B5
1874年(明治7)清国台湾に日本が出兵した事件。開国後最初の海外派兵。征台の役,台湾事件ともいう。1871年琉球宮古島,八重山島の漁船が台湾に漂着し,乗組員多数が原住民に殺害され,さらに73年には岡山県の船員が略奪されるという事件が起こった。このため早くから「征韓論」を唱えて大陸進出をめざしていた外務卿副島種臣は,これを台湾征討の理由とし,あわせて琉球の帰属問題を国際的に明確化しようとし,前厦門(アモイ)駐在のアメリカ領事ル・ジャンドル(李仙得)を顧問に雇い,その助言によって出兵を計画した。
1874年(明治7)12月6日付『ニューヨーク・タイムズ』
『新しい東洋の外交』
当世の日本人の文筆家たちは,「東洋的」という言葉で自国を形容したがらない。彼らは.とりわけアメリカ人が日本のことを東洋諸国の一員と呼ぶと,あれこれ理由をあげて.それが地理的に矛盾していると主張する。しかしながら.日本を地理的にどう呼べば正しいかは別としても.この国は民族学的特徴においては完全に東洋の範囲に入る。
この一般的見解が示す真理の明らかな例外は,日本の外交だ。中国は東洋的特徴の典型であり.諸外国への対応は陰険で欺瞞に満ち.無慈悲,かつとらえどころのないものだ。
中国は各国公使に威張りちらし,それからあれこれと引き延ばす作戦に出る。二枚舌はいつの時代にもヨーロッパ使節団を煙に巻く方便だった。日本はこの種の外交をまず行わない。アメリカの遠征による率直で執拗な働きかけを受けて世界に国を開いてから,日本は尊敬に値する寛容な国家であることを身をもって示し.今ではわれわれも認めるところとなった。日本の外交が収めた今回の勝利は.台湾紛争の名誉ある解決といえよう。
文明諸国でさえ,台湾の狼籍には手の施しようがないとして,長い間甘んじてきたのだった。台湾は半蛮族の住む大きな島で.ヨ一口ッパとアジアの重要な交易路にあたっていた。このきわめて排他的な島の海岸に上陸した者は,遭難した場合でもそうでない場合でも.虐待されるか殺されるかした。表向きは中国が台湾を統治していることになっていたが,ほとんど有名無実で,どこの国もそれを本気で認めてはいなかった。
ついに,日本のジャンクが島の海岸に流れ着き.乗組員が例によって虐待を受けたため.日本はあれこれ質問することなく,台湾人征伐の兵を派遣した。戦闘が始まって数週間もたたないうちに,18部族のうち16部族が日本軍の司令官に降伏を伝え.残りの2部族の平定を助けると約束した。
北西から自国の領土に不名誉な侵入を受けて気分を害していた中国は,けんか腰でこの敵対的侵略に対する説明を求めた。
日本は驚きながらも友好的な態度で,中国が台湾を統治もしくは所有しているのか,と尋ねた。そのとおりであるとの返事を受けた日本は,当島はどこからもきちんと統治されておらず,そのために文明社会の厄介者になっている.と伝えた。さらに.台湾人は厳しく成敗されて行儀よくなっており,日本としては当島の正統な所有者が見つかったからには遠征隊を引きあげる,と付け加えた。しかし.島民をしつけるという厄介な仕事にかかった費用は.当然中国が支払うべき筋のものだと。
中国側は多分に虚勢を張って戦争も辞さない構えを見せた。しかし,日本は.フランスとの交渉で終始「メキシコから出ていけ」と主張したあのシュワード国務長官のような断固たる態度で臨んだ。今回.中国は.東洋の抜目のなさと西洋の容赦のなさをいっぺんにつきつけられ,日本の遠征費として75万ドルを支払うことと,台湾の平静を保つことを約束した。これは文明国の仲間入りをした最も若い国(正式認知や年代順に数え上げれば)が誇りにしてよい勝利だ。
事態は終始,威厳と洞察力をもって,しかも世界の国々の親しい付合いの要である国際礼譲をきちんとふまえて進められた。望んだものをすべて手にした日本は,中国が支払いを承諾した賠償金の一部だけを受け取るか、もしくはまったく受け取らないと申し出るのだろう.と言われている。
そうなれば.これは少しばかり英雄的な行為と言えるだろう。なぜならば,日本は現在それほど財政的にゆとりがあるとは言えない状態だからだ。しかし.それは古くて新しい日本という国の外交慣習にぴたりと一致するものだろう。つまり世界に向かって.実際にこう言おうとしているのだ。「われわれは,通商と人類の利益のために.こうしてひと働きしたが,それは近代文明に対するわれわれの貢献であり,経費はすべて自腹を切るつもりだ」と。
1874(明治7)年11月12日『ノース・チャイナ・ヘラルド』
『問題解決から得られた教訓』
中国をはるかに劣小な国に譲歩させた原則の価値は過大評価が困難なほど大きい。たとえどのような立場から考えるにしろ.それは日本が訴えてきた主張のみならず,それを押し通した方法においても正しかったことを認めたことになるのだ。琉球のジャンク数隻が台湾沿岸で難破し,乗組員が台湾の蛮族に殺されたのだ。もし台湾のその地域が中国のものでなかったとしたら.中国に賠償金を求める口実は存在しない。
だが中国のものである場合は,蛮族に悪事を働かせないよう統治し.犯罪者を罰するのが地方政府の務めだ。もし地方政府がその自明の義務を怠るか,あるいは中央政府が,通常の義務を運行できないほど無力な地方政府をはうっておいたとするならば,中央政府は,友好国の臣民が受けた不当な行為に対し.明らかに損害賠償の責任がある。こが日本のとった立場だった。中国政府はいっものように責任をひたすら否定することによって義務を逃れようとした。そして中国は主権を主張し,日本の遠征は主権を犯すものと断言する一方で,その主張に付随する義務を拒否した。そのような議論や論理は,今まで先進国の外交官との交渉で幅をきかせていたが,新参の国家はそういう考え方ややり方を理解できなかった。
若い文明国の活力は,先進国の疲弊した無気力とは全く異なるもので,先進国が試みたら間違いなく失敗したことにも成功したのだ。
日本が中国に与えた教訓は,今後北京の外国公使たちに影響を与えるだろう。というのは,ちょっと熱心に毅然たる態度で臨めば効果があることがわかったからだ。
北京の各国公使館事務局に眠っている中国に対する要求.それはまた無気力に主張され,そしてきわめて不十分で幼稚な理由によって棚上げされているのだが,その要求のすべてとまではいかないまでもほとんどが.日本間題,すなわち不法行為を被り,それが補償されなかったという問題の根底にあるものと全く同じ性質のものだ。日本のおかげでそのような問題の解決方法が今.示されたのだ。先進国の公使たちは.文明国の中で最も若い国を控え目にまねしながら.作り出されたその先例を早速利用するものと思われる。ところで賠償額があまりに少ないため.中国政府は教えられた教訓を遺憾ながらすぐに忘れてしまうというおそれはある。
しかし、今後わが代表たちは,これまであまりに頻繁にそうだったように中央政府.地方政府,個人のいずれに責任があるかという.際限のない議論の中に要求の決着を埋没させるようなことは許されないだろう。
1874年明治7)11月12日『ノース・チャイナ・ヘラルド』
『問題の解決』
日本大使.大久保利通と多数の随員を乗せて到着したのだ。解決の条件を記した条約文書は,10月31日,日本の大使と総理衝門の高官とによって署名された。われわれが確かめた限りでは.条約により日本は.中国が台湾全土に対し主権を有することを認め.中国は,日本が臣民である琉球人の虐殺に際し遠征隊を派遣したことと.両国間に友好通商条約の交渉が行われたときにとられた行動についての正当性を認めた。
条約には50万テールという金額の支払が規定されている。その5分の1は殺された琉球人の家族に対する補償金で直ちに支払われる。残る40万テールは,台湾で日本軍が作った道路や建物に対する賠償金で,日本軍が台湾から撤退するとき支払われ.その撤退時期は12月20日までと定められている。賠償金は福州と天津の関税収入から支払われる。日本の大使はこのように問題を解決し終えると.すぐに北京を発った。
問題に決着がつく直前,交渉は非常に危険な局面を迎えたように見えたので.首都から.平和かあるいは戦争かという正反対のうわさが広まった。10月の半ばごろ,障害は調整されそうになったが.数日後.賠償金の問題が持ち出されると,部分的に合意に達していた交渉は振出しに戻った。
大久保は日本軍が撤退し,中回の台湾全土における主権を認める代価として500万テールの陪償金を提案したが.中国側に拒絶され,今度は賠償金額を引き下げ,日本政府の台湾遠征の正当性を全面的に認めることを提案したとのことだ。
中国はこの提案にも譲歩することを拒否したが,難破した琉球人の虐殺に対しては10万テールの支払いを申し出た。日本の大使はこの申出を拒否.両国の頑なな態度から決裂は避けられないものと思われた。
10月24日土曜日,日本の大使と公使は,次の月曜日の朝,北京を発つとの意向を表明した。ル・ジャンドル将軍と使節団の一部は.大使たちに先立って出発したが,天津に着いたとき,大使たちが予定時刻に現れなかったので少なからず困惑した。しかし25日,イギリス公使ウェード氏が,われわれの思うところでは中国の要請により,大久保に出発を延期し.平和的解決に向けてさらに努力するよう説得した。ウェード氏の仲裁により,続く1週間の交渉の後.最初に述べた合意が得られたのだ。
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