人気記事再録/『世界が尊敬した日本人⑧『地球を彫ったイサムノグチ』(2008年5月)★『世界から尊敬された日本人ではなく、日本主義と戦い、それを乗り越えることでコスモポ リタンとなった。』
『世界が尊敬した日本人⑧』
前坂 俊之
(静岡県立大学国際関係学部教授)
太平洋戦争の敗戦直後、廃墟の中で茫然自失していた日本人に対してイサム・ノグチは『新しい日本人』(「ジャパンタイムズ」1947年3月27日付)で「日本人の優れた美的感覚をいかせば、フランスがヨーロッパを圧倒しているごとく、『武器』ではなく、『文化』で日本は東洋での指導的立場を確保できる。
ただし芸術は個人の才能の発露であり、ナショナリズムによって成就できない。芸術はあくまでも国際的言語でなくてはならない」
これは明治以来の日本の狭量なナショナリズムと父に代表される排他的な日本人に対する批判であったが、60年前にすでに『ソフトパワー(文化力)』『クール・ジャパン』を発揮せよと説いたその先見性には驚く。
イサム・ノグチは1904年(明治37)11月、日本人として初めて欧米で英語詩人として評価され、のちに慶応大英文科教授となった詩人・野口米次 郎と米国人作家、教師のレオニー・ギルモアとの子として、ロサンゼルスで生まれた。米国の排日移民法の影響で、2歳で母と来日したイサムは混血児として差 別され、父からは入籍してもらえず、傷心を抱いた少年期を過ごした。2つに引き裂かれ人種的アイデンティティーが、生涯にわたるイサムの苦悩の根源となっ た。
1918年、母はイサムを1人で米国に帰した。苦学してコロンビア大学医学部に進学、芸術家になりたい一心で、美術学校の彫刻のクラスに通った。こ こで才能を見込まれ1927年にパリに留学、彫刻家ブランクーシの助手となり、藤田嗣治らとも交友した。一九三〇年には、東洋の精神を求めて、中国に半年 間滞在して水墨画を学び、再来日する。父米次郎と再会を果たすが、父はすでに結婚しており、2人のミゾは埋まらない。京都を訪れたイサムは埴輪や日本庭園 など日本文化の真髄に魅了された。
「日本ではいつもガイジン扱い、米国では半東洋人、日系人」として、日米のはざ間で翻弄され続けたイサムの帰属する場所はどこにもなかった。 1941年、真珠湾攻撃によるに日米戦争開戦と同時に、在米日系人約13万人は強制収容所に押し込まれた。米国籍のイサムはアリゾナの収容所に自ら入り、 日系人の生活環境の向上に取り組んだ。
長年にわたる父と日米への激しい愛憎と葛藤、自らのアイデンティティーを求めての魂の遍歴、漂泊が強烈な芸術的推進力となって彫刻にぶつけられた。 彫刻は人物の彫塑から、より大きな石の彫刻や石とステンレスを使って彫刻へ、さらに巨大な石造のモニュメント、空間デザイン、ランドスケープに、地球に、 永遠のものに刻んでいく方向へと飛翔していった。
政治的な壁画「メキシコの歴史」(メキシコシティー、1936)ユネスコ本部の庭園(パリ、1950)、「ビリーローズ彫刻庭園」(エレサレム、 1965)、「大阪万博の噴水」(1970)、「イサム・ノグチ庭園美術館」(ニューヨーク、1983)、より巨大化して最後はペルーのナスカの地上絵を イメージした壮大で自然と一体感のある「モエレ沼公園」(190ヘクタール)(札幌)へと発展する。モダンな数十の作品群を世界各地に作った。
この間、イサムはニューヨークや香川県牟礼にアトリエをもって、日米間を股にかけて、巨大な石の彫刻やランドスケープと同時に書、絵画、陶芸、岐阜 のチョウチンにヒントを得た「あかり」の照明器具は世界的なベストセラーとなったり、イスや机などの家具類、舞台芸術、建築デザインとあらゆるジャンルを 手がけ、世界中を縦横無尽に疾走した。
恋愛、数々の女性遍歴の末、ニューヨークで、女優・山口淑子(李香蘭)と恋に落ち、1951年に2人は結婚する。鬼才・北大路魯山人とは互いの才能を認め合い、北鎌倉の魯山人邸の一隅に新婚の2人は居を構えて、イサムは陶芸にも励んだが、約2年で破局した。
晩年のイサムは1986年、第42回ヴェネツィア・ビエンナーレでは米国代表となり、翌年にはレーガン米大統領から国民芸術勲章を受章して、晴れて 20世紀を代表する芸術家の一人として認められた。
イサムの生涯は自文化主義、ナショナリズムからはじき出され、もがき、苦しんだ末に、コスモポリタンと して東西文化、異文化を融合し、多文化主義的な多数の作品を作った。世界から尊敬された日本人ではなく、日本主義と戦い、それを乗り越えることでコスモポ リタンとなった。
●『イサム・ノクサ略年譜』
1904-11月17日、ロサンゼルスに生まれる。父は日本人の詩人野口米次郎、
母はアメリカ人の作家、教師のレオニー・ギルモア。
1906-父と暮らすため、母と日本へ行く。
1918-単身で渡米。
1922-高校卒業。アーティストを志すが、一時断念し、秋にニューヨークに移り、
コロンビア大学へ入学。
1924-母の勧めで、レオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校の彫刻のクラスに通う。
校長オノオ・ルオトロの勧めで彫刻家になることを決意。
1927-グッゲンノ、イム奨励金を獲得し、パリに留学。6か月間、ブランクーシの
アトリエのアシスタントをつとめ、自らも制作する。
1930-北京で8か月間、斉白石に師事して毛筆デッサンを学ぶ。
1933-初めての大地のプロジェクト≪プレイマウンテン≫と≪鋤のためのモニュ
メント≫を設計。
1935-最初の舞台装置を振付師マーサ・グラハムのために製作。
1936-メキシコ・シティーで大規模な政治的壁画≪メキシコの歴史≫を製作。
1942-ニューヨーク、マクドゥーガル・アレイにアトリエを構える。
1946・-ニューヨーク近代美術館の『14人のアメリカ人たち』の彫刻を出品。
1950嶋ポーリンゲン協会奨学金を受けて、ヨ一口ツぺエジプト、インドを経て、日
本に到着。
1952一神奈川県立近代美術館で個展。
1961-ロング・アイランド・シティの小さな工場ビルにアトリエを設ける。
1966-シアトル美術館のための≪黒い太陽≫の制作を四国で開始。この作品
の制作を通じ、和泉正敏との共同制作が始まる。
1968-ホイットニー美術館で回顧展。
『ある彫刻家の世界』と題する自叙伝を出版。
1969-香川県の牟礼にアトリエを設ける。
1970-70年の大阪万博のために噴水を制作。
1980-ノダチの人と作品についてのドキュメンタリー・フイルム「イサムリグチ」(PBS
放送、ブルース・Wバセット)が製作される。
ホイットニー美術館開館50周年記念に「イサム・ノグチ」展。
イサム・ノグチ財団の設立。
1983-イサム・ノグチ庭園美術館が完成、予約制で公開。(1985午一般公開)
1986-第42回ヴェネツィア・ビエンナーレのアメリカ合衆国代表。
日本建築学会創立100周年を記念して、稲村財団が京都賞を授与。
1987-ロナルド1レーガン合衆国大統領より国民芸術勲章が授与。
1988-札幌モエレ沼公園のマスター・プランを作る。
新高松空港のための作品をデザイン(91年完成)。
7月、勲三等瑞宝章受勲。
12月、スカルプチャー・センター(ニューヨーク)より名誉賞受賞。
12月30日、ニューヨークにて逝去。
関連記事
-
-
世界が尊敬した日本人● 『東西思想の「架け橋」となった 鈴木大拙(95)』〔禅の本質の究明し、知の世界を飛び回る〕
世界が尊敬した日本人 東西思想の「架け橋」となった …
-
-
日本リーダーパワー史(278)EUの生みの親・クーデンホーフ・カレルギーの目からウロコの日本論「美の国」
日本リーダーパワー史(278) 『ユーロ危機、<西欧 …
-
-
★『オンライン70歳講座』★『今からでも遅くない、70歳からの出発した晩年の達人たち』★『農業経済 学者・近藤康男(106歳)ー70才の人生の節目を越えて、以後40冊以上の超人的な研究力』★『渋沢栄一(91歳)-不断の活動が必要で、計画を立て60から90まで活動する,90歳から屈身運動(スクワット)をはじめ、1日3時間以上読書を続けた』
百歳学入門(88)農業経済 学者・近藤康男(106歳)ー70才の人 …
-
-
「日本の歴史をかえた『同盟』の研究」- 「日本の新聞が伝えた日英同盟報道」①『日英の友好深まり、同盟の風説しきり〔明治31/1/20 ) 国民新聞〕●『露、独に対抗し日本と同盟すべしと英紙]』(31/1/26 国民〕●『イギリス誌、ソールズベリの同盟論を支持〔明治31/2/19 国民〕』●『<スクープ>英政府、日本に正式に同盟を申し込む〔明治34/12/27 二六新報〕』
★「日本の歴史をかえた『同盟』の研究」- 「日本の新聞が伝えた日英 …
-
-
『オンライン講座/日本陸軍の失敗研究』★『大東亜戦争敗因を 陸軍軍人で最高の『良心の将軍』今村均(大将)が証言する①』★『第一次世界大戦後のパリ講和会議で、日本は有色人種への「人種差別撤廃提案」を主張、米、英、仏3国の反対で拒否され、これが日本人移民の排斥につながった』★『毎年100万人以上の人口が増加する日本はアジア・満州に移民先を求めたのが、満州事変、日中戦争の原因になった』
日本リーダーパワー史(711) Wiki 今村均陸軍大将 https …
-
-
片野勧の衝撃レポート(62) 戦後70年-原発と国家<1954~55> 封印された核の真実ービキニの「死の灰」と マグロ漁船「第五福竜丸」(上)
片野勧の衝撃レポート(62) 戦後70年-原発と国家<1954~55> 封 …
-
-
『オンライン動画講座/大阪自由大学読書カフェで三室勇氏が「デジタル化する新興国」(伊藤亜聖著)を読む(2021/09/11)』★『「イノベーション・ジレンマ」の日本は「デジタル後進国に衰退中』
世界競争力ランキング(IMD)で、1990年までは第一位をキープし …
-
-
『1930年代のパリで恋と芸術と賛沢三昧に生き、600億円を使ったコスモポリタン・薩摩治郎八の豪華/絢爛なる生涯」(上)』★『15歳で男色小説『女臭』(300枚)執筆、レディゲ(堀口大学)と絶賛される』★『アラビアのローレンスに合う』★『ベルサイユ宮殿でピストル決闘』
逗子なぎさ橋珈琲テラス通信(2025/10/24 /am700) …
-
-
池田龍夫のマスコミ時評(81)◎「講和条約記念式典 「4月28日」は、沖縄屈辱の日』
池田龍夫のマスコミ時評(81) ◎「講和条約記念式典 …
