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日本リーダーパワー史(55) 海軍トップリーダー・山本五十六は国難にどう立ち向かったかーハワイ攻撃を立案した悲劇①

      2015/11/12

日本リーダーパワー史(55)

海軍トップリーダー・山本五十六は国難にどう立ち向かったかー

ハワイ攻撃を立案した悲劇①


歴史インテリジェンスからみた太平洋戦争と山本五十六①
 
前坂俊之
(静岡県立大学名誉教授)
 
日米中3国関係史をひもとくと、来年(2011年)はこの連載の前回に書いた通り、現代中国を生んだ孫文による辛亥革命からちょうど100年目です。一方、日米関係は今年は日米安保50年目の節目なのに、鳩山前首相の普天間問題をめぐる失敗で、両国の間はギスギスしたすき間風が吹いており、来年2011年は真珠湾攻撃の1941年からちょうど70年目を迎えます。三国関係の歴史的な類似性を強く感じます。日中友好と日米対立の構造の再現です。

文明、国家、経済もコンドラチェフの波だけではないですが、30年から60年の興亡のサイクルがあります。徳川幕府の崩壊、明治維新、日露戦争の勝利でアジアの超大国に、太平洋戦争で敗北(国家破滅)、再び高度経済成長によって世界第2の経済大国へ、バブル崩壊、平成大不況から、いま、3度目の国家破産へのカウントダウンが始まっているというのです。いずれもグローバルな競争のなかでの、当時のトップリーダーたちの日本丸のドライブミスという点が大きいと同時に、国民1人1人が自分たちでどのような国、社会をつくっていくのかという国家像なり、社会像、世界観が欠如していたということに帰着します。

① 明治維新以降150年の歴史を振り返ると、日本は自立国家と言うよりも、成り行き国家、オウンゴール国家(自滅国家)といった方が適切ではないかとおもいます。
特に、太平洋戦争までの過程は①暴走する軍部②軍部の中でも下剋上で中堅若手が権力を握って暴走するのを上層部がとめられない。
陸軍と海軍がことごとく対立、陸軍なって国家なし、海軍あって国家なしの無政府状態で、ましてや国民おやです。
政治家は軍人をまったく押えられずシビリアンコントロールできなかった。(たまたま、6月25日朝刊毎日新聞にはオバマ大統領がアフガニスタン駐留米軍司令官の大統領やアフガン政策を批判したかどで首にしたことを報じていました。米国のシビリアンコントロールが厳然と守られており、大統領が最高権力者で権力の1本かがきちんと実施されている)

② ところが、日本のように総理大臣の権限がいかに少ないものか、常に権力の2重3重構造が常態化し(鳩山小沢内閣のように、自民党時代も同じ)、国家最高の指導者が最高の権力を執行することができない状態、無責任国家体制、権力の真空現象、官僚主導国家が延々と続いてきたのです
。しかも、国家を滅ぼし、国民を犠牲に、その生活を塗炭の苦しみに突き落とした政治家、軍人官僚たちの責任は十分追及されてこなかった。この傾向は今も続いており、3権分立の司法がチェック機能を果たしていない。
③ 2世3世の世襲化した国会議員の多くを占めている永田町の世界は相変わらず『ドメスティックな田舎テレビ政治芝居」を続けて日本政治の崩壊したしたるリーダーシップ、政治の劣化を引き起こし、国家破滅寸前の状態です。世襲化と言うのは身分制度と同じであり、民主主義的な社会ではないばかりか、優秀な政治家がうまれない、強いリーダーがうまれないことにもなります。グローバルな競争を戦っている企業、スポーツ、スターで実力ではない親譲りのカンバンの2世、3世のトップはいません。

④ 中国の悪しき科挙制度をまねた官僚の世界も同じ。
東大卒の連中が国家公務員試験に受かっただけで、トコロテン式に階段をのぼり、外国語のできない外交官、金融の実務も経済専門知識もない、法学部卒の大蔵官僚、金融、経済のマスター、ドクターがすくなく金融専門家が少ない不思議な不思議な日銀、どの省庁もそろっての縦割り、2重3重のムダ構造、やたらに多い外郭団体、天下り組織、官僚天国・国民地獄国家の巨大腐敗・税金詐取の構造がこんかいのわずかな仕分けだけで明らかになりました。
⑤ 太平洋戦争勃発の前に、昭和天皇と軍部は米国から大陸からの軍の全面的な引き上げを要求されて、もしそんなことをすれば国内は内乱状態になると、陸軍の猛反発で石油の全面禁止による座して死を待つよりも、清水寺から飛び降りる気持で、山本五十六が書いたシナリオで、真珠湾攻撃のイチかバチかにかけたのです。
大元帥で統帥権をもった天皇そのものが軍部をコントロールできないという無責任体制となってしまいました。
⑥ 中国大陸、インドネシア、ベトナム、ビルマ、フィリピンから太平洋の南方の島々まで広大な地域を占領、戦線を拡大して、大東亜共栄圏を築いたものの、連合軍の本格的な反撃が始まると約1年後から、敗北に次ぐ敗北、「全滅」「玉砕」が当時のページ数の少ない紙面で、連日のように大きく報道されながら、「転進」「敵に大打撃」「撃沈、大破」などと、すりかえられ「勝った」「勝った」と大本営発表されたことは、よく知られています。
⑦ これまで過去10年以上の「日本経済の復活」「再生」「成長軌道にのせる」「元気な日本を取り戻す」などの掛け声ばかり政府の経済政策、経済計画は大本営発表そのもので、ことごとくしっぱいし、いまや太平洋戦争末期と同じ「お先まっくら」の状態なのです。今の日本の状況は国家倒産寸前です。超高齢化、少子化社会、人口減少、1000兆円近い国の借金、日本経済のお先真っ暗で、その面では第3の国難に直面しています。
⑧ ここで紹介するのは、山本五十六を間近にみたジャーナリストの証言です。
山本が昭和の最大の国家戦略立案者、リーダーだったのです。山本はハーバード大で学び、対米10年の海軍きってのアメリカ通でした。アメリカと戦って勝てるわけがないことを最もよく知ってい当時の日本で最高のグローバルインテリジェンスをもっていた山本に対米戦争立案の白羽の矢が立つとは、なんとも悲劇的なことです。
⑨ このケーススタディーをみながら、リーダーたるものおかにあるべきか、政治家、官僚(軍人)、ジャーナリスト、国民すべての人それぞれに、どう情報を読み取り、行動すべきなのか、対応すべきなのかー考えてみたいと思います。
⑩ 昭和史最大のリーダー山本の人格、行動、インテリジェンスをベテランの新聞記者が縦横に分析、解明しており、とても参考になります。                   
この講演は海軍黒潮会の生き残りで記者・萩原伯水(日経新聞OB・当時88歳)が『政治記者OB会』の平成6年度総会(同8月23日)で『山本五十六と米内光政―海軍裏面史―三国同盟に反対したが、滔々たる戦争のうず中へ』(『政治記者OB会報』平成6年8月23日 と題しての講演録の一部である。
大艦巨砲より航空戦略を重視・墓標にみる山本元帥像
海軍黒潮会記者・萩原伯水(元日経記者)
 私は春秋二度のお彼岸とお盆には、多摩墓地にある、山本元帥の墓にお参りしている。同基地の海軍墓所とも称すべき一隅には山本元帥の墓を中心に、右に東郷平八郎元帥、左に古賀峯一元帥の墓が並んでいる。そして山本元帥の墓には、戦死に当たって天皇陛下から下賜された辞(るい)が、碑に刻まれて立っている。
沈毅ノ性能ク大任二堰へ寛宏ノ度常二衆望ヲ負フ身ヲ持スル廉潔人二接スル譜和戎事二執筆シテ心力ヲ航空二牢ソ軍政二参量 シテ智術ヲ振武二放ス 出デテ 水師ヲ督スル善謀珠メ彼我ノ勢 ヲ審ニシ雄断克ク勝敗ノ機ヲ制 ス風行言動末ダ一歳ヲ経ザルニ 八タビ竹島ノ勲ヲ樹テ贅樽鵬撃 遠ク萬里二亙リテ両ナカラ空海 ノ橡ヲ撮ル戦局ノ方二甜ナル将 星遽二墜ツ 壮烈古ヲ壌シクシ珍悼殊二深シ寧l侍臣ヲ遭ハシ 博ヲ孝フシ臨ミ弔セシム
 元帥の生涯はこの辞の通りなのだが、元帥のかかわった経歴からすると生身の人間としてソフトな側面も多分にあり、一個の人間像として尊重されるべきものと思われる。
二・二六事件のあと 黒潮会へ入会
私が山本元帥にお目にかかったのは昭和一〇年一二月、元帥が海軍次官に就任されてからのことでる。当時大臣は永野修身大将、次官は長谷川 清中将だったが、三月の定期異動で長谷川次官が上海の夢二艦隊司令長官に転出し、その後に山本さんが次官に就任した。山本さんはそれまで海軍航空本部長として海軍航空の育成に情熱を傾けており、本人は航空本部の仕事継続を熱望していたが、永野大臣のたっての希望で次官就任となったものである。
私は黒潮会に入会したばかりで、海軍のことはなにも知らず、記者クラブの先輩にくっついて省内を歩き回っていたのであった。昭和二年といえば二・二六事件の年で、事件のあと私は社命で海軍省担当となったのだが、黒潮会への入会申込書を提出したものの、いっになっても認めてもらえず困り果てていた。当時黒潮会には在京各社の記者が詰めており、中には既に予備役だった末次信正大将を大尉のころから知っているという古参記者、大先輩が数名いて、これらの人々が承認しないと入会できないという事情があった。
 入会できない間でも、志望者は毎日記者クラブに出勤して社電の取り継ぎや弁当の注文など雑用係りを承ってサービスこれ努め、一方これを看視して忠勤振りを確めていた先輩連は一カ月も経つと「もういいだろう」と総会を開いて入会を認めるという具合であった。その代わり入会を認めたとなると、先輩が省内の要所要所に連れて行って紹介してくれたものであった。山本次官との出会いも多分そのようなことであったと思う。先輩のひとり読売新聞の等々力 栄記者は、紹介した相手を辞してあれは米のメシだヨーなどとよくいっていたものだ。その心は華やかさはないが噛めば噛むほど味が出るーというわけで、山本五十六、吉田善吾などはその中に入っていたと思う。
 海軍報道の刷新をはかる 山本次官、黒潮会を重視
 時あたかもさきのワシントン、ロードン両海軍条約の満期失効を目前にして世界は挙げて建艦競走に突入しようとしていた。各国ともこの点で神経をとがらし、相手国の動向を注視していた。山本次捕官もこの点をよほど憂慮されたらしく、就任早々海軍報道の在り方に手をつけ 

① 海軍に関する報道を誤らないこと
② 海軍軍事普及部の刷新

③ 黒潮会の重視=海雷情報は黒潮会を通じて行うを重点に刷新を図った。

これまで軍事普及部の委員長は予備役編入直前の将官ときまっていたが、それでは迫力がないので山本次官は委員長に現役のパリパリ比叡艦長 金沢正夫大佐を据え、軍令、軍政両面にわたって機密を知り、生きた報道ができるように近代化を図ったものである。
一方、黒潮会に対しては海軍のことは一切黒潮会を通じて公表することにし、極力海軍に関する情報が多岐にわたって流出するのを防ぐようにした。従って黒潮会との関係は緊密となり、代々の次官、局長で黒潮会に顔を出した人はなかったのに、山本次官はよくノコノコと記者クラブにやってきて、雑談をしたり将棋を指したりしていた。

また週にに何回かの記者会見も次官の重要な仕事の一つで、じっくり時間をかけて問答を交わし、いい加減にお茶をにごすようなことはなかった。
とくに支那事変が勃発してからは、正規の黒潮会員以外に地方紙の記者も出席すにようになり、見当はずれの質問や意見も出たが、山本次官は面倒くさがらず、いちいち丁寧に返答して正しく理解されるよう努めていた。それというのも海軍のことは全部黒潮会を通じて発表するという方針を貫くためで、この間の消息を物語る次のようなエピソードもあった。当時緒方竹虎といえば、朝日新聞の主筆として著名な人だった。その緒方さんがある日山本 に海軍のことを聞いた。すると 山本は「君の杜は黒潮会に人を出していないのか」 という。
 「いやとんでもない。常時数名 出している」 「そんならその人達に書いてくれ、僕は海軍のことは黒潮会を通じて発表することにしているンだ」

このように山本さんはぶっきら棒だったが、悪意はなかった。そして筋を通す人だった。記者会見でも、こんなことをきいてもいいのかと、こちらがいぶかる質問にも山本次官の答えは直裁簡明だった。省内の責任者らが機密事項としていることもあけすけに話した。だがそれだけではなく、イエスかノーかは答える。しかし信義は守れーというのが山本流の行き方だった。三国同盟に関する発言でも、歯にもの着せぬ反対論なので勇ましかった。それだけに敵も多かったように思う。

太っ腹だったエピソードの数々

次に掲げるのは福田 耕氏の話である。福田 耕といえば岡田啓介首相の秘書として二・二六事件の銃火の先礼を受けた有名な人だ。氏は昭和一三年上海眞如無線台と劉行の受信所修復のため華中電気株式会社の社長として大陸に赴任し、上海を拠点として占領地区の通信事業の復興に従事していた。ところが通信に絶対欠くことのできないトランスミッターがない。
当時の中国人は日本の技術水準を知らない。
 トランスミッターはどこの国の製品かときく。日本電気という会社の製品だというと、そうかも知れないがホントは何処ナンだときく。要は眞如無線台の無線電話開設のためのトランスミッターだからドイツから買えば安く、しかも早く着く、しかし私はドイツからは買わぬ、あくまで日本製を据えて中国人の蒙を開きたいということで、上京して山本次官に訴えた。

山本は軍令部第二第四部長、軍務局の関係者を次官室に集めて会議を開いてくれたが、会議中、山本は終始一言もいわない。私は憤慨して上海に帰った。ところが上海に着くと、山本から一通の電報が待っていた。「船橋海軍無線所に十五キロの通信機あり。それを使用あり度し」私はトンボ返りで再び上京、宿願を達してそれを現地に運んだ。 即刻東南亜の通信に使ったことはいうまでもない。ところでくれたのでもなく、貸したのでもない。ただ使っておれというだけだ。こんな太っ腹の芸当は、普通の軍人や会社経営者にできることではない。

黙っていたのはその間中、心当たりを探していたのに違いないと思うと憤慨したのが恥ずかしかった。以上は福田氏の喜寿の祝いを西園寺公ゆかりの興津の水口庭で開いた席上、福田氏が披露したものである。太っ腹といえば戦前のことだが、山本が霞ヶ浦航空隊の副長兼教頭の時、大雨による洪水が起こり周辺に住んでいた海事家族が困っていた。それを見て、公金五万円を支出して被害家族を救済したことなどー若い時から大胆なことをやってのけた語り草が残っている。この性向が後年の真珠湾攻撃に繋がっていると、いえなくもない。

山本次官の肝いりで練習艦隊に同乗
ワシントン、ロンドン両海軍条の失効を控えて、各国とも建艦競走に突入する形勢となり、わが国もご多分に洩れず日本海軍の第三次補充計画の1つとして
つとして軍令部か艦政本部に八インチ砲塔の新戦艦(大和、武蔵)の研究が要求されたのは昭和九年一〇月であった。
このような状況のもとに、海軍を担当する記者も、国際的な視野でものを見るようにならなければならない。それには練習艦隊に便乗させるのが一番よい ー ということになり、抽選の結果、読売新聞の等々力 栄君と私が選ばれた。
それはいいが六カ月にも及ぶ軍艦生活を覚悟しなければならない。健康状態はどうか、医務局で診てもらったところ、なんとか保つでしょうという。
山本次官の判定では「何か起こるまでは大丈夫」ということであった。この辺も山本式であった。当時の練習艦隊の編成は磐手、八雲の二艦から成り、司令長官は古賀峯一中将、磐手艦長は侯爵醍醐忠重大佐、八雲艦長は宇垣纏大佐で、兵学校を出たばかりの士官候補生首数十名を載せて六月横須賀を出港、基隆、マニラ、シンガポール、コロンボ、ジブチ、エスマイリア、イスタンブール、アテネ、バレルモ、ローマ、ナポリ、マルセーユと各国を訪問、帰途はマルセーユを出てアレキサンドリアに寄港、インドネシアのジャカルタを訪問の後一路横須賀に帰港という六カ月余にのぼる大旅行であった。この間国際知識を得たことはもちろんだが、この目でわが海軍を見るよう開眼されたことも大きな収穫だった。 このような観点から海軍全体に国際法の知識を普及させることが大切と考え、山本次官の肝いりで、時の海軍教授・榎本重冶氏が編集した「戦時国際法規要綱」を部内に配布したりした。次官自身も余程国際法を勉強したものと見え、支那事変の当初すなわち一二年八月、日本海軍機による駐支英大使ヒエーゲッセン氏誤爆事件、同年一二月の米艦バネー号撃沈事件の処理に当たり、厳しい国際世論にもかかわらずクレーギー英、グルー米大使と接衝を重ね円満解決をもたらしたのである。


「戦争記事」より「上海復輿」を取材
 練習艦隊から帰ると、休む間もなく私は海軍従軍記者として上海に赴任することになった。当時は動員令に次ぐ動員令の発動で、街は出征兵士と見送りで沸き返っており、新聞、雑誌、ラジオなども戦争報道一色で、愛国婦人会や国
防婦人会の柵が随所に目立つ有様だった。私も出発を前にやや興奮気味で、次官のところへ挨拶に行った。
次官日く「ああそうか、ご苦労だ。だが戦争の記事は一行も要らない。それより上海をどうするか、作戦上の必要からやむを得ず上海を壊してしまったが、あそこは国際都市で一日も早く復興させなければならない。それにはどうしたらよいか、それを見てきてくれ。」 私は一瞬頭から冷水を浴びせられた思いがした。なるほど、そういう考え方もあるものかと感嘆すると同時に、戦争報道のみに幻惑されていた自分が小さく、未熟なことを思い知らされ、反対に次官はただの軍人ではなく、スケール
の大きな卓抜した見識の持ち主だと感じた。冷静、沈着、熟慮、断行が次官のモットーだったが、あの沸き立った社会的雰囲気の中で冷静に戦後の方策を考えるとは偉いものだと痛感した。

その足で社に帰って編集局長の小汀利得さんに会って赴任の挨拶をした。ところが小汀さんいわく「君を上海に遣るのは、兵隊の真似をして前線に飛び出したり戦死したりなどするためではない。戦争の記事など書く必要はない。それより戦争の後始末が大変だ。上海へ行ったら、支那の幣制改革をやったリースロスの下で働いたエドワード・カーンという人がいる。その人に会って戦後の復興策を取材しろ・・・・・・」という。私は二度びっくりした。

山本次官といい小汀さんといい期せずして同じことをいっているのだ。
カーン氏に会って来意を告げ、上海復興についての意見を求めたところ、支那の幣制統一が蒋介石政権の強化に大いに役立ったことなどひとくだり述べたあと 戦争は勝っても負けても双方にとってロスだ。早く止めなければならぬ。
さあ大変だ、そんなことを書いたら直ぐ憲兵隊に引っ張られるだろう。しかし取材した以上記事にしないわけにはいかない。とにかく一本の原稿にまとめて本社に送った。一過ばかり経って送られてきた新聞を開いたら「戦争は双方に
損」という見出しで、私が書いた記事が四段で載っている。その筋の呼び出しが今日か明日かとひやひやしていたが結局なにもなかった。

ドイツ、イタリアは頼りになる相手ではない

山本元帥が信念の人だったことは有名だ。その証になる二つの事例を挙げたい。一つは三国同盟反対のことだ。山本はアメリカ駐在武官として二度もアメリカに駐在し、アメリカの軍備はもとよりその国の資源、工業力、国民感情などをよく知っており、米内は米内で第一次世界大戦とその後のロシア革命に至る欧州各国の情況を具さに見ており、独、伊は頼りになる相手でないことは百も承知だった。
日、独、伊防共協定は昭和一一年一月広田弘毅内閣の時調印された。その後大島浩武官とリッペントロップとの間で、有事の際の軍事援助まで規定しようとする議論がなされたが、防共協定から相互援助に至る全過程において、わが海軍の態度は初めから消極的だった。

それは日本が独、伊と同盟を結べば、日本と米、英との関係が悪化し、結局日本は米、英と戦わざるを得ない立場に追い込まれるというのだった。この見通しのもとに海軍の三国同盟反対は一貫していた。

航空本位をとなえー大艦巨砲主義に反対

もう一つの信念の発露は航空第一主義の戦略の主張である。ワシントン、ロンドン両海軍條約の満期失効に続いて起こる問題は建艦競争であった。わが国でも軍令部から施政本部に対し一八インチ砲塔の新戦艦、大和、武蔵級建艦の研究が要求されたのは昭和9年11月、この建艦を高等技術会議で決定したのは同一一年七月であった。これに対し猛然と反対したのは、当時航空本部長だった山本五十六中将だった。
その論拠は巨舷を造っても不沈はあり得ない。将来の飛行機の攻撃力は非常に威力が増大し、砲戦が行われる前に飛行機の攻撃により撃破されるから、今後の戦闘には戦艦は無用の長物になる。というものであった。しかし長年培われた海軍の伝統である海軍首脳部の大艦巨砲主義は崩せなかった。

山本の航空第一主義の戦略思想はいつごろ生じたのか、山本は大正八年には米国の国情研究のため、また大正一四年には駐米大使館付武官として、二度にわたってアメリカに駐在した。当時は第一次世界大戦の終了後で、欧米では戦略思想が海戦主義から航空本位のものに変わりつつあり、特に英、米、仏、独が中心をなしていた。この欧米戦略思想の変化が山本に影響したことは否めない。

帰国後彼は海軍大学教官に補せられたが、ここで彼は航空第一主義をかざして
日本将来の国防は航空第一主義でなければならぬことを力説したのである。将来の海上決戦は、従来のような観舷式的な軍艦をならべた戦いではなく、航空戦だというのが彼の主張だった。
 山本は大正一三年一二月霞ケ浦航空隊の副長兼教頭に就任した。ここで彼は実技的な海軍航空と取り組むことになった。技術畑出身でない彼が科学的な研究を続けるにはかなりの苦心があったに相違ない。
大佐で副長兼教頭の彼は下士官、兵と一しょに机を並べて教青を受けた。運用術、機銃の操作、通信その他全般にわたって教育を受けた。無類の頑張り産と、何事でも徹底的に研究しつくさねぼやまぬ性向とで、霞ケ浦航空隊在勤

一年有半は山本にとって貴重な経験の連続だったようだ。

 後年彼が次官の時、ある日黒潮会員一〇名ばかりが霞ケ浦航空隊見学に出かけた。次官のお声がかりであることはもちろんだ。時の司令は片桐英吉中将だった。到着してひと休みしたころ隊員が来て、準備ヨロシッ!と叫んだ。何事ならんと思いきや、われわれが案内されて外へ出てみると練習機が立ち並び操縦負も立っている。さあ…‥こちらへと否も応もなく機に乗せられた。
一機また一機と爆音を轟かせて大空に飛び上がる。紺碧の霞ケ浦は目の前だ。しばらく飛んでいると機はグラリと横転した。必死に起きようともがくがどうにもならない。
次の瞬間、こんどは逆の横転、その次はグウンと突っ込んだと思うといきなり宙返りだ。突っ込む時と宙返りの時の胸にかかる強圧が苦しかった。最後はキリもみでペ夕べタと音がしたと思ったまではいいが、あとは意識がなくなり、気がついたら霞ケ浦の青い水面がすぐ目の下にあった。ようやくホッとしたが、次々と下り立った仲間の中にはすぐにへドを吐く者もおり、霞ケ浦航空隊見学は全く”有効″だった。
 霞ケ浦航空隊勤務のあと山本は 昭和四年暮れ少将に進級、同五年一二月航空本部技術部長に補せられ、ここに初めて航空兵力の整備、実験、研究機関の充実に本腰を入れる端緒を得た。この間の任務は
 ①航空技術陣の刷新 ②民間委託会社の覚醒 ③木製機から全金属製の高性能梯化 ④すべてを国産品で ー の実現であった。
 その後、第一航空戦隊司令官として外に出、昭和九年にはロンドン軍縮会議の日本代表をつとめるなど前後五年余の要職を経て、昭和一〇年一二月海軍航空本部長に就任した。そして次官就任までの一年間にかつて技術部長時代に企図した諸計画が軌道に乗り、目覚ましい進歩を遂げた。
その証拠には支那事変の勃発後は内地の基地から南支那海を渡って中国本土を攻撃するいわゆる渡洋爆撃すら可能になったのである。
 
                           (つづく)

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